4
伶人の奏楽一順して、ヒユウと簫の音の虚空に響く時、柳の葉にちら/\と緋の袴がかゝつた。
群集は波を揉んで動揺を打つた。
あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、階に劃られて、二条の紅の霞を曳きつゝ、上紫に下萌黄なる、蝶鳥の刺繍の狩衣は、緑に透き、葉に靡いて、柳の中を、する/\と、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の燈の影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、天女が斜に流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。
烏帽子もともに此の装束は、織ものの模範、美術の表品、源平時代の参考として、嘗て博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ什物であつた。
扨て、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のために記すべき振事は更にない。渠は学校出の女優である。
が、姿は天より天降つた妙に艶なる乙女の如く、国を囲める、其の赤く黄に爛れたる峰嶽を貫いて、高く柳の間に懸つた。
紫玉は恭しく三たび虚空を拝した。
時に、宮奴の装した白丁の下男が一人、露店の飴屋が張りさうな、渋の大傘を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕れた。――此は怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害つて、何うやら華魁の道中じみたし、雨乞には些と行過ぎたもののやうだつた。が、何、降るものと極れば、雨具の用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉が被いだ装束は、貴重なる宝物であるから、驚破と言はばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であつた。
――然ればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。――
あはれ、身のおき処がなく成つて、紫玉の裾が法壇に崩れた時、「状を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わツと群集の騒いだ時、……堪らぬ、と飛上つて、紫玉を圧へて、生命を取留めたのも此の下男で、同時に狩衣を剥ぎ、緋の袴の紐を引解いたのも――鎌倉殿のためには敏捷な、忠義な奴で――此の下男である。
雨はもとより、風どころか、余の人出に、大池には蜻蛉も飛ばなかつた。
十二
時を見、程を計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を足許に低き波の如く見下しつゝ、昨日通つた坂にさへ蟻の伝ふに似て押覆す人数を望みつゝ、徐に雪の頤に結んだ紫の纓を解いて、結目を胸に、烏帽子を背に掛けた。
其から伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯と捌けたのが烏帽子の金に裏透いて、宛然金屏風に名誉の絵師の、松風を墨で流したやうで、雲も竜も其処から湧くか、と視められた。――此だけは工夫した女優の所作で、手には白金が匕首の如く輝いて、凄艶比類なき風情であつた。
さて其の鸚鵡を空に翳した。
紫玉のつた瞳には、確に天際の僻辺に、美女の掌に似た、白山は、白く清く映つたのである。
毛筋ほどの雲も見えぬ。
雨乞の雨は、いづれ後刻の事にして、其のまゝ壇を降つたらば無事だつたらう。処が、遠雷の音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台に馴れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前鯉魚の神異を見た、怪しき僧の暗示と讖言を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のやうに白山の眉に飜るであらうと信じて、須叟を待つ間を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に歩行いた。が、此は鎮守の神巫に似て、然もなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思はんほども憚られて、腋の下に衝と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰のはじめとも言はう。
気をかへて屹と成つて、もの忘れした後見に烈しくきつかけを渡す状に、紫玉は虚空に向つて伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの玩具の竹蜻蛉のやうに、晃々と高く舞つた。
「大神楽!」
と喚いたのが第一番の半畳で。
一人口火を切つたから堪らない。練馬大根と言ふ、おかめと喚く。雲の内侍と呼ぶ、雨しよぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない讒謗罵詈は雷の如く哄と沸く。
鎌倉殿は、船中に於て嚇怒した。愛寵せる女優のために群集の無礼を憤つたのかと思ふと、――然うではない。這般、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想ひ出した。……
雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「漕げ。」
紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
一度、駆下りようとした紫玉の緋裳は、此の船の激しく襲つたために、一度引留められたものである。
「…………」
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁に豆烏帽子で傘を担いだ宮奴は、島になる幕の下を這つて、ヌイと面を出した。
すぐに此奴が法壇へ飛上つた、其の疾さ。
紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとする処を、圧へて、そして剥いだ。
女の身としてあられうか。
あの、雪を束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれな状は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃の鬼一口の犠牲である。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。
赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のづまで引めくつたのが、苦り切つたる顔して、つか/\と、階を踏んで上つた、金方か何ぞであらう、芝居もので。
肩を無手と取ると、
「何だ、状は。小町や静ぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。」
手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかゝる氷のやうな練絹の、紫玉の、ふくよかな胸を、酒焼の胸に引掴み、毛脛に挟んで、
「立たねえかい。」
十三
「口惜しい!」
紫玉は舷に縋つて身を震はす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮の如く漾ひつゝ。
「口惜しいねえ。」
車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みも成らず、――金方の計らひで、――万松亭と言ふ汀なる料理店に、とに角引籠る事にした。紫玉は唯引被いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行恁くては面白かるまいと、やけ酒を煽つて居たが、酔倒れて、其は寝た。
料理店の、あの亭主は、心優いもので、起居にいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、深更の然も夏の夜の戸鎖浅ければ、伊達巻の跣足で忍んで出る隙は多かつた。
生命の惜からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船は、胸の悩みに、身もだえするまゝに揺動いて、萎れつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかへて、皓々として雫する月の露吸ふ力もない。
「えゝ、口惜しい。」
乱れがみをりつゝ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間に痩せた指は細く成つて、右の手の四つの指環は明星に擬へた金剛石のをはじめ、紅玉も、緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅に、浅緑に皆水に落ちた。
何うでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜の口は、水の輪に舞ふ処である。
こゝに残るは、名なれば其を誇として、指にも髪にも飾らなかつた、紫の玉唯一つ。――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗いて、千尋の淵の水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢の白鷺の影さへ宿る、櫓と、窓と、楼と、美しい住家を視た。
「ぬしにも成つて、此、此の田舎のものども。」
縋る波に力あり、しかと引いて水を掴んで、池に倒に身を投じた。爪尖の沈むのが、釵の鸚鵡の白く羽うつが如く、月光に微に光つた。
「御坊様、貴方は?」
「あゝ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、然までの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品ぢや。」
坊主は、欄干に擬ふ苔蒸した井桁に、破法衣の腰を掛けて、活けるが如く爛々として眼の輝く青銅の竜の蟠れる、角の枝に、肱を安らかに笑みつゝ言つた。
「私に、何のお怨みで?……」
と息せくと、眇の、ふやけた目珠ぐるみ、片頬を掌でさし蔽うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆゑに、恥入るか、もの嫉みをして、前芸を一寸遣つた。……さて時に承はるが太夫、貴女は其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言はば、すぐに優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
紫玉は巌に俯向いた。
「其で通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品は何うぢやらう。」
「えゝ、」
と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身に沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。
「貴方なら、貴方なら――何故、さすらうておいで遊ばす。」
坊主は両手で顔を圧へた。
「面目ない、われら、此処に、高い貴い処に恋人がおはしてな、雲霧を隔てても、其の御足許は動かれぬ。呀!」
と、慌しく身を退ると、呆れ顔してハツと手を拡げて立つた。
髪黒く、色雪の如く、厳しく正しく艶に気高き貴女の、繕はぬ姿したのが、すらりと入つた。月を頸に掛けつと見えたは、真白な涼傘であつた。
膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打つたね。――雨と水の世話をしに出て居た時、……」
装は違つた、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢の稚児に、寸分のかはりはない。
「姫様、貴女は。」
と坊主が言つた。
「白山へ帰る。」
あゝ、其の剣ヶ峰の雪の池には、竜女の姫神おはします。
「お馬。」
と坊主が呼ぶと、スツと畳んで、貴女が地に落した涼傘は、身震をしてむくと起きた。手まさぐり給へる緋の総は、忽ち紅の手綱に捌けて、朱の鞍置いた白の神馬。
ずつと騎すのを、轡頭を曳いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭をするぞ。それ、錦を着て行け。」
かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧なる巌の聳つ崕を、翡翠の階子を乗るやうに、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる曠野の中をタタタタと蹄の音響。
蹄を流れて雲が漲る。……
身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊沢金水の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称ふる練兵場。
紫玉が、たゞ沈んだ水底と思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。――
雨を得た市民が、白身に破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰の光景が見せたい。