5
男は顔を彼等の方に向けて虚ろなまなざしを開いていた。唇が僅か動いて乾いた声で何かを言うらしい。何を言っているか判らない。声と言うよりは咽喉から吹いて来る風のような音であった。
「何を言っているのか聞いてやれ」
宇治は高城の方をむいてそう言い捨てると床から地面に飛び降りた。何気なくすらすらと口から出た。高城は一寸ためらったが、直ぐ床に登ると、男の枕許にしゃがみ首を曲げて耳を男の顔に近づけた。宇治はそのまますたすたと道の方に出て行った。
道の端にある倒れた木に腰を掛けて、刀に上体を支え眼を閉じた。そして高城が一旦戻りかけて又追って来た気持を考えた。高城の眼に涙が溜っているのをはっきり見たとき、先ず彼の胸にのぼって来たのは、一種のやり切れない感じであったのだ。(此の男はこれから先、暫くは俺の負担となるだろう)原隊から追手が来ないと判ったことは、不安が無くなったというよりむしろ拍子抜けの感じであった。実は先刻、彼を追って来るであろう追手として、彼は僚友の顔を一人一人思い浮べていたのである。自分がぎりぎりの場に立つその予感が、それで皆消えてしまった。彼は眼を見開くと無感動な顔付でしきりと四周を見廻した。道はわずか跡を示しながら密林の果てに消えている。
小屋の陰から高城が出て来た。宇治も物憂く立ち上った。立ち上りながら訊ねた。
「あの兵は何と言っていたのか」
高城は近づいて来たが、その歩き方や動作の中に、へんに突き当る硬いものを鋭く感じて、宇治は微かに身がまえた。高城の声は暗く押えた調子をふくんだ。
「もし、東海岸に行くのなら、自分も一緒に連れて行って呉れ、と言うのです」
聖地を慕う巡礼のように、皆ふしぎに東海岸に行きたがる。東海岸に行けば米も塩も魚も豊富にある。このことは原隊の間でも伝説のように兵等に信じられていたが、それは幾分誇大に伝わっているにせよ事実の筈であった。軍に属さぬ一般邦人は既にそれぞれ群をなして東海岸に向っていた。今その言葉をきいて宇治も漠然と自分が其処に牽かれていることに気付いていた。
「もし連れて行って貰えぬなら」高城は一寸息を呑んだ。「その拳銃で射ち殺して呉れ、と言うのです」
宇治は黙って高城を見返した。返事をしないまま彼は歩き出した。そして低く独白のように呟いた。
「道はこれでいいんだな」
歩いて行く宇治の後を高城は小走りに追いすがった。
「殺して来ましょうか。宇治中尉殿」
思い詰めたような声であった。何か殺気を感じて宇治はふり返った。高城の眼が宇治の視線を捕えてキラキラと光った。
「何故殺すんだ」
「殺して呉れと言うんです」
変に頑固な嗜欲が今の彼をとらえて居るらしかった。顔の筋肉が硬ばっていた。宇治は高城の瞳の色から何とない圧迫をじりじりと感じ取った。それに堪えながら、宇治はその眼を見返していた。宇治の行為に対しての反感、それにも拘らず宇治に従おうとする自らの弱さ、それらに対する自棄な反撥が燃えるような彼の眼にあらわれていた。宇治は黙って背をひるがえし再び道を歩き出した。
突然背後で笑い声を立てた。宇治はぞっとして足を止めた。それは笑い声ではなかったのだ。押えたような嗚咽であった。次第に大きく乱れながらそれは号泣に変って行った。追われるように宇治は足どりを早めた。
時間は正午を遥か廻った。密林は行けども行けども果てしがなかった。疲労がそう感じさせるのかも知れなかった。食欲は全然なかった。ただ黙って歩いた。高城も腫れた瞼を伏せて黙々とついて来た。
何と無く妥協して高城を再びつれて来るようになった事、これが次第に不快な重みとなって宇治の胸を押しつけて来るらしかった。何故あの時叱咤して追い帰さなかったのか。背後に同じ調子でついて来る高城の重い足音を耳に止めながら、宇治は益々心が沈んで来た。
(何故俺はまるで囚人のように暗い気持になってしまうのだろう?)
