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泡鳴五部作 02 毒薬を飲む女
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泡鳴五部作 02 毒薬を飲む女
岩野泡鳴
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Chapter 4 of 17

四

よそほつてまで見せるいつものむツつりとは少し違つた氣分で、義雄は自分の物だが、最も好かない家へ出かけて行つた。然し下宿屋田村の玄關をあがると、直ぐ女房の千代子に出くはしたので、いつもの通りまたむツつりした氣が起つて、物を云ひかけたくも無かつたが、強ひて顏を和らげた時は、棒立ちに立ちどまつてゐた。

千代子も立ちどまつて、冷やかな笑みを示した目をぢツと所天に投げた。そしていきなり、

「珍らしくにこ/\してらツしやいますが、何か面白いことでもありますか、ね?」

「‥‥」これで、もう、渠は素直に出られなくなつてしまつた、腹のどん底に用意してゐた聲を腹一杯に出して、「金が入るんだ――三圓だ!」

「へい――」かの女はきよとんとして、所天の突然な太い大きな聲を出した顏を見守つてゐたが、飛び出たやうな眼をわざとらしく横に反らして、「お金なんかありません!」

「何! こなひだ渡したのが、もう、無くなつたわけはない!」

「あれは」と、また向き合つて、「うちの暮しに入ります――お客さんが立て換へて呉れいと云つても困るぢやアありませんか?」

「下宿人に金を立て換へるときまつてやアしない!」

「あなたは御自分のうちの商賣を御存じないのですよ。」

「商賣はお前が勝手にしてゐるのだ、おれは別におれの仕事がある!」

「ぢやア、あんな目かけなどに夢中にならないで、せツせとその仕事をすればいいでせう――下宿屋は、ね、亡くなられたお父アさんが、やめてしまふのも惜しいからわたしにしろとおツしやつたのですよ!」

「だから、勝手にするがいい、さ。おれは兎に角、今、音樂會に行く金が入るんだ。」

「ふン」と、かの女は鼻で受けて、横を向き、「きのふの新聞に在つた音樂倶樂部でせう――ありません!」

「よし!」かう云つて、渠は鳥うち帽をかぶつた儘、つか/\と、家族の居間へ這入つて行つた。

「あなたは」と、かの女はついて來て、「泥棒して行く氣です、ね。ぢやア、お待ちなさい、わたしが出しますから。」

「おれのうちの物を」と、つツ立つて勢ひを見せ、「おれが出すのに、何が泥棒だ?」

「だツて」と、一生懸命な口答へをするやうに口をとんがらかして、「箪笥をこはされるだけでも詰りませんから、ね、この家だツて、もう、抵當に這入つてゐますよ。」

「知れたことだ、今度の樺太の事業の爲めにやア、家どころか、家族やおれ自身をも犧牲にするかも知れないんだ。」

「あの女におだてられてでせう――」

「手めえにおれの心が分るものか?」

「分つてますとも!」

「ぐづ/\云はないで、出せ!」

「樺太の事業だつて、成功するか、しないか、分るものぢやアない――きのふだツて、二百圓よこせの電報が來たのを屆けたのに、どうするんだらう?」

「どうするも、かうするも、おれの考へだ。」

「あなたはおれ/\とお云ひなさいますが、ね、若し失敗したら、うちのものをみんなどうする氣です――かつゑさせても構はないのでせう」などと云ひながら、千代子は引き出しをあけて、札を三枚出した。「ほんとに馬鹿々々しい!」

「出せ」と、引ツたくつて、「うちなんざアどうでもいいんだ!」

「そんなにあの女が――」

「いつも云ふ通り、ね」と、あごを突き出して、「おれは女の爲めに狂つてるんぢやアない!」

「狂つてるぢやアありませんか? ちツともうちにゐつかないで――」

「おりやア手前をいやなんだ!」

「いやでもなんでも、家内は家内ぢやアありませんか?」

「だから、早く自決しろと云ふんだ!」

三人の子供はおづ/\しながら、一緒に室をのぞいてゐるので、女房のくど/\云ふのを相手にしないで、義雄は飛び出すやうに家を出てしまつた。

その頃、義雄は、芝公園に接する或片側道の粗末な二軒長屋の一方の二階へ、お鳥を移してゐた。

一度も二度も居場所を隱して歩いたが、魔のさすやうに發見せられるので、たうとう大膽になつてしまつた。樺太から事業上の電報などがいつやつて來るかも知れず、また新聞雜誌の寄稿依頼者があつた場合――これが本來の職業であるから――ゐどころが分らないのも困ると思つて、自分の家に近いここにきめたのである。

