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「私は後から参ります」
また沈黙が来た。
宇治はふと視線を外らすと、行手の大きな木を眺めた。困惑したような表情が宇治の顔にひろがった。日の光が当る大木の頂きをぼんやり眺めた。樹肌の剥けた、頂上付近に僅かの葉をつけた巨樹が、何か意味があるような形に眺められた。
(あんな木がもう直ぐ自然倒壊するんだな。しかしあの木の下を曲れば安心だ)
しかし宇治は歩き出そうとはせず、また高城の方に振りむいて言った。沈欝な調子であった。
「おれは――お前を信用していない。お前は司令部へ馳けて行って、そして俺のことを言わないとも限らんから、な」
高城の頬がぱっと紅くなったが、すぐ悲しみの色が瞳の中にあふれて来た。必死に打ち消すように身体をよじりながら、
「そんなことはありません。中尉殿」
呻くような声であった。
「私は後から参ります」
宇治は黙って腰から拳銃を抜いた。そして安全装置を外した。ずしりと掌に重いブロオニングを握りしめた。
「では」彼は先に立って歩き出しながら、「おれが先に行く。ついて来い」
宇治は背後で高城の激しい呼吸遣いをききながら、黒い岩質の道を踏んだ。遥か下から歌声が浪のように高まり、小さな数多の姿が一斉に律動した。底にうごめく人々の様子はむしろ楽しげに見えた。一歩一歩が身を刻むようであった。全身の神経を背後に集中させてあるいた。高城がどんな表情しているか判らない。もし声を立てたり、崖をすべり降りたりすれば、直に射殺するつもりである。殺してしまえば、あとの言い逃れはどうにでもなる。背後の跫音をひとつひとつ耳に捕えながら、宇治の拳銃を握る掌はやがて冷たい汗にぬれて来た。
目標の巨樹まで来た。何事も起らなかった。道はそこで二叉に分かれ、一方は崖に沿って司令部へ行き、右に折れれば再び暗い密林に入る。赤く剥けた樹の肌であった。高さは七八十米もあるかと思われたが、枝はそぎ落したように千切れ、頂き付近に僅か残る葉も白く頽れた色であった。宇治はほっと肩を落してふり返った。疲れが一時に背に積み重なって来た。
「道はこれか」
拳銃を腰にしまいながら宇治は低い声で訊ねた。高城は蒼い顔をしていたが、だまってうなずいた。
「何を妙な顔をしているんだ」
宇治は笑おうとしたが、笑いにはならなかった。表情がわずか歪んだだけであった。高城もへんに硬ばった顔を宇治からそむけた。二人はそしてそのまま歩き出した。
花田が居るという部落は此処から三粁ほどである。道はやや下り坂となり、どこかで流れる山水の音がした。一歩一歩花田中尉の処に近づいて行く。そう思ってもそれは何か現実感がうすかった。宇治をとらえる感じは別のものであった。その感じを胸に探りながら、彼は一歩一歩靴先を草叢に入れた。蔓草が足にからんで歩き難かった。
先刻のことのために高城の気持が硬化したことは、その怒ったような顔付でも判ったが、また荒々しい足どりでもうかがわれた。宇治は彼を信用しなかったわけではない。ただ万一という事もあった。あんな事を高城に言ったのも、本心というよりは露悪的な気持の方が勝っているように思われた。高城が二人に共通した罪悪感で彼に寄り添おうとしているのが、彼にはただ鎖のように重苦しかったのだ。(茶番を一々本気にしてやがる)並んで歩く高城の顔を盗み見ながら、宇治は一瞬鋭い憎悪が彼に湧いて来るのを感じていた。しかし天に唾するようにそれは厭な感じを伴って彼の心に戻った。……
それからずいぶん長い間歩いたような気がする。梢を洩れる太陽の光はやや薄れ、蝉に似た虫の啼声が林の奥から流れて来る。花田のことをぼんやり考えていた。花田に逢えば花田は何と思うだろう。花田の驚く顔だけは想像出来たが、その先は頭に浮んで来なかった。女と共にいて原隊に戻らぬのも、言わば単純な情痴ではないだろう。単に情痴ならばあのような破目に落ちずとも、少くとも彼ほどの男なら、もっと悧口に身を処することが出来る筈なのだ。もっと深い処で彼は身を賭けたに違いないのだ。しかしその詳細は判らない。女と一緒になり原隊を離反した。その事件は驚くほど単純だが、そのぐるりにはさまざまの陰影が暗く尾を引いていて、どんな事を花田が考え、そしてそれを信じたのか、何も判っていないのだ。宇治に判っているのは、あのアパリで窓から見た一瞬の光景だけであった。
――俺は花田をどう思っているのか?