逃亡ということが善いことか悪いことか、それは既に今朝来心の中で計量済みの事であった。それについて自分を責めることは無い。生き抜く事が正しいと思えばこそ此のような逃亡を断行したのだ。それなのに東海岸への足を阻もうとするのは何であろう。
突然、今まで意識のかげに隠そう隠そうと努力していたあるイメイジがはっきり浮び上って来た。それは今朝の鐘乳洞の内で彼が見た、あの部下の兵達の突き刺すような視線であった。あの兵達はアパリ以来の彼の部下である。それ等をも捨てて宇治は此処までやって来た。勿論彼等は今朝、宇治の心中を見抜いた筈はない。唯何時ものように上官の話を聞く時のように注目していたに過ぎない。自分の行動を正当と信じるなら、何故あの時あのようにたじろいだのか。白く光る鍾乳石の間から彼に向って放たれたいくつもの青白い視線が、今なお彼の胸を堪え難く苦しめて来る。
「――さて、さて」
無意味な言葉をしきりに呟きながら、宇治はその想念を心から追い出そうとした。追い出そうとすればする程、それは宇治の心にすがりついて来る。堅く鎧った筈の心の、ごく狭い弱味を誤たずねらって、何故それらは鋭い刃を立てて来ようとするのか。
肩から吊った水筒がだんだん重荷になって来た。歩調につれて水筒の中で密度ある液体がぴちゃぴちゃと揺れるのが判る。宇治は頸を真直に立て鋭く視線を前方に固定させ、足を引摺ってあるいた。額から汗の玉が拭いても拭いてもしたたり落ちた。
――応召を受けて以来三年間、彼はあちこちを転戦して歩いた。戦野の陣地で彼が見たものは、人間というものの露骨な形であった。杖をついてサンホセ盆地への道を進み悩みながら、自分の為にだけ生きようと宇治がしみじみ決心したのも、彼が見聞きした現実がはっきりそれを教えたからであった。人間は、自分の利益とか快楽にしか奉仕しないということ、犠牲とか献身とかいうことは、その苦痛を補って余りある自己満足があって始めて成立し得ること。それらのことを彼は此の三年間に深く胸に刻み込んでいた。彼の僚友、今生き残っているのも死んでしまったのも合せて、実に雑多な型の人間がいた。アパリでダンスと酒に酔い痴れた副官もあったし、また花田のように女を連れて逃亡したのもいる。その反面には進んで斬込隊を志願して帰らぬ若い少尉も居たし、部下を救うために己が身を殺した老大尉もいた。しかし此のような戦場の美談を彼は純粋な気持で受け入れることは何となく出来なかった。何か心にひっかかるものがあった。そうした人間の美しさを素直に受け入れないならば、戦野に於ける破倫を彼は憎むわけには行かない筈であった。実際彼には、両方とも此んな危急の状況にあってはむなしい営みに見えた。彼はもはや人間を眺める目に遠近を失っていたのだ。支柱を失った人間は、彼には影を失った幽鬼に過ぎなかった。皆支柱を失っているのではないか。幽鬼の行為に美醜がある筈がない。
あの難行軍をつづけてサンホセに入ったとき、南口付近はマニラから逃げて来た海軍部隊が駐屯していた。宇治は高熱のため当番兵のはからいで一軒の民屋に寝た。そこも海軍が占拠していて、その家にはジャンパアを着た海軍軍属らしい男が住民の女と一緒に住んで居た。宇治の病気を知ると同情して、何処からか椰子やマンゴオの実を取って来て呉れた。軍属らしいと思ったら報道班員だと言う。仔熊のような眼をもった、恰幅のいい男だった。今は海軍の糧秣係の仕事をして居るらしかった。宇治はその男の名に記憶があった。ずいぶん前のことだが或る文学賞を得た男である。宇治は地方にいた時その小説を読んだ記憶がある。何でも氷山の上を渡り歩いて熊を射とめる小説であった。翌朝別れを告げる時その男は、急に真面目な顔になって、此の戦争が勝つにしろ負けるにしろ自分は此処に踏み止まり、一生此の女と(横にいる女を指さした)此の土地で暮すつもりだ、と宇治の耳にささやくようにしみじみと言った。宇治はその時目を見張る程おどろいた。何というのんびりした事を考えているのかと思った。