お鳥は最初これを非常に反對した。

「また、やつて來て人に恥ぢをかかすのぢや。」

「もう、決してをどり込まないと誓はせてあるのだから。」

「分るもんか、あの氣違ひが!」

「來たら、蹴倒すだけのこと、さ。」

時々、皿におかずやら、一人前のおはちに五もく飯やらを、子供が好意らしく屆けて來ることがあるが、お鳥は口に入れたことがない。

「毒が這入つてるかも知れへん。」

「まさか――」

「まさかと云うたツて」と、かの女は口びるを左右に引き張り、齒の間に少しつばををどらせ、「それだけまだ向うを信じてるんぢや。」

「信じるも、信じないもないぢやアないか」と、微笑しながら、「死ねばもろともだア。」

「あたい、まだ」と、眞面目くさつて、皮がたるんでくしや/\した顏の中から男を見詰めて、「あんな婆々アに殺されたうはない。」

「おれも死にたかアない。」かう、からかひ半分にあしらひながら、義雄は、家から屆けて來たものがあると、いつもみんな自分獨りで平らげた。かの女には、それがおのれを馬鹿にしてゐるとしきや思はれないやうであつた。

かの女は一日物を云はないことがある。義雄はまたそれをいいしほにして、急ぎの原稿を書きつづけた。

障子をあけると、向うは、もう、公園の一部で、烏が澤山集まるので、烏山と名の付いた森が見える。この森と家の建つてる側との間の道幅は廣いが、少し傾斜があつて、上では直角に曲つて、水道溜め場のある方に導く。その角を曲つて來る人の姿が見えると、「旦那さまや奧さまや、お助けでございます」をやり出す乞食が、こもを敷いて毎日のやうに、丁度この二階の正面に出てゐる。

「また云うてる」と云つて、お鳥はよく障子のあはひからのぞいた。親子はいかにも哀れみを乞ふやうな樣子で、往來の男女を拜んでゐるが、人通りがちよツとでも絶えると、子は、

「何かたべたい。なア」と云つて、足を投げ出し、横になつて天をながめたりする。

「それ、それ」と親に注意されると、急に拜みの卑劣な姿勢に返つて、向うから見え出したものを見ない振りで見ながら、再び物乞ひの聲を張りあげる。

「あの子面白い子だ――あたいも何かたべたい、なア」

「ぢやア、またあすこのあんころかい?」

かう云はれてかの女が機嫌を直すこともあつた。義雄はそれにお付き合ひしながらも、執筆を絶つたことはない。その乞食親子とこの書齋代用の二階とを舞臺にして、自分の事ではないが、自分が先驅者の一人であつたと思ふ詩界に於いて、落伍者となつた架空の一詩人を點出し、その無自覺な努力をしてゐるところを以つて、或る方面に對する諷刺をした小説が出來たのもこの叫びである。去年、苦心して書いた長篇「耽溺」が今年の二月に或雜誌で發表せられてから、渠は小説を書かうと云ふ確信が強くなつてゐたのだ。でも、いろんな雜誌や新聞から依頼して來るのは、多くは評論の方で、それに次いでは、まだ、渠としては、もう、興が去つてしまつた詩である。かう云ふ依頼を渠はすべてこの二階で受けた。

「お助けでございます」が始まると、お鳥はきツと障子のそばへ行つた。そして御成門の電車停留所の方から傾斜をのぼつて來る男があると、どの男を見ても、先づ義雄の客ではないかと思つた。

「違てた」と、失望した樣子で、「うちへ來るんかおもたら。」

「東京にやア、人は多くゐるから、ね。」

「でも、きのふ、あの加集に似た人が通つた。」

「お前あいつを好きだ、ね――?」

「誰れがそんなこと云うた!」かの女は足ぶみして怒つた。机に向つてる男を見おろして、「あんな輕薄な奴、あたい嫌ひぢや!」

「おれも嫌ひだが、ね、小學時代の友人でもあるし、いろんな口聽きとして役に立つやうだから――」

「そりや自分の勝手やないか――あたい知らん!」

そしてまた上から下りて來る女があると、かの女は先づ義雄の女房ではないかと――あれは綿服主義だとか云つていつもきたないなりをしてゐるが、立派さうな風の、若いのを見ると、また、女優ではないかと思つた。