物影にしゃがんで息を凝らしていたあの時、宇治が感じていたことはまことに複雑であった。暗い道をひとり米軍飛行士を探し求めて歩きながら、そしてあの光景を見たのだ。それは異様なものを見た単純な驚きではない。もっと深い、言わば静かな怒りのようなものであった。あの時の花田の顔があまりにも幸福そうに見えたから、それに対する反感もあったのかも知れなかった。しかし宇治はその時の気持を自分でもはっきり掴み兼ねている。花田がインタアルに行ってから毎夜、宇治はぼんやりと花田のことを考えていた。それはただならぬ切迫感で宇治の心に挑んで来た。
――俺は花田を憎んでいるのか?
そうだとも言い切れない。思考をつづけて行くと何か薄い膜があって、それが彼の判断を狂わして来るようであった。やがて自分も花田と同じように逃亡する破目におちるかも知れない。その予感が、花田の放恣な行為を憎むことから今まで彼を遠ざけていたのではないのか?
林がだんだん薄くなり、草山が見えて来た。何の確信もなく宇治はあるいた。
「もうそこです」
突然きっとしたように高城が言った。宇治は立ち止るとうなだれていた首を上げた。灌木と草におおわれたなだらかな丘陵があり、道はそれに沿って曲るらしかった。
「それを曲ると部落があります。花田軍医殿は昨日そこに居られました」
口の中が変に乾いて行くような感じで、その癖不快な生唾がしきりに出た。何も硬くなることはないと思ったが、肉体の方でそれを裏切った。現実に花田と逢うということ、これが夢の中の出来事のようにはっきりしなかった。それでも胸がどきどきと動悸を高めて来た。
――司令部の処から、もう三粁も来たのか?
随分長かったような気がするし、また直ぐだったような気もする。下り坂で幾分楽だったとは言え、宇治は薄い肩を前方に曲げるようにして歩かねばならなかった。丁度カガヤン渓谷を上る時の行軍のように、肉体の限度を越えた疲れが鈍く背筋を押していて、額から冷たい汗が絶えず滲み出た。何のために歩くのか。宇治は蔓草を引きちぎる高城の靴音を聞きながら唇を噛んであるいた。肋骨の間がずきずきと疼いた。
草山の裾を廻ると、貧弱なニッパ屋根が四五軒宇治の視野に入って来た。あの一軒に花田がいるのだと思った。略刀帯を上にしごき上げながら高城に言った。
「お前はただ俺について来い」
高城が右手で腰の拳銃を押えているのを彼は見た。高城は彼の方を見ず、一心に部落の方を眺めていた。顔が能面のように白く、不気味な艶が滲み出た脂肪の上にきらめいていた。
「一番奥の家です」
宇治は手を挙げて高城を制そうとしたが、思いなおしたように深い呼吸をし、そして先に立って部落の方へ歩き出した。靴がかつかつと鳴った。最初の小屋の入口が大きく開いていて、そこから低い声が聞えて来た。宇治は立ち止り、そして入口から覗き込んだ。
「花田中尉は居ないか」
枝打ち透かす日の色が赤く土間を彩っているのだが、そこに女が一人いた。蓆のようなものを床に敷いて何か低い声で呟いている。簡単な洋装だが髪の形といい顔の様子といい、明かに邦人の女である。髪は乱れて頬に垂れ、指でしきりに蓆の端をむしっているのだが、宇治の声にも気を止めぬらしく、眼を大きく見開いたまま呟き止めない。そしてふと明るみにむけて上げた顔はまだ若々しく、はっとする程美しかった。
「誰も外に居ないのか」
宇治は何か脅えるような気持にそそられ、背中を入口の柱にずらせながら内部の土間に身体を入れた。奥の方の薄暗いあたりにいるらしい男の濁った声で、
「どなたですか。こいつは気が狂っているのです」
ごそごそ這い出して来たのを見ると、兵隊のようではない。四十がらみの顎の張ったするどい目付の男である。まぶしいのか片手を額にあてながら宇治を見た。
