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ファラデーの伝 電気学の泰斗
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ファラデーの伝 電気学の泰斗
愛知敬一
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Chapter 4 of 14

中年時代

一九 帰国後のファラデー

ファラデーは再び王立協会に帰って、以前と同じ仕事をやりだしたが、ファラデーその人はというと旧阿蒙ではなかった。ファラデーにとっての大学は欧洲大陸であって、ファラデーの先生は主人のデビーや、デビーの面会した諸学者であった。

この頃は英国と大陸との交通がまだ少ない時代であったから、外国の学者に知り合いの出来たことは非常に都合が好く、自分の研究を大陸に知らせるにも非常な便宜を得た。ことにフランスではアカデミー(Academie)の出来たてで、その会員の人々にも心易くなった。

一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド(一千円)となった。

今日に残っている実験室の手帳を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授となって研究だけは続けておった。

二〇 デビーの手伝い

この頃デビーはの研究をしていた。これは鉱山で、よくガスが爆発して、礦夫の死ぬのを救わんため、安全灯を作ろうという計画なのである。ファラデーもこれを手伝った。デビーの安全灯の論文の初めにも、「ファラデー君の助力を非常に受けた」と書いてある。

デビーは金網を用いて火を包み安全灯を作ったが、一八一六年には礦山で実地に用いられるようになった。しかしこの安全灯とても、絶対に安全という訳には行かない。議会の委員が安全灯を試験した際にも、ファラデーはこの由を明言した。ファラデーは先生のデビーにはどこまでも忠実であったが、しかし不正を言うことは出来ない人であった。

ファラデーはデビーの実験を助ける外に、デビーの書いた物をも清書した。デビーは乱雑に字を書くし、順序等には少しも構わないし、原稿も片っ端しから破ってしまう。それでファラデーは強いて頼んでその原稿を残して置いてもらい、あとで二冊の本に製本した。今日に保存されている。

二一 自分の研究

これまでのファラデーは智識を吸収する一方であったが、この頃からボツボツと研究を発表し出した。初めて講演をしたのは一八一六年の一月十七日で、市科学会でやり、また初めて自分の研究した論文を出したのもこの年で、「科学四季雑誌」(Quarterly Journal of Science)に発表した。講演は物質に関するもので、論文は生石灰の分析に就いてである。いずれもそう価値のあるものではない。

しかし、これは特筆に値いするものというて宜かろう。ささやかなる小川もやがては洋々たる大河の源であると思えば、旅行者の一顧に値いするのと同じく、ファラデーは講演者として古今に比いなき名人と謂われ、また研究者としては幾世紀の科学者中ことに群を抜いた大発見をなした偉人と称えられるようになったが、そのそもそもの初めをたずねれば、実にこの講演と研究とを発端とするからである。

かくファラデー自身が研究を始めることになって見ると、デビーの為めに手伝いする部分と、自分自身のために研究する部分との区別がつきにくくなり、これがため後には行き違いを生じたり、妬みを受けたりした。しかし初めの間はまだ左様なこともなく、一八一八年頃デビーが再び大陸に旅行しておった留守にも、ファラデーは実験室で種々の研究をし、ウエストの新金属というたシリウムを分析して、鉄、ニッケル、硫黄から成ることを発表し、またベスチウムなる金属を分析しては「既知の元素を順次に取り去れば、ベスチウムは無くなってしまった」というた。

一方で研究をすると同時に、他方では講演も上手になろうと苦心し、スマート氏について雄弁術の稽古をし、一回に半ギニー(十円五十銭)の謝礼を払ってやった位、熱心であった。

二二 研究の続き。電磁気廻転

その後ファラデーは結婚した。この事は後にくわしく述べるとして、引きつづいてファラデーのしておった仕事について述べよう。

ファラデーの仕事は、ブランド教授が講義に見せる実験の器械を前以て備え置き、時間が来ると教授の右方に立って、色々の実験をして見せる。講義のない時は、化学分析をしたり、新しい化学の薬品を作ったり、また暇には新しい研究もした。

この数年間にやった新しい研究を述べると、まず塩素の研究をした。しかし、臭い黄色いガスを室の内に撒き散らすのではなくて、炭素と化合させたり、または液体にして、伝染病の消毒に使うというような事をした。次にはヨウ素を研究した。やはり炭素や水素と化合させた。またナフサリンを強い酸に溶したりした。鋼鉄の堅くて錆びないのを作ろうと工夫して、白金だの、その他の金属を少しずつ加えて見たが、これは成功しなかった。一番成功したのは電磁気廻転の実験であった。