この上を拔けたところに、帝國女優學校の假教場があつて、そこへお鳥も這入らうとして義雄にかけ合つて貰つてるし、またその用意に三味線と踊りとを稽古してゐるのであつた。

義雄とお鳥との間に出來た最初の約束はそんなことではなかつた。

かの女が一たびその故郷なる紀州に歸るまで在學して卒業した或裁縫學校へ再び入學し、一二年間その高等科を修めさせることであつたが、裁縫などよりも琴の師匠にでもなる道を開いてやらうとしてゐるうちに、義雄自身の直つてしまつた或病氣を急激に受け繼いだが爲め、殆ど半年ばかりは病院通ひで經過してしまつた。

「もう、さう苦にならんさかい、最早何かの稽古にやつてお呉れ」と、かの女が云ひ出した頃には、かの女に對する渠の一度冷めかけた愛情が再び囘復してゐた。そして渠は、多少の慾目が手傳つてゐるとは身づから思ひながらも、既に二人まで失敗した女優養成を今一度かの女にやつて見ようと考へ付いた。それに、やがては自分も事業上一時は樺太へ出向かなければならないので、かの女をどこかへ――金錢上の責任は持つとして――託して置くやうにする必要もあつた。

「どうだ、女優になつて見ちやア?」

「そんなもの、いやぢや!」

「何も顏を赤くしないだツていいぢやアないか?――三枚目ぐらゐのところぢやア、牛耳が取れるかも知れないぜ。」

「三枚目たら――?」

「――」義雄はその日それに對する返事をしなかつたが、かの女がさう云ふことに對して有する恐れだけは、毎日のやうに努めて取り去つてしまふやうにした。そして、顏のことは云はないで、歳がもう三四年若かつたら三枚目にも、第一流の花形にも行けたにきまつてるが、それにしても脊が高いのは女優として一つのいい武器だとも話した。

六疊敷きの、外に向つたところに小さい一閑張りを置いて、その上で義雄が筆を走らせてゐるそばへ來て、かの女は片ひぢを突いて横になり、黄の勝つた中形矢絣りの廣島銘仙の綿入れの、太く時色のの出たところを、足袋の親指でさはりながら、云ひにくさうに、

「あたいでも成れるだろか」と聽いたこともあつた。

「お前の決心一つ、さ。」

「決心したツて、成れないこともある。」

かの女は、それでも、頻りに獨りで鏡に向ひ、自分の顏をいろんな風に映して見る日がつづいた。

「大分乘り氣になつて來た、な」とは考へながら、義雄は後ろ向きにそ知らぬ風をして、友人なる有名な背景畫家の大野がいつか云つたことを思ひ出した。

「あいつア馬鹿だぜ――少し足りないぜ。」

「それやア、君のやうに藝者や苦勞人ばかり見て來た目にやア、ね――ありやアまだほんの田舍ものだ。土のにほひが拔けてないのだ。」

この問答があつたのは、大野が義雄とお鳥とを招待した或るうなぎ屋の二階で、お鳥が便所に立つた留守の時だ。かの女が澄ましてもとの座に返つたところで、大野は醉眼でかの女を小娘か何かのやうにのぞき込みながら、

「可愛い、ねえ。」

「ふん」と、かの女は自分の顏をしやくつて、眼を横に反らせた。これはかの女が誰れに對しても冷かされる時などにする表情だ、が、自分は餘ほど得意でゐるのだな、と義雄はいつも推察が出來た。けれども、こんな時ほど女の顏の缺點をさらけ出す時はないと渠には見えてゐるので――兎角、太い横じわが三筋寄り勝ちの額の下に、青みがかつた眼の玉が動き、あまり高くない鼻が擴がつて、その下で大きな口が一文字に引ける。意地の惡い表情の變化が豊富に出來ると思はれるのは、ただこの口がある爲めにだけだ。

「それにしても、もツと都會馴れなけりやア、ねえ――」

「田舍ものなら、田舍ものになれる――では、女優にしておくれ」と、かの女が云つたのは、それからまた二三日あとのことだ。

女優學校へ傍聽生とでも云つたやうな入學の交渉は、校長が旅興行にまはつてゐるので、返事はそれで歸るまで得られないのであつた。

その校長がわが國では有名な女優であつて、年中どんな忙しい生活をしてゐるのかも知らないお鳥は、不在で分らないと云ふ返事を聞いただけで、それが體のいい斷りではないかとあやぶんだ。