宇治も身構えながら油断なく男を見つめた。
「花田中尉の小屋はどこか」
男は彼が将校であることを認めたらしかったが、別段態度を改めるということもなかった。ゆっくりした声で言った。
「花田中尉ですか。中尉殿は居ません」
「居ない」
「ええ、居ないのです」
男は上半身が裸である肉付きの良い分厚な肩であった。鼠色の洋袴に包まれた脚をだるそうに土間におろした。
宇治は振り返った。高城は入口から顔だけ入れていた。
「花田中尉の小屋に行って来い。もし居たら宇治中尉が連絡に来たと言って来い」
そして彼は再び男に向き直った。男は冷淡な表情で高城が出て行くのを眺めていた。
「此の部落にいる筈だ」
「先刻出発されました」
「出発した?」
彼はほっと心が崩れるのを感じ、二三歩土間に入って行った。狂った女はきょとんとした顔を上げて宇治を眺めたが、ふいにごろりと横になり脚を立てた。裾から見える股の部分が目にしみるほど白い。思わず眼を外らそうとした時、女は寝ころんだまま咽喉を反らせて高い声で歌い出した。呂律の乱れた声であったけれども、それは目が覚めるほど鮮かな肉体の声であった。
みよや十字の旗高し
君なるイエスは先立てり
讃美歌ではないかと、宇治は血走った眼をぎょっと見開いて女を眺めた。脚先を揺って調子を取るたびに蓆の縁から微塵が立って、赤い光線の中をゆらゆらと動いた。女は突然歌い止めると大きな声で笑い出した。そんなに大きな声を立てたら悟られるではないか、宇治はふと混乱してそんな事を考えながら、不安な視線を男の方にもどした。
「そうすれば花田は原隊に戻ったのか」
それならば連れの女はどうしたのか。何故途中で宇治達と逢わなかったのか。宇治は帽を上げ掌で額を押えた。女は笑いやめた。
「原隊にではありません」
なに、と宇治は思わず頭を上げた。男は脚を土間に垂れ片手で上半身を支えて、するどく宇治を見ている。宇治と視線が合うと突然白い歯を出して笑ったようであった。憤りが宇治の胸をついて上った。畳み込んで宇治は訊ねた。
「何処に行ったんだ」
男は卑しげな笑いを唇辺に浮べたままであったが、その問いに答えようか答えまいかと一寸口ごもった風である。すぐ老獪なとぼけた顔になって、
「花田中尉は良い軍医どのでありましたなあ」
宇治はいら立って軍刀の先で土間をとんとんとついた。
「そんなことを聞いていはしない」
その時先刻の病兵の言葉が急によみがえって来た。男は宇治の視線を避けて、寝ころんだ女の姿をぼんやり眺めている風である。それは明かに装った態度であった。女は何か判らぬことをひとりで呟いている。宇治は顔を男の方に近づけながら、眼を堅く光らせて一語一語力をこめて言った。
「花田中尉は女を連れて、東海岸に行ったのだろう。俺は彼を捕えに来たんじゃない。話があるんだ。何と言って口止めされたんだ」
その言葉を聞くと男は突然低い濁った声でふふとわらい出した。ゆるゆる視線を宇治に戻しながら、
「出て行ったのは昼頃でしたよ」
「何故お前も一緒に東海岸に行かなかったんだね」
男は又卑しげに唇を歪めて、短い笑い声を立てた。
「この女が居るんでね」
「お前は何処から来たんだね。恰好から見ても兵隊じゃないらしいが――」
お前と呼ばれるのが男のかんにさわるらしかった。床をすざって宇治から離れながら、急にぞんざいな調子になった。
「マニラからでさ。海軍さんと一緒に命からがら逃げて来たんだ」
「此処に長いこと居るんだね」
「もう四五十日も居る」
「食べ物は?」
「花田中尉さんが持って来た薬品を、下の部落で米と替えた」
「まだ残りがあるんだな」
「あるもんか」
男は急にぎらぎらする眼になって、宇治を見ながらも一度繰り返した。「米など残っているもんか」