一八二〇年にエールステッドが電流の作用によりて磁針が動くのを発見したのが初まりで、電流と磁石との研究が色々と始まった。その翌年にファラデーは、電流の通れる針金を磁極の囲りに廻転させる実験に成功した。これは九月三日の事で、ジョージ・バーナードというファラデーの細君の弟も手伝っておったが、それがうまく行ったので、ファラデーは喜びの余り、針金の廻る傍で踊り出してしまい、「廻る! 廻る! とうとう成功したぞ!」といった。「今日の仕事はこれで切り上げ、どこかに行こう。どこがよい。」「アストレーに行って、曲馬でも見よう」と、大機嫌でバーナードを連れてアストレーに行った。これまでは宜かったが、土間の入口で大変に込み合い、大きな奴がバーナードを押しつけた。不正な事の少しも辛棒できないファラデーの事とて、とうとう喧嘩になりかけた。

この頃ファラデーの道楽は、自転車のようなベロシピードというものを造って、朝はやく郊外のハムステッド岡のあたりに出かけたり、夕方から横笛を吹いたり、歌を唄う仲間と一週に一回集ったりした。彼はバスを歌った。

二三 サンデマン宗

キリスト教の宗派はたくさんあるが、そのうちで最も世の中に知られないのはサンデマン宗であろう。

一七三〇年頃にスコットランドのプレスビテリアン教会の牧師にジョン・グラスという人があった。教会はキリストと使徒との教えのみにより支配さるべきもので、国教という様になりて国家と関係をつけるのは間違っている。吾等も新約聖書にあるだけ、すなわち初期のキリスト教徒の信じただけを信ずべきであると説いた。グラスと婿のサンデマンとがこの教旨を諸方に広めたので、この宗をグラサイトとも、またサンデマニアンともいう。

大体の教義については、清教徒に近く、礼拝の形式においてはプレスビテリアンに似ている。しかしこの宗の信者は他の教会と全く不関焉で、他宗の信者を改宗させるために伝道するというようなこともしない。それゆえ余り盛んにもならないでしまった。

ファラデーの父のジェームスがこの教会に属しており、母も(教会には入らなかったが)礼拝に行った関係上、まだ小児の時から教会にも行き、その影響を受けたことは一と通りではなかった。

二四 サラ・バーナード嬢

この教会の長老にバーナードという人があって、銀細工師で、ペーターノスター・ローという所に住んでおった。その次男のエドワードとファラデーは親しかったので、その家に行ったりした。エドワードの弟にジョージというのがあり、後に水彩画家になった人だが、この外に三人の妹があった。長女はもはやかたづいてライド夫人となり、次女はサラといいて、妙齢二十一才、三女のジェンはまだ幼い子であった。ファラデーは前から手帖に色々の事を書いておったが、その中に「愛」を罵った短い歌の句などもたくさんあった。

ところが、これをエドワードが見つけて、妹のサラに話した。サラはファラデーに何と書いてあるのか見せて頂戴なと言った。これにはファラデー閉口した。結局それは見せないで、別に歌を作って、前の考は誤りなることを発見したからと言ってやった。これはその年(一八一九年)の十月十一日のことである。この頃からファラデーは、すっかりサラにまいってしまった。

時に、手紙をやったが、それらのうちには中々名文のがある。翌年七月五日附けの一部を紹介すると、

「私が私の心を知っている位か、否な、それ以上にも、貴女は私の心を御存知でしょう。私が前に誤れる考を持っておったことも、今の考も、私の弱点も、私の自惚も、つまり私のすべての心を貴女は御存知でしょう。貴女は私を誤れる道から正しい方へと導いて下さった。その位の御方であるから、誰なりと誤れる道に踏み入れる者のありもせば導き出さるる様にと御骨折りを御願い致します。」

「幾度も私の思っている事を申し上げようと思いましたが、中々に出来ません。しかし自分の為めに、貴女の愛情をも曲げて下さいと願うほどの我儘者でない様にと心がけてはおります。貴女を御喜ばせする様にと私が一生懸命になった方がよいのか、それとも御近寄りせぬでいた方がよいのか、いずれなりと御気に召した様に致しましょう。ただの友人より以上の者に私がなりたいと希い願ったからとて、友人以下の者にしてしまいて、罰されぬようにと祈りております。もし現在以上に貴女が私に御許し下さることが出来ないとしても現在私に与えていて下さるだけは、せめてそのままにしておいて下さい。しかし私に御許し下さるよう願います。」

