Kembali
日の果て
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日の果て
梅崎春生
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Terang
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Asli Public Domain
Chapter 3 of 8

3

語尾が少しふるえた。皆しんと黙った。その沈黙は何か不自然なものに宇治には思えた。身体を少しずつ動かして彼は洞窟の中を見廻した。白く光る鐘乳石の間に道具がいくつも並んでいて、兵たちの青白い視線が一せいに彼を刺して来るようであった。彼はたじろぎながらそのまま歩を返そうとした。背後から松尾軍曹の声がした。何を言ったのか判らないが、彼は立ち戻らずに出口の方にあるいた。外には朝の光があふれていた。石階をのぼる時初めて冷たい汗が宇治の背筋を流れ出して来た。

〇八三〇高城伍長は彼の仮小屋に来た。その少し前に隊長当番兵の佐伯が来て、しっかりやるようにとの隊長の伝言と贈物の水筒をもたらした。水筒をあけるとウィスキイの香がした。そして佐伯はずるそうに笑いながら、物入れから鶏卵を二箇出して、之を中尉殿に上げます、と言った。

「これも隊長からか?」

「いえ、これは私からです」

佐伯が戻って行くのと入れちがいに高城がやって来た。拳銃一挺さげただけの軽装である。高城の拳銃を何か不思議なものでも見る目付で眺めながら、彼は自分も略刀帯に軍刀を吊り拳銃を下げ、その上から水筒をつるした。そして長靴を軍靴に履き換えた。網扉を押すとき、彼は部屋の様子を記憶に刻み込むようにも一度しげしげと振り返った。脱ぎ捨てられた長靴は、ひとつは立ちひとつは床にたおれていた。目をしばたたきながら彼はぎしぎしと階段を降りた。出発、と彼は低く言い、そして歩き出した。高城の跫音がそれにつづいた。

密林の各所に日本軍が入ってから、連絡の必要もあって大体道らしいものは出来ていたが、それも定かなものではない。植物の旺盛な繁殖がすぐ道をかくしてしまう。群れ立つ樹々の梢が日光の直射をさえぎっていたが、それでもむんむんする草いきれで、暫く歩くと汗が背筋に滲み出して来た。道は東北の方角である。歩くにつれて湿度が高く、羽虫のようなのが道のあちこちを飛んでいて、それが顔にぶっつかったりしてうるさくてかなわない。歩きながら彼は花田中尉の状況を聴いた。

花田中尉はインタアルに落ち延びる時、水牛にでも積んで行ったのか薬品を沢山もっていて、今はその薬品を原住民の食糧と換えそれで食いつないでいるらしい。戦場から身をもって逃れたというような想像を彼は今までしていたのだが、そのような才覚なしでは密林中に一箇月も独立して生きて行くことは困難な筈でもあった。昨日高城が花田と会ったのは、両側から草山の斜面が切れこんだ渓あいの小さな部落で、その小屋にはもはや同盟の記者はいない。食糧と塩を求めて東海岸方面に出発したという。東海岸はインタアルから一本道である。そこは未だ戦災が及んでいないのである。

「柱によりかかって脚には毛布をかけて居られましたから、負傷の具合は判りません」

「召還に応じないと言ったんだな。どんな口調で言った?」

「――あたり前の調子でした」

「部屋には彼一人がいたのか」

高城は暫く黙って歩いていたが、ふと放心から呼び醒まされたような声で言った。

「情婦もいました」

宇治はその言葉にいやな顔をして、肩を揺り上げた。今まで花田の女のことは、情婦という言葉では頭に浮んで来なかったのである。しかし現実のあり方から見れば、そのような卑しい称呼が一番適当しているのかも知れなかった。にがい思いが咽喉までのぼって来たが、彼はそれをおさえて高城に問い返していた。

「その女は、どんな女だ」

高城は彼の顔をちらと見上げ、すぐ何か答えようとしたが、そのままはにかんだように白い歯を見せて笑った。質問を彼の好奇からと思ったらしいと宇治は考えた。宇治はきびしい表情をくずさぬまま、おっかぶせるように言った。

