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淡島椿岳 ――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――
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淡島椿岳 ――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――
内田魯庵
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Terang
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Terjemahan Pagera AI
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Chapter 2 of 20

一 淡島氏の祖――馬喰町の軽焼屋

椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政に方って町人もまた苗字を戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は服部であった。かつ椿岳は維新の時、事実上淡島屋から別戸して小林城三と名乗っていたから、本当は淡島椿岳でなくて小林椿岳であるはずだが、世間は前身の淡島屋を能く知ってるので淡島椿岳と呼び、椿岳自身もまた淡島と名乗っていた。が、実は小林であったか、淡島であったか、ハッキリしない処が椿岳らしくてイイ。この離籍一条は後に譲るとして先ず淡島屋の祖先について語ろう。

淡島氏の祖の服部喜兵衛は今の寒月から四代前で、本とは上総の長生郡の三ヶ谷(今の鶴枝村)の農家の子であった。次男に生れて新家を立てたが、若い中に妻に死なれたので幼ない児供を残して国を飛出した。性来頗る器用人で、影画の紙人形を切るのを売物として、鋏一挺で日本中を廻国した変り者だった。挙句が江戸の馬喰町に落付いて旅籠屋の「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、或時、国の親類筋に亭主に死なれて困ってる家があるが入夫となって面倒を見てもらえまいかと頼まれた。喜兵衛は納得して幸手へ行き、若後家の入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代を首尾よく盛返した。その家は今でも連綿として栄え、初期の議会に埼玉から多額納税者として貴族院議員に撰出された野口氏で、喜兵衛の位牌は今でもこの野口家に祀られている。然るに喜兵衛が野口家の後見となって身分が定ってから、故郷の三ヶ谷に残した子の十一歳となったを幸手に引取ったところが、継の母との折合が面白くなくて間もなく江戸へ逃出し、親の縁を手頼に馬喰町の其地此地を放浪いて働いていた。その中に同じ故郷人が小さな軽焼屋の店を出していたのを譲り受け、親の名を継いで二代目服部喜兵衛と名乗って軽焼屋を初めた。その時が十六歳であった。屋号を淡島屋といったのは喜兵衛が附けたのか、あるいは以前からの屋号であったか判然しない。商牌及び袋には浅草御門内馬喰町四丁目淡島伊賀掾菅原秀慶謹製とあった。これが名物淡島軽焼屋のそもそもであった。

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