二五 結婚

サラはこの手紙を父に見せると、父は一笑に附して、科学者が、馬鹿な事を書いたものだといった。ファラデーは段々と熱心になる。サラは返事に困って躊躇し、※のライド夫人とラムスゲートの海岸へ旅行に行ってしまった。ファラデーは、もうジッとしてはいられない。追いかけて行って、一緒にドーバーあたりで一日を送り、愉快に満ちた顔して帰って来た。ついに一八二一年六月十二日に結婚した。

式の当日は賑やかなことや、馬鹿騒ぎはせぬ様にし、またこの日が平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった。しかし実際においては、この日こそファラデーに取って、生涯忘るべからざる日となったので、その事はすぐ後に述べることとする。

結婚のすぐ前に、ファラデーは王立協会の管理人ということになり、結局細君を王立協会の内に連れて来て、そこに住んだ。しかし舅のバーナードの死ぬまでは、毎土曜日には必ずその家に行って、日曜には一緒に教会に行き、夕方また王立協会へ帰って来た。

ファラデーの真身の父は、ファラデーがリボーの所に奉公している中に死んだが、母はファラデーと別居していて、息子の仕送りで暮し、時々協会にたずね来ては、息子の名声の昇り行くのを喜んでおった。

ファラデーは結婚してから一ヶ月ばかりして、罪の懺悔をなし、信仰の表白をして、サンデマン教会にはいった。しかしこの際に、細君のサラには全く相談しなかった。もっとも細君は既に教会にはいってはおった。ある人が何故に相談しなかったときいたら、それは自分と神との間のみの事だから、と答えた。

二六 幸福なる家

ファラデーには子供が無かった。しかし、この結婚は非常に幸福であった。年の経つに従って、夫妻の愛情はますます濃やかになるばかりで、英国科学奨励会(British Association of the Advancement of Science)の年会があって、ファラデーがバーミンガムに旅行しておった時も、夫人に送った手紙に、

「結局、家の静かな悦楽に比ぶべきものは外にない。ここでさえも食卓を離れる時は、おん身と一緒に静かにおったらばと切に思い出す。こうして世の中を走り廻るにつけて、私はおん身と共に暮すことの幸福を、いよいよ深く感ずるばかりである。」

ファラデーは諸方からもらった名誉の書類を非常に大切に保存して置いた。今でも王立協会にそのままある。各大学や、各学会からよこした学位記や賞状の中に、一つの折紙が挟んである。

「一八四七年一月二十五日。」

これらの記録の間に、尊敬と幸福との源として、他のものよりも一層すぐれたものを挟んで置く。余等は一八二一年六月十二日に結婚した。

ファラデー」 またチンダルの書いたファラデー伝には、「これにも優りて、雄々しく、清らかなる、不変の愛情他にあるべきや。宛も燃ゆるダイヤモンドのその如く、四十六年の長きに亘りて、煙なき、純白の光を放ちつつ燃えぬ」

と、美しい筆致で描かれてある。

ファラデーは結婚後、家庭が極めて幸福だったので、仕事にますます精が出るばかりであった。前記の市科学会はもはやつぶれたので、友人のニコルの家へ集って、科学の雑誌を読んだりした。

一八二三年には、アセニウム倶楽部ができた。今のパル・マルにある立派な建物はまだなくて、ウォータールー・プレースの私人の家に、学者や文学者が集ったので、ファラデーはその名誉秘書になった。しかし、自分の気風に向かない仕事だというので、翌年辞した。

二七 ローヤル・ソサイテーの会員

デビーはファラデーの書いたものの文法上の誤を正したり、文章のおかしい所をなおしたりしてくれた。一八二二年に塩素を液化したときのファラデーの論文も、デビーはなおした上に附録をつけ、自分が実験の方法を話したことも書き加えた。しかし、ファラデーの要求すべき領域内に立ち入るようなことはなかった。ただ事情を知らない人には、こうした事もとかく誤解を生じ易い。

すでに二、三年前に電磁気廻転を発見した時にも誤解が起った。ファラデーが発見した以前、ウォーラストンがやはり電磁気廻転のことを考えておった。しかし、ファラデーのとは全く別のものであった。それにも関わらずウォーラストンの友人のワルブルトン等は同じものだと誤解しておった。