「こんな女ではないか。目の大きな、眉のうすい――」

「そうです。右の眼の下に大きな黒子があります」

やはりあの女かと、うずくような気持で宇治は思い出していた。

――それはまだアパリに居たときであった。その頃アパリの防衛も一応完成していて、本陣地、前進陣地、海岸陣地と三段構えが出来上っていたけれども、レイテ島からの報告によって、米軍の攻撃力を支えるにはも一度根本的な陣地改築が必要であることが判って来た。宇治は前進陣地近くの或る村にいた。応召の将校である彼は、戦略や築城については勿論間に合せの知識しかなかったが、彼の目から見ても之等の陣地が艦砲や航空機の攻撃に対して強固であるとは夢にも思えなかった。補強工事の令が発され、兵は昼夜兼行で働いた。そんな或る日、飛来した米機をめずらしくも味方の高射砲が射落し、飛行士は夕暮の空に白い花を開かせたように落下傘で降りて来た。それは前進陣地に近い山の中であった。それきりその飛行士は消息を絶ってしまったのである。捕えて情報を得る必要があるというので、くまなく探索したけれども行方が知れなかった。比島人の誰かがかくまっているに相違なかった。レイテの敗北の程度につれて比島人の心もようやく日本軍から離反して行くらしかった。米飛行士探索の命令が、宇治に与えられた。

ある夜宇治は、飛行士が降下した山の付近の部落にひそかに入って行った。真夜中すぎて二十二三夜の月が出ていたが、風物は蒼然とくらく湿地を貫く道だけが白く浮き上っていた。部落は戸数にして七八十軒である。その中の一軒だけがあかあかと灯をともし、あとの家は暗く眠りに入っていた。此のような時刻に灯をともすのは、此処等の農民の習慣から見て一応疑えば疑えた。宇治は拳銃をにぎりしめ、足音を忍ばせてその家に近づいて行った。バンガロオ風の造りの窓から、そっと彼は内部をうかがった。勿論米飛行士がその内にいるなどとは思っていなかった。むしろ彼にそんな行動を取らせたのはかりそめの好奇心であった。窓掛けの隙間から彼は家の内部を見わたした。

花田中尉がそこに居たのだ。

青色の絨氈をしいたその部屋に卓を据え、椅子にふかぶかと腰かけて花田中尉は酒をのんでいた。卓を隔てて女がすわっていた。そして酒瓶を左手で持ち上げた処らしかった。土民がよく着る簡単服に似た服装で、花田の方をむいていたが、窓の外に宇治の気配を感じたのか、鋭くこちらに視線をむけて立ち上った。頬のほくろが目立つ眼の大きな顔立ちである。誰かに似ている、と咄嗟に彼は思ったが、そのまま足音を忍ばせてすばやく窓の下をはなれた。見てはならぬ光景を見た気がしたのだ。彼は物かげにしゃがみ、或いは窓から顔を出すかと待ったが、その気配もなかった。ねっとりと夜風が肌を吹いた。花田が着ていた白い清潔そうな襯衣の色が眼にのこっていた。すべて奇異な感じであった。彼はじっとうずくまったまま、何か解明出来ぬ複雑な感情が湧き上って来るのを意識した。

その頃軍紀は既に乱れ始めていた。将校の中でも定められた宿舎に寝ず、女をつくってそこに通うものもあった。そんな将校を宇治は何人か知っている。旅団の副官をしていた大尉が民家で泥酔し女とダンスに興じていたのを兵隊に見とがめられたという事件も起った。宇治はそのような出来事を見たり聞いたりする度に、同僚のそんな失態がおれとどんな関係があるのかと突っぱねて考えるのであったが、何か突っぱね切れぬかすのようなものが心に残った。女をつくるということは公然の秘密であった。宇治も女に対する嗜好がないではなかったが、また道徳的である訳でもなかったが、女をつくろうという気にはなれなかった。年齢から来ているのかも知れない。しかしその当時は彼は自分の心が頽廃することが一番こわかったのだ。

あの家が花田の宿舎であったのか、それは宇治はとうとう知らず終いであった。誰にも言わず誰にも聞かなかった。しかしあのカアテンから見た一瞬の光景は、異常な鮮明さで彼の心に灼きついている。南口の戦場から花田が離脱したことを耳にしたとき、彼はすぐあの目の大きな女のことを思い浮べたのだ。あの女であるとすれば――あの女はどうやって隊についてカガヤン渓谷をのぼって来たのであろう。あれは言語に絶する難行軍であった。過労のため兵は倒れ馬匹は足を滑らして落ちた。倒れた兵は自決し、或いは射殺された。宇治は血を吐きながら杖にすがって歩いた。サンホセに入っても何時まで軍隊としての命脈が保てるのか。それはもはや烏合の衆であった。僅かに皆を四散から踏み止まらせているのは、同じ危険と同じ運命にさらされているという共通の意識からであるように宇治には思えた。俺は俺のために生きよう。あえぎ進みながら宇治は此の時はじめてこう思ったのだ。あの難行軍を、女の足でどうしてついて来たのか。また南入口の砲撃の場をどうして女が花田に肩を貸し得たのか。それらはすべてわからない。わからないけれどもそれはふしぎな現実感をもって宇治の思いにかぶさって来る。

