5
もうそこにはマラーはいない。醜い死骸になって、浴槽から半身を乗りだしたまま、その胸は短剣に貫かれて横わっている。カンヌから来たという美しい処女シャーロット・コルデーは血の気の失せた唇から「私は自分の仕事を仕遂げてしまった。今度はあなた方の仕事をする番が来た」と言いながら、悪魔のように殺気立った群衆に取り囲まれて保安裁判所に引かれていく……
仏国革命に現われでる代表的人物の中でことに気に入ったマラーの最後のありさまは、これだけ込み入った光景をただ一瞬間に集めて、ともすれば西山の頭にまざまざと浮びでた。それは西山にとってはどっちから見てもこの上なく厳粛な壮美な印象だった。西山はしばしばそれに駆りたてられた。
「そうかなあ」と森村が言ったあとに、言い合わしたような沈黙が来た。その時西山の頭をこの印象が強く占領した。
「西山は本当に東京に行くつもりなのか」
睫の明かなくなったような眼の上に皺を寄せながら森村は西山の方に向いた。それが部屋の沈黙をわずかに破った。西山は声よりも首でよけいうなずいた。今までのばか騒ぎに似ず、すべての顔には今までのばか騒ぎに似ぬまじめさと緊張さとが描かれた。
「学資はどうする」
渡瀬が泣きだすとも笑いだすともしれないような顔をした。稀にではあるが彼もその奇怪な性格の中からみごとなものを顔まで浮きださせることがある。その時の顔だ。
西山はそれを感ずると妙に感傷的にさせられていた。
「労働者になるつもりでいればどうにかなるだろう」
もう一度長い沈黙が来た。
「貴様は夢を見ているんじゃあるまいな」
と渡瀬がついに本気になって口を開き始めた。
「今日の演説を聞きながらもそう思ったんだが、社会運動なんてことは実際をいうと、余裕のある人間がすることじゃないかな。ブルジョア気分のものじゃないかな。俺なんかはそんなことは考えもしないがなあ。学問だって俺ゃ勘定ずくでしているんだ。むりでも何んでも大学程度の学問だけはしておかないと、これからはうそだと思うもんだから俺はこうやっているんで、学問の尊厳なんて、そんなものがあるもんかい。それは余裕のある手合いがいうことだ。照り降りなしに一生涯家族まで養おうというにはこれが一番元資のかからない近道なんだ。俺にはそれ以上を考える余裕はないよ。俺と同じ境遇の人間を救ってやるの、来るべき時代をどうするのというような余裕は俺には正直なところ出てこないよ。……貴様このカアライルにでもかぶれているととんだ間違いになるぜ。貴様の考えはばかに平民的だが、考え方……考えじゃない、考え方だ……その考え方にどこかブルジョア臭いところがあるんじゃないかなあ」
人見はおかしな男だった。西山には何んとなく気を兼ねていたが、西山がどうかすると受身になりたがるガンベの渡瀬に対してつけつけと無遠慮をいった。つまり三人は三すくみのような関係にあったのだ。
「新井田の細君の所に行って酒ばかり飲んでうだっているくせに余裕がないはすさまじいぜ」
「貴様はそれだからいけねえ。あれも勘定ずくでやっている仕事なんだ。いまに御利益が顕われるから見てろ」
「じゃここに来て油を売るのも勘定ずくなのか」
「ばかあいえ。俺だって貴様、俺だって貴様……とにかく貴様みたいな偽善者は千篇一律だからだめだよ……なあ西山」
牡蠣のような片目が特別に光って西山の方に飛んできた。不思議だった。西山は涙を感じた。
森村が眠そうな顔をしながら会心の笑みのようなものを漏らした。そしてしびれでも切らしたようにゆっくり立ち上って、ろくろく挨拶もせずに帰っていった。十時近いことが知れた。森村はどんなことがあっても十時にはきっと寝る男だったから。西山の演説を主題にして論じようといっておきながら、知らん顔をして帰っていった。