この塩素の液化の発見の後に、ファラデーはローヤル・ソサイテーの会員になろうと思った。会員になるには、まず推薦書を作って、既に会員たる者の幾名かの記名を得てソサイテーに提出する。ソサイテーでは引き続きたる、十回の集会の際に読み上げ、しかる後に投票して可否を決するのである。ファラデーのは、友人のフィリップスがこの推薦書を作り、二十九名の記名を得て、一八二三年五月一日に会に提出した。しかし、デビー並びにブランドの記名が無かった。多くの人は、デビーは会長であり、ブランドは秘書だからだと思った。

しかし、後にファラデーが人に話したのによると、デビーはこの推薦書を下げろとファラデーに言った。ファラデーは、自分が出したのではない、提出者が出したのだから、自分からは下げられないと答えた。デビーは「それなら、提出者に話して下げろ。」「いや、提出者は下げまい。」「それなら、自分はソサイテーの会長だから、下げる。」「サー・デビーは会長だから、会の為めになると思わるる様にされたらよい。」

また、提出者の話にも、ファラデーを推薦するのはよくないという事をデビーが一時間も説いた。こんな風で、その頃のデビーとファラデーとの間はとかく円満を欠いておった。しかしその後になって、段々とデビーの感情もなおり、また一方で、ウォーラストンの誤解も分明になって、結局ただ一つの反対票があったのみで、翌一八二四年の一月八日に名誉ある会員に当選した。

デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもとのようにやさしく無かった。やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後逝くなった。

二八 講演

一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理をして好評を博した。これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。一八二五年二月には、王立協会の実験場長になった。ブランドはやはり化学の教授であった。

ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。後になっては、金曜日の夜に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。

この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。これも今日残っている。

また木曜日の午後には、王立協会の委員会があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。

一八二七年のクリスマスには、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。この手扣も今日まで保存されてある。これが有名な「クリスマスの講演」というのである。

この年、化学教授のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。

これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った。

一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師となり、一年に二十回講義を引き受けた。たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。講師としては非常に評判がよかった。一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。

二九 協会の財政

この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。しかし、王立協会の財政は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。

それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見をした。この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)。これは減ずることは出来ない。またファラデーの熱心や能力に対して気の毒ではあるが、王立協会のただ今の財政では、これを増す余地は絶対にない」ということが書いてある。

しかしその翌年に、下院議員のジョン・フーラーという人が金を寄附してくれて、新たに化学の教授を置くこととなり、ファラデーを終身官として、これを兼任させた。その年俸百ポンドで、今までの俸給の上にこれだけ増俸した事になった。実験費もいくぶん楽になった。その後に俸給もまた少し増した。

ファラデーが年を取りて、研究や講演が出来なくなっても、王立協会の幹事は元通りファラデーに俸給も払い、室も貸して置いて、出来るだけの優遇をした。

実際、王立協会はファラデーが芽生で植えられた土地で、ここにファラデーは生長して、天才の花は爛漫と開き、果を結んで、あっぱれ協会の飾りともなり、名誉ともなったのであるから、かく優遇したのは当然の事と言ってよい。

三〇 ファラデーの収入

しかし、年俸一百ポンドと室と石炭とロウソク。これがその頃のファラデーの全収入であったか。否、ファラデーは前から内職に化学分析をしておったので、これがよい収入になっていた。一八三〇年には、この方の収入が一千ポンドもあった。そしてこの年に、電磁気感応の大発見をしたのである。

それでファラデーは、自然界の力は時として電力となり、時として磁力となり、相互の間に関係がある。進んでこの問題を解いて大発見をしようか。それともまた、自分の全力をあげて、富をつくるに集中し、百万長者となりすまそうか。富豪か、大発見か。両方という訳には行かぬ。いずれか一方に進まねばならぬ。これにファラデーは心を悩ました。

結局、ファラデーの撰んだ途は、人類のために幸福であった。グラッドストーンの言ったように、「自然はその秘密を段々とファラデーにひらいて見せ、大発見をさせた。しかしファラデーは貧しくて死んだ。」

三一 千五百万円の富豪

チンダルが書いた本には、このときの事情がくわしく出ている。収入の計算書までも調べたところが中々面白いので、多少重複にはなるが、そのままを紹介しよう。

「一八三〇年には、内職の収入が一千ポンド以上あった。翌年には、もっと増すはずであった。もしファラデーが増そうと思ったら、その翌年には五千ポンドにすることは、むずかしくは無かったろう。ファラデーの後半生三十年間は、平均この二倍にも上ったに相違ない。