その後宇治の隊から兵が四五名盆地に糧秣求めに行った時ゲリラに襲われ、皆殺されたという事件が起った。そのゲリラを手引きしたのがあの報道班員だという噂をあとで聞いた。その後の事は知らない。戦場の噂ほど不確実なものはないから、宇治もその事について深く聞く事はなかったが、そんな噂が立ったとすればあるいはその後彼は殺されたかも知れない。戦場では個人の生命など問題ではなかった。唯ちょっとした恣意が人の命をうばう事もあり得る。小説を書こうという程の男が、どうして自分を危くするようなことをしたのか。しかしそれは何も不思議ではない。誰と限らず皆、判断の支柱を失っているのだ。現象に呼応する感覚があるだけで、皆その感覚を自分の理性だと信じ込んでいる。
(生きたいという希求から逃亡した俺も、あるいはその類かも知れない)
あの小説家を嗤う訳には行かないのだ。彼は次第に自分が何を考えているのか判らなくなり始めていた。何もかも自分の判断で割切りそして行動していると信じていたのだが、それもあやふやなもののように思われた。判っていることは、自分が今原隊を離れて遁走しているという事実だけであった。しかしそれも遂行し終せたわけではない。今からでも花田を射殺する決心になれば、そして何食わぬ顔をして原隊に戻れば、誰も知るものはない。高城が知って居るとしても、彼も宇治を追って来たからには、逃亡を意図したという点で同罪である。人に洩らす気づかいはないのだ。しかし高城は果して一緒に逃げるつもりで彼を追って来たのか。何故あの時涙をいっぱい溜めていたのか。何故あの病兵を殺したがったのか。何もかも判っているようで、考えれば彼には何もかも判らないことばかりであった。
(俺は一体何の為に此の密林の中をとぼとぼ歩いているのだろう?)
荒涼たる疑念が何の連関もなく彼の胸を衝き上げて来た。……
「歌が聞えます」
高城がうしろから宇治に声をかけた。宇治は立ち止って耳を澄ました。幽かではあったが宇治の耳にもその声は聞えて来る。首を廻して高城の方を見ながら彼は独語のように言った。
「聞える。あれはイロカノの歌だ」
「旅団司令部です」
落着いた低い声で高城がそういった。唇をきっとしめているので、高城の顔は何か思いつめた表情に見えた。ある疑いがふと宇治の心を影のようによぎった。血管の浮いた濁った眼で宇治はじっと高城を見つめていた。高城は表情を変えないまま自然に宇治を見返した。
「――よし」
それは声になっては出なかったが、そう言う気持で宇治は肩を張るようにして歩き出した。二分間ほど歩くと突然道が切れた。嘘のように明るい日光が天から落ちて来た。密林がそこだけ引き抜いたように開けていた。
宇治は昔、耶馬渓を見たことがある。あの耶馬渓を構成する岩に似た岩群のたたずまいであった。宇治の居る所から眺めると、丁度円形劇場に似た風で、すりばちのように八方から斜面が切れ込んでいる。崖は段々になっていて、中途に引っかかるようにして点々とニッパ小屋があった。底の部分には簡単服に似た服装の女たちが沢山動いていた。歌声は其処から起るのである。崖を危く伝って兵達が登って来るのも見えた。
「あれが、司令部です」
崖の中途の、他のよりもやや大きい小屋を高城は指さした。中空に棒を突き出し、白い襯衣などが乾してあった。斜面がもつ幻惑で距離が定め難いが、それでも呼べば聞えるほどの近さである。径はすりばちの上縁をはしっていた。怒ったような口調で、宇治はたずねた。
「インタアルへ行く途は――此の途を通るのか」
「そうです。あの大きな木」人さし指を移動させながら、「あの木の所から右に折れるのです」
「――此の崖縁を歩かずに、密林の中を突き抜ける途はないのか」
「ありません。私は知りません」
宇治は少し顔を険しくして高城を眺めた。そして低い声で言った。
「お前が先に歩け」
高城は何かぎょっとした風で身体を硬くした。その気配は宇治にもはっきり判った。二人は密林で出会った二匹の獣のように暫く見つめ合った。高城は突然泣き出しそうな表情になって、大きな身振りをしながら甲高い声で言った。