「ガンベのいうことはそりゃあんまり偽悪的じゃないか。そうだろう。俺が今日いったような考えはすべての階級の人間が多少ずつは持ってるんだ。そう俺は思うな――というより断言できる。俺は何しろ星野に今日の演説を聞いてもらいたかった。とにかく俺はやってみる。こんな処で神妙に我慢していることはもう俺には、どうしてもできんよ。ちっとやそっとの横文字の読める百姓になったところで貴様、それが何んの足しになるかさ。東京に行ってひとつ俺は暴れ放題に暴れるだ。何をやったっても人間一生だ。手ごたえのある処にいって暴れてみないじゃ腹の虫が承知しないからな。けれどもだ。ペンタゴンなんか相手にしていたんじゃなあ……柿江なんぞも、田舎新聞にひとりよがりな投書ぐらい載せてもらって得意になっていないで、ちっと眼を高所大所に向けてみろ。……何んといってもそこに行くと星野は話せるよ」
ガンベは実際どこかに堅実なところがあって、それが言葉になるとうっかり矢面には立てなかった。今の言葉にも西山はちょっとたじろいたので、いっそう心の奥のありさまそのままを誰を相手ともなくいい放った。それはかえって彼の心をすがすがしくした。そして演壇に立って以来鎮まらずにいる熱い血液が、またもや音を立てて皮膚の下を力強く流れるのを感じた。
西山は奇行の多い一人の暴れ者として教師からも同窓からも取り扱われ、勉強はするが、さして独創的なところのない青年として見られているのを知っていた。彼は何んとなくその中に軽侮を投げられているような気がして、その裏書を否定するような言動をことさらに試みていたのだが、今日の演説と今の言葉とで、それをはっきり言い現わしたのを感じた時、心臓へのある力の注入を自覚せずにはいられなかった。生涯の進路の出発点が始めて定まったと思えた。彼の周囲が彼を見なおしたのは、彼が彼の周囲を見なおす結果になっていた。たとえばおたけだ。おたけが星野に対して特別な好意を示すのを見極めたある夜に、彼は一晩じゅう寝なかったことがあった。愚かな屈辱……ところが今日は人見がおたけを意識しながら彼の演説の真似をしたりするのを見ると、ある忌わしい羨望の代りに唾棄すべき奴だと思わずにはいられなくなっていた。女性――彼を待っている女性は一人よりいない。そしてその一人はおたけなどとどの点においても比較になるような人ではなかった。それがゆえに彼の未来を切り開いて、自分の立場に一日でも早く立ち上がろうとする焦躁は激しくなった。万事につけて彼の気持はそんな風に動いていった。
突然柿江が能弁になった。彼が能弁になるのは一種の発作で、無害な犬が突然恐水病にかかるようなものだ。じくじくと考えている彼の眼がきゅうに輝きだして、湯気を立てんばかりな平べったい脂手が、空を切って眼もとまらぬ手真似の早業を演ずる。そういう時仲間のものは黙ってそれが自然に収まるのを待っているよりほかはない。彼は貧乏ゆすりをしながら園から受取った星野の葉書を手脂だらけにして丸めたり延ばしたりしていた。それを棒のように振り廻わし始めた。
高所大所とはいったい何を意味するつもりだというところから柿江は始めた。高所は札幌の片隅にもある、大所は女郎屋の廻し部屋にもあると叫んだ。よく聞けよく聞けといって彼はだんだん西山の方に乗りだしていった。西山は自分の机に腰をかけたまま受太刀になってあっけに取られてそれを眺めていなければならなかった。
「教授の手にある講義のノートに手垢が溜まるというのは名誉なことじゃない。クラーク、クラークとこの学校の創立者の名を咒文のように称えるのが名誉なことじゃない。当世の学問なるものが畢竟何に役立つかを考えてみないのは名誉なことじゃない。現代の社会生活の中心問題が那辺にあるかを知らないのは名誉なことじゃない。それを知って他を語るのはさらに名誉なことじゃない。日清戦争以来日本は世界の檜舞台に乗りだした。この機運に際して老人が我々青年を指導することができなければ、青年が老人を指導しなければならない。これでありえねばあれだ。停滞していることは断じてできない。……言葉は俺の方が上手だが、貴様もそんなことを言ったな。けれども貴様、それは漫罵だ。貴様はいったい何を提唱した。つまりくだらないから俺はこんな沈滞した小っぽけな田舎にはいないと言うただけじゃないか。なるほど貴様は社会主義労働運動の急を大声疾呼したさ。けれども、貴様の大声疾呼の後ろはからっぽだったじゃないか。そうだとも。よく聞け。ガンベの眼玉みたいなもんだ。神経の連絡が……大脳と眼球との神経の連絡が(ガンベが『貴様は』といって力自慢の拳を振り上げた。柿江は本当に恐ろしがって招き猫のような恰好をした)乱暴はよせよ。……貴様の議論には、その議論を統一する哲学的背景がまったく欠けてるんだ。軽薄な……」