道は歩くにしたがって次第に湿気を帯び始めた。会話が途断れてから二時間ほど黙りこくって歩いた。幽かな径の跡が二叉にわかれている。何れをとってもさほど逕庭はない途だと高城が言うので、彼は暫く考えた末、山に入る道を選んだ。だんだん密林が深くなり、巨大な樹が多くなり出した。樹々の幹肌に寄生木が蒼黒い葉を茂らせ、蔦が梢をおおって這っていた。地面には羊歯科の植物が茂るまま茂り、幹々の奥の薄暗がりを蛍に似た発光体がすいすいと飛んだ。道はやや乾き、時々どこかで山水の流れる音もした。道幅は四五尺程である。宇治が先に立ち、高城はあとにつづいた。

「道は間違いないな」

「大丈夫です。あと二三時間もすれば旅団司令部に着きます」

旅団司令部は予定の後方陣地の中央にあった。花田中尉の所在はそれより北方三粁の地点である。日が暮れる前に到着出来るだろう。彼は何となく時々背後の高城を振り返って見た。疲労がもはや宇治の肩を重くしていたが、高城は若いだけにまだつかれを見せていない様子であった。振り返る度に高城は彼の顔に眼で笑いかけた。

「お前は衛生科だったな。花田軍医の直接の部下だな」

「そうです」

「パラウイ島に居た時、花田の当番兵をやっていたのは、お前だったのではないか」

「そうです」

「そうすれば」と宇治は言葉を切った。「お前は自分の上官を殺すことになる」

ついて来る高城の息づかいが少し荒くなったようであった。一寸経ってあえぐような口調で、

「命令でありますから――」そして後は口早に言った。「しかし私が悪いのではありません」

「誰もお前が悪いと言ってはしない」

宇治はそう言いながら、冷たい笑いをぼんやり頬にうかべた。「それはどうでも良いことだ」

そして暫くして「殺されなくても皆死んで行く」宇治はこの言葉を自分に言いきかせるように呟いていた。

道は狭くなり、密林が突然切れた。崖である。黒い岩肌が十米ほども垂直に立ち、道は崖の上縁を危く縫っていた。彼等は崖の縁を歩き出した。反射で瞳の色も染まりそうな明るい盆地の展望があった。密林は崖の下から再び始まり、斜面を下るにしたがってまばらになり、それが尽きるところから田が展がっていた。籾の山が何か玩具じみて点々と遠く視野を連っていた。片手で木の根や枝をつかみ僅かに身体を支えて歩き悩みながら、先刻何気なく呟いた言葉の意味が執拗に胸にからむのを彼は感じ始めていた。アパリに居た頃の彼の僚友の大半は既に亡い。ツゲガラオ南方のオリオン峠で米軍をむかえ撃つため、二箇大隊は選ばれて先発した。しかし時は既におそかったのである。オリオン峠は既に米軍に占拠されていて、二箇大隊は猛烈な攻撃を受け大隊長以下ほとんど全滅、わずか二十数名の兵がサンホセに還って来たのみである。オリオン峠の戦闘の選に洩れたことについて、彼は自分をひそかに祝福する気持がないとは言えなかった。また一日早くサンホセに入ったばかりに猛烈な砲撃を受けずに済んだことについて、また本部将校であるばかりに斬込隊に一度も参加せずに済んでいることについて、死んだ僚友の不運をあわれむ心のうらに、彼は或る冷たい喜びを用意していなかったとは言えないのだ。人が死ぬのも生きるのも、ごく些細な要素がそれを定める。それは初めから戦争の常としてわかっていることであったが、現実に直面すると堪え難い気がした。生き延びているのを喜ぶ気持は、純粋なものであるか不純なものであるか、それは彼には判らなかった。そんなことを考えることすら無意味な営みに思えた。北口の将兵が全滅するのはもう時間の問題である。そして南口の大隊の運命も風前の灯にひとしい。それは誰しも予感していることである。それにも拘らずなお原隊に止まろうとするのは何か。人間としての矜持か、此処には最早矜持とか自律とかはあり得ない。あるのは生きているか殺されるかという冷たい事実だけだ。善とか悪はない。真実とは一つしかないのだ。それは内奥の声だ。生きたいという希求だ。自分のために生きるのが、唯一の真実だ。爾余の行動は感傷に過ぎない。

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