平賀源内の生涯
平賀源内は讃岐国志度浦の新町で生まれました。その年ははっきりしないので、後に安永八年に歿した際に、年齢が四十八歳であったとも云い、また五十一歳、又は五十七歳であったとも云われていたので、どれが正しいかわからないのですが、位牌には五十二歳と記されているそうで、この五十二歳を採れば、享保十三年に生まれたことになるのです。父は茂左衞門國久と云い、高松侯の足軽であったと云うことです。平賀家の古い祖先は平賀三郎國綱と称し、その子の國宗が奥州白石に住んでいたことから白石という姓を名のっていたのが、後にまた平賀姓に復したのだとも伝えられています。何れにしても源内の生まれた頃には、身分も低かったのですから、そのなかから学問好きの源内が現れたと云うのは、一つの驚くべき事がらにはちがいありますまい。
幼名は四方吉と云い、後に傳次郎、それから嘉次郎とも称しました。生長してからは國倫と称し、字を士※と号したのです。元内又は源内というのは通称で、そのほかにいろいろな号をその著述の上では使っています。鳩溪、風來山人、天竺浪人など、そのなかで多く用いられたものでした。
前にも記しましたように、源内の生まれた頃には世のなかでは儒教や仏教や神道が盛んで、それらに属する古い書物を習い覚えることが一般の慣いであったのでした。またその半面には、名だかい西鶴の浮世草紙に続いて、いろいろな読み本や、洒落本などと称えるものがたくさんに出はじめた頃でもあったのでした。ですから源内の眼にもそういうものが触れないわけではなかったので、現に源内自らも後年になってたくさんの滑稽本や洒落本を著しているのですが、それでいて他面にはいろいろな学問の道にも進もうとしたのですから、その頃として実に多芸多才な点で稀に見る人物であったと云ってよいのでしょう。
源内が学問を志すようになったのは、幼少の頃から藩の医者に接近していたことや、また薬園に勤めて本草学に興味をもつようになったのに依ると云われていますが、ともかくも生来そういう学問を好んでいたには違いなかったのでしょう。それで年が長じてから長崎まで赴いて、そこで熱心にオランダ語を学び、オランダ人について薬物をいろいろ研究したのでした。このような本草学や薬物の研究が源内の学問の道への出発点となったのでしたが、源内はその後あらゆる方面の知識を修めようと志したのでした。それで、やがて江戸詰となって江戸に来てからは、林信言や三浦瓶山について漢学を修め、賀茂眞淵から国学を学び、服部南郭や石島筑波から修辞を習い、更に江戸幕府の官医田村藍水から本草学を一層詳しく学び、その間に当時名高かった杉田玄白、中川淳庵、太田蜀山人、松田元長、千賀道有などと云う人々と親しく往来して、いろいろな見聞を広めたので、その学識もあらゆる方面にわたり、これが明敏な彼の性質と相俟って、一世にその多技多能を謳われるようになりました。宝暦十一年に俸禄を辞してからはどこにも仕えなかったので、なかには彼を招こうとする諸侯もいろいろあったのでしたが、特別な仕事のほかはそれに応じなかったと云うことです。しかしその間に自らは貨殖の途を講じて、いろいろの計画を立てましたが、これにはいつも成功しなかったので、それで煩悶しているうちに、世のなかに対する不平不満が多くなり、それをどうにかして晴らそうと思って、たくさんの戯作をつくり、そのなかで自分の欝憤を晴らそうともしたのでした。源内ほどの多芸の人も時世がそれに適応しなかったことによって十分にその手腕をふるうことのできなかったのは、まことに遺憾と言わなければなりますまい。
それにしても源内は、その一生の間にいろいろの仕事をしているので、それについて次に少しくお話して見ましょう。