「何が軽薄だ。軽薄とは貴様のように自分にも訳の判らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴わないのを軽薄というんだ。けれどもだ、俺はとにかく実行はしているぞ。哲学はその後に生れてくるものなんだ」
西山は軽薄という言葉を聞くと癪にさわったが、柿江の長談義を打ち切るつもりで威かし気味にこういった。
けれども柿江はほとんど泥酔者のようになってしまっていた。その薄い唇は言葉を巧妙に刻みだす鋭い刃物のように眼まぐるしく動いた。人見はいつの間にかこそこそと二階の自分の部屋に行ってしまった。
そこに園が静かにはいってきた。夜寒で赤らんだ頬を両手で撫でながら、笑みかけようとしたらしかったが、少し殺気だったその場の様子にすぐ気がついたらしく、部屋の隅をぐるっと廻って窓の方に行って坐った。
柿江はまだ続けていた。西山はもう実際うるさくなった。自分の生活とは何んの関係もない一つの空想的な生活が石ころのようにそこに転がっているように思った。
「寒いか」
戸外の方を頤でしゃくりながら、柿江には頓着なく園に尋ねた。
その拍子に柿江がぷっつりと黙った。憑いていた狐が落ちでもしたように。そしてきまり悪るげにそこにいた三人の顔に眼を走らすと慌てて爪を噛みはじめた。
「渡瀬君まだいたんだね。僕はもし帰ってしまうといけないと思ってかなり急いだ」
「おたけさんから何か伝言があったろう」
「いいえ」
園はまるでおとなしい子供のようににこついた。
「柿江君さっきの葉書はどうしたろう。渡瀬君に見せてくれたの」
笑うべきことが持ち上っていた。星野の葉書は柿江の手の中に揉みくだかれて、鼠色の襤褸屑のようになって、林檎の皮なぞの散らかっている間に撒き散らされていた。
「困るなあ、それにね、三隅のおぬいさんの稽古を君に頼みたいからと書いてあったんだのに……それだから渡瀬君に渡してくれって頼んでおいたじゃないか」
「君にとは俺にかい」
園に顔を見つめられながら、半分は剽軽から、半分は実際合点がいかない風でガンベは聞き返した。法螺吹で、頭のいいことは無類で、礼儀知らずで、大酒呑で、間歇的な勉強家で、脱線の名人で、不敵な道楽者……ガンベはそういう男だったのだから、少なくとも人が彼をそう見ていることを知っていたから。
「そうだ、君にだ」
そう園のいうのを聞くと、ガンベは指の短かい、そして恐ろしく掌の厚ぼったい両手を発矢と打ち合せて、胡坐のまま躍り上がりながら顔をめちゃくちゃにした。
「星野って奴は西山、貴様づれよりやはり偉いぞ」
西山は日ごろの口軽に似ず返答に困った。西山が星野を推賞した、その矛を逆まにしてガンベは切りこんできた。星野が衆評などをまったく眼中におかないで、いきなり物の中心を見徹していくその心の腕の冴えかたにたじろいたのだ。しかたなしに彼は方向転換をした。そして、
「園君、君が最初に頼まれたんだろう」
と搦手からガンベの陣容を崩そうとした。
「いいえ別に、僕は手紙をおぬいさんにとどけるように頼まれただけだった」
それが園の落ち着いた答えだった。
「俺が札幌にいりゃ、この幕は貴様なんぞに出しゃばらしてはおかなかったんだが」
そういって西山は取ってつけたように傍若無人に高笑いするよりのがれ道がなかった。
柿江は三人の顔にかわるがわる眼をやりながら爪をかみ続けていた。あのままで行くと狂癲にでもなるんではないかとふと西山は思った。とにかく夜は更けていった。何かそこには気のぬけたようなものがあった。六年近く兄弟以上の親しさで暮してきたこの男たちとも別れねばならぬ四辻に立つようになった……その淡い無常を感じて、机からぬっくと立ち上りながら西山は高笑いを収めた。そして大きな欠伸をした。