「余がファラデーの伝を書くに際して、ファラデーの「電気実験研究」を繰りかえして見た。そのときふと、ファラデーが学問と富との話をしたことがあるのを想い起した。それでこの発見か富豪かという問題がファラデーの心に上った年代はいつ頃であったのか、と考え出した。どうも一八三一、二年の頃であるらしく思われた。なぜかというと、この後ファラデーのやった様に、盛んに発見をしつつ、同時に内職で莫大の収入を得るということは、人力の企て及ぶ所でないからだ。しかし、それも確かでないので、ファラデーの収入書が保存されてあるのを取り出して、内職の収入を調べて見た。

「案の定、一八三二年には収入が五千ポンドに増す所か、千九十ポンド四シリングから百五十五ポンド九シリングに減じている。これから後は、少し多い年もあり少ない年もあるが、まずこの位で、一八三七年には九十二ポンドに減り、翌年には全く無い。一八三九年から一八四五年の間には、ただの一度を除いては二十二ポンドを越したことがない。さらにずっと少ない年が多い。この除外の年というのは、サー・チャールズ・ライエルと爆発の事を調べて報告を出した年で、百十二ポンドの総収入があった。一八四五年より以後、死ぬまで二十四年の間は、収入が全くない。

「ファラデーは長命であった。それゆえ、この鍛冶職の子で製本屋の小僧が、一方では累計百五十万ポンド(千五百万円)という巨富と、一方では一文にもならない科学と、そのいずれを撰むべきかという問題に出会ったわけだが、彼は遂に断乎として後者を撰んだのだ。そして貧民として一生を終ったのだ。しかしこれが為め英国の学術上の名声を高めたことは幾許であったろうか。」

もっともこの後といえども、海軍省や内務省等から学問上の事を問い合わせに来るようなことがあると、力の許す限りは返答をした。一八三六年からは、灯台と浮標との調査につきて科学上の顧問となり、年俸三百ポンドをもらった。

三二 年金問題

一八三五年の初めに、総理大臣サー・ロバート・ピールは皇室費からファラデーに年金を贈ろうと思ったが、そのうちに辞職してしまい、メルボルン男が代って総理となった。三月にサー・ジェームス・サウスがアシュレー男に手紙を送って、サー・ロバート・ピールの手元へファラデーの伝を届けた。ファラデーの幼い時の事が書いてある所などは、中々振っている。「少し財政が楽になったので、妹を学校にやったが、それでも出来るだけ節倹する必要上、昼飯も絶対に入用でない限りは食べないですました」とか、また「ファラデーの初めに作った電気機械」の事が書いてある。ピールはこれを読んで、すっかり感心し、こんな人には無論年金を贈らねばならぬ、早くこれが手に入らないで残念な事をしたと言った。

ところが、サー・ジェームス・サウスは再びこの伝記をカロリン・フォックスに送って、この婦人からホーランド男の手を経て、メルボルン男に差し出した。

初めにファラデーはサウスに、やめてくれと断わりを言ったが、ファラデーの舅のバーナードが宥めたので、ファラデーは断わるのだけはやめた。

この年の暮近くになって、総理大臣メルボルン男からファラデーに面会したいというて来た。ファラデーは出かけて行って、まずメルボルン男の秘書官のヤングと話をし、それからメルボルン男に会うた。ところがメルボルン男はファラデーの人となりを全く知らなかったので、いきなり「科学者や文学者に年金をやるということはもともとは不賛成なのだ。これらの人達はいかさま師じゃ」と手酷しくやっつけた。これを聞くやファラデーはむっと怒り、挨拶もそこそこに帰ってしまった。もしやメルボルン男が年金をよこす運びにしてしまうといけないと思うて、その夜の十時にメルボルン男の所へ行って断り状を置いて来た。

事件はこれで落着しなかった。ファラデーの友人はこの話をきいて怒り、ファラデーの知らない間に、この面会の顛末を「フラザー雑誌」に出し、それがまた十一月二十八日の「タイムス」に転載された。英王ウイリアム四世も棄てて置けなくなって、仲裁にはいられ、十二月二十四日にファラデーは三百ポンドの年金を受けることになった。

Chapter 4 of 14
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