「そんなに心配するなよ、どうせ何事も手筈が延び/\して來たのぢやアないか?」

「だから、早う何かさせて呉れたらえいぢやないか?」じツと、また、瞰むやうにして、「樺太のことと云うたら、――何でも自分のことは――火の付くやうに騷いでる癖に、あたいの事となつたら、いつでも平氣でぐづ/\させて置く!」

「ぢやア、下のお婆アさんに先づ三味線でも習つてゐるがいい、さ。」

「そんなら、早う頼んでくれたらえいぢやないか?」

「さう意地惡く云ふなよ。」義雄は、かの女が餘ほど情の籠つた時の外はおだやかに出ず、どことなく皮肉なやうな、いぢけたやうな物の云ひ振りをするのを、社會一般から見て、不自然な状態に置かれてゐるのを忘れない爲めだと受け取つてゐる。渠は、どうせ、今の妻は離別する時があると思つてゐるので、お鳥に對しても、時には「やがておれの女房が無くなるのだが」とも語つた。さうかと云つて、いづれ來るべき本妻離別の時となつて、お鳥のやうな女を正式の妻に直さうとは夢にも考へてゐない。

「本妻にして呉れ、して呉れ」が、子供が母に何かをねだるのを見てゐるのと同じやうに、渠にはうるさかつた。

それには、毎日かの女のあたまを何か一つのきまつたことに占領させて置く必要から、さきには、義雄が何年か以前に使つたイオリンを持つて來た。すると、かの女は獨りでどうやらかうやら調子に辿り付いて、田舍で歌を聞きおぼえたストライキ節などを云はせるやうになつた。で、三味線もいけないことはなからうと云ふことが分つてゐた。

義雄は自分の家から、繼母が殘して逃げて行つた古い三味線を、千代子の反對を受けたにも拘らず、ひツたくつて來たのである。それが毎日一度は、渠の坐つてる下から、ぺこん、ぺこんと聞えた。同時に、またかの女は近所のちよツとした踊りの師匠へ通つたので、二階の片隅では、しよツちう、五十錢であつらへて貰つたとか云ふ花やかなあふぎが擴げられたり、閉ぢられたりした。

「清水さん、お稽古をしませう。」かう本統のお師匠さんらしく呼びかけられて、お鳥が三味線を持つて下りて行つた時、義雄は客の加集泰助に對して二百圓の周旋を頼んでゐた。

渠はこの客に對して信用を置かなくなつた。と云ふのは、不斷から輕薄な性質であるばかりか、その本職のやうにやつてる周旋が一向依頼通りに運んだことがない。家を抵當にするからと云つて、去年から頼んであつた事業費引出しの件も、たうとう意外の方面から突然に出來た。

去年の歳末に迫つて子供が三人揃つて入院し、一人は死んだ騷ぎの時も、加集はたうとう工面し切れなかつたので、義雄は自分の足かけ七年間勤めた商業學校の英語教師を、どうせ辭職するのであつた豫定よりも、三ヶ月早く辭職し、その退職金を十二月三十一日と云ふ日に受け取つたので、僅かに年を越えることが出來た。

けれども、今囘は、もう、二進も三進も行かなくなつたので、またこの加集を呼び寄せたのである。柄でもないと云はれる事業に於ける兵站部を勤める爲めに、技師や、弟以下に後れてまだ居殘つてる義雄ではあるが、かう早く金の追求が來るとは預期しなかつた。もつとも、その用意としては、地方の或都會の水道建設費二百寓圓を外資に仰がせることにして、渠の先輩で今コンミシヨンマチヤントをしてゐる人に話し込み、市の責任者の依頼状を待つことにまで運ばせたが、これは勸業銀行が出すから外資を仰ぐなと云ふことになつて、渠の奔走は無駄になつてしまつた。

また、渠の玉突仲間なる或鑵詰問屋の主人へかけ込んでも見たが、少くとも第一囘の製品を見ないうちは、商賣の法則として、金の融通が出來ないと云はれた。

家を二重抵當にするか、餘ほど好意ある人から信用貸しを仰ぐか、この二つの道しきやなかつたのを、この客は今度は、どこをどう甘く立ちまはつたのか、信用で借りられさうだと云ふ話を持つて來た。

「ぢやア、頼む。」

「然し金のことだから、君も十分に責任を負うて呉れんと――」

「そりや、無論、約束する期限までにやア――」

「おい」と、今まで何となく下へ氣を取られてゐた加集が、俄かに「下手くそぢや、なア。」

「ふ、ふん。」義雄も客について又苦笑ひをした。

お鳥は「今も昔は」を習つてるが、三味線がびつこのやうに歩いてるらしい。

「まだ聲を出せないのか?」

「出せば出せるだらうが、下の婆アさんを半分馬鹿にしてゐるから、いけないの、さ。」

「無論、あの婆アさんかて」と、時々、加集に關西辯が出るのはお鳥と同じやうで、「上手だと云へん。それに、五十づらをさげて、薄化粧をして、若い亭主に燒き餅を燒く奴だから、なア。」

「清水に聞いたのだらう――けれども、ね、如何に縁日商人だからツて」と、義雄は額の廣い、頬のこけた顏に、鋭い眼を眼鏡の裏から光らせながら、「さう馬鹿にするものぢやアないさ――お互ひに好き合つてゐるのだから。」

「よく夫婦喧嘩をすると云ふぢやないか?」

「そりやア、また、出來心からだらう、さ。」

「君等と反對だぜ、女が五十で、男が三十四では。」

「僕はさう年を取つてやしないぢやアないか?」

「いや、さ、年の割り合ひがよ――あいつは二十二ぢやさうぢやないか?」

「欲しけりやアやるよ、僕が樺太へ行つちまやア。」實際、義雄はその金を空鑵材料に換へ、それを持つてあつちへ行かなければならないのだ。そしてその後のお鳥は、都合によれば、どうなつてもいいと思はないこともない、かう金の融通に困つてる時は、殊に。

「君の病氣の身がはりなんて」と、加集は反抗の樣子を見せようとしたが、顏に多少の釣り込まれた色が見えたのを、義雄は私かに、「馬鹿な野郎だ」と認めた。

「聲をお出しなさいよ、聲を!」下の婆アさんの年に似合はない涼しい聲がした。

「出さないぢやア、いつまでも出ませんよ。」

「ナダイムスメノー」低く、然し氣取つてるやうな――

「やつてる、やつてる!」加集は背廣の洋服に圓まつて、その場にわざとらしくひツ繰り返つた。

義雄が音樂倶樂部の入場費を自家から強奪したのはその日で、――渠が不愉快な心持ちで戻つて來た時、お鳥が同倶樂部へ伴はれて行く用意を濟まして、義雄の机に横ずわりにもたれ、むろ咲きのにほひ菫を頻りに鼻に當ててゐた。渠の友人なるアメリカ歸りの或客がかの女へ贈り物に持つて來た小鉢で、「あの人はなか/\ハイカラだ」と云つて、かの女はその客が歸つたあとまでも喜んだものだ。そして義雄の想像では、かの女がこれまでに餘ほど得意に感じたことはたツた三つだ――第一は、かの女の寢物語りから知つたことだが、さきの所天たる小學教員に、紀州でまだほんの同僚であつた時、自分の寫眞を要求せられたことだ。第二は去年の夏、義雄に伴はれて甲州へ行つて、初めて温泉のお客さまとなつたことだ。そして第三が、乃ち、この贈り物を受けたことだ。

「あたい、あの人好ツきや」と、かの女はじらし半分に云つた。

「でも、ね、お前のお望み通りの獨身者ぢやアないよ。」

「獨身者でなかつたかて」と、負け惜しみに、「自分のやうなおぢいさんではない。」

今も亦じらしてゐるのだと思はれるので、義雄はそんな興には乘りたくなかつた。坐らないで、そしてかの女の正面には向つてるが、暫く物を云はなかつた。そして良く反り返つたうは髭をいぢくりながら、曾てかの女が怒つて、その髭をひツ張つた時の痛さを思ひ出してゐた――まだ痛みが殘つてるやうだ。

かの女はこれでもか、これでもかと云はないばかりに、紫の花の上に自分の鼻を突ツ込み、ふんふん、ふん/\嗅いで見せてゐた。が、根負けをしてか、目だけで見あげて微笑した。

「さア、行かう。」

「でけた」と、疑問的にくびを優しく動かしてから、いきなり訴へるやうに、「あの加集の奴、好かん!」

「‥‥」

「あたいに、こなひだから、いやらしいことばツかり云うて!」

「いいぢやアないか」と、とぼけた振りで、「向うがお前を好いて呉れりやア?」

「では」と、花の鉢を兩手で持つて、すわり直した膝の上に置き、男の顏をうは向きに正視して、「あたいを取られてもえいか?」

「うん。」ふと、さうして呉れりやア、こんな面倒はなくなると云ふ氣が出て、「それもお前の決心一つだ。」

Chapter 4 of 17
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