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「ほんとに君に来てもらうと、用心にもなるし、僕らもたすかるよ」
不破は機嫌よく笑いながら、そんなことを言ったりしました。僕が東側の四畳半に住み、不破夫妻は西側に住む。板の間は両方の共同にする。そういう条件でした。
「それで――」と僕は最後に訊ねました。「間代の方はいかほどですか」
「うん。月に五百円もいただくか」
と不破は無雑作に言いました。金のことなど問題でないという風な言い方でした。
「では、権利金は?」
「うん」不破は面倒くさそうに顎のあたりをがしがし掻きました。「五万ほどいただくとするか」
僕はちょっと黙り込みました。間代は法外に安いのですが、その割にしては権利金が少々高過ぎるような気がしたからです。するとその気配をさとったのか、不破はひょいと顔を向け、ニコニコしながら言いました。
「いや、何なら四万でもいいんだよ」
「そうですか。じゃあ、そうお願いします」
それで話がきまってしまいました。スリが取り持つ縁で、家主と間借人の仲になるなんて、まことに面白く浪曼的なことで、小説のタネにでもなりそうな話ですな。で、その日は不破家をおいとまして八王子に帰り、親爺を口説いて四万円出して貰いました。親爺も四万という金には少し渋ったようですが、僕だって何時までも親がかりでは困るし、以後経済的にも独立するという条件で、やっと出して貰ったのです。もちろん不破家に引越したとて、すぐに画が売れ出すというわけはない。でも僕にはひとつの目論見があったのです。あの不破家の八畳の板の間、あるいは好天気の折は庭先を利用して、毎日曜毎に小学生相手の画の講習実習をやったらどうだろう。さいわい不破家近辺は住宅地域ですから、二十人や三十人は集まるだろうというのが僕の日算でした。一人から月謝を三百円取れば、三十人で九千円になります。間代は五百円だし、八千五百円あれば一人口はらくらく養えるでしょう。そういう我ながら抜け目のない計算でした。
不破と知合いになって三日目に、僕は世帯道具や画の道具一式をオート三輪に積みこんで、はるばる八王子から代田橋にバタバタバタと引越して来ました。世帯道具の方は不破にならって、ギリギリの必需品だけにしたのです。その夜不破とかんたんな契約書を作成し、四万円を手交し、それから近所のソバ屋から引越しソバを取り、ソバを肴にして簡略な祝宴を開きました。不破夫人もその祝宴に参加して来ましたが、おどろいたことには夫人はその風貌に似ず、亭主を上廻る酒豪で、二升用意したのが足りなくて、もう一升買い足したほどでした。典型的なウワバミ夫婦とでも言うべきでしょうねえ。
ところがこのウワバミ夫婦との同居生活は、わずか一週間をもってはかなく終りを告げました。一週間目に夫妻もろとも、夜逃げというか昼逃げというか、どこかに失踪してしまったのです。これはまったく予想外な出来ごとでした。
失踪の前の晩、不破数馬はすこし酔って僕の部屋にやってきて、壁にかかっている僕の画を批評したり、あやしげな画論をはいたりしていましたが、やがてもじもじしながら、部屋代の前納という形でもいいから、二千円ばかり貸して欲しいと切り出した。夫婦で赤穂に行き、先祖の墓参りをして来たいというのです。一週間前四万円という金を渡したのに、もう二千円貸して呉れとはすこし妙だとは思ったのですが、僕が知らない事情があるのかも知れないし、まさか失踪するとは思わないから、間代前納の形式ならそれでもいいと思った。しかし念のために訊ねてみました。
「先祖のお墓って、なにも赤穂まで帰らずとも、泉岳寺にあるじゃありませんか」
すると不破は憐れむような笑い方で僕を見て、
「僕の先祖というのは、なにも数右衛門だけじゃありませんよ。数右衛門の息子だってそうだし、そのまた息子だってそうだし、代々が僕の先祖様なんだ」
なるほど、そう言えばそうですから、僕も納得して、なけなしの財布から千円札二枚渡してやりました。不破の言によると、赤穂行は墓参のためだけでなく、あちらにある山林を処分する用も兼ねているから、一週間や十日はかかるかも知れない。その間の留守番として、遠縁の野呂という男をここに寝泊りさせるから、仲良くしてやってくれ。野呂は明後日頃やって来る筈だ、と言うようなことでした。僕だって留守番の全責任を持たせられるのは重荷ですから、よろこんでその申し出を承諾しました。
翌朝、十一時頃まで朝寝して、起き出した時には、もう不破夫妻の姿は見えませんでした。朝立ちをしたものと見えます。飯を焚こうと台所に行くと、僕の飯盒の上に一枚の便箋が置いてあって、なかなかの達筆で、
『野呂君と仲良くしてやって呉れ給え。彼はしんからの好人物であります』
そう書いてありました。もちろん不破の筆跡です。僕と野呂という男の仲を妙に心配しているんだな。ちょっとそう訝っただけで、直ぐその便箋は折り畳んでポケットにしまいました。
野呂がやって来たのは、それから二三日経った正午頃でした。僕が板の間にイーゼルを立てて庭の写生をしていると、表の方で大八車の音が聞え、やがて跫音が庭に入って来ました。庭に入って来た男は僕を見て、少しおどろいたらしく立ちすくんだ。僕は絵筆を置いてそいつの顔を見ました。汗だらけのその顔にはあちこち疣がくっついていて、それがまず印象的でした。
「野呂君ですか?」
と僕は訊ねました。
「いかにも僕は野呂ですが――」野呂は訝しげに板の間をのぞき込みました。「不破さんは居ないんですか」
「不破さんは昨日兵庫県に立ちましたよ」僕も不審に思った。だって留守番に来るんだったら、当主の旅行ぐらい知っていそうなもんですからねえ。「十日ぐらいかかるって言ってましたよ」
「十日?」野呂は眉をひそめました。「そりゃ困るなあ」
「困ることなんかないでしょ」
「困るよ」そして野呂はじろじろと僕を上から下まで眺め廻して、急に言葉がぞんざいになりました。「一体君は何だね。留守番かね?」
「留守番じゃないよ」少々僕もむっとして言い返しました。「留守番は君じゃないか。僕はここの居住者だ」
「居住者?」バカじゃなかろうかというような眼付で、野呂は僕を見た。「何を君は言ってるんだね。この家は僕のものだよ。不破氏から僕が買い受けたんだ。君は早々に出て行って呉れ」
「買い受けただって?」
今度は僕がびっくりして棒立ちになりました。
「そうだよ。早く荷物をまとめて出て行って呉れ。僕は僕の荷物を大八車でエンヤコラ運んで来たんだ」
「そ、そんな無茶な。僕だってちゃんと権利金を払い、きちんと賃貸借の契約をしたんだぞ」
僕は僕の部屋にかけこんで、領収証と契約書を急いで取出し、引返して野呂の前につきつけてやりました。野呂はそれを受取って調べ始めた。やがて不安と困惑の色が彼の顔いっぱいに拡がって来たようでした。
「不思議だねえ」彼はがっくりと板の間に腰をおろし、嘆息するように言いました。「何か誤解がある。まるでこの世には誤解が充ち満ちているようだ」
「君が買い受けたってのは、どんな事情だね」と僕もおろおろと訊ねました。「不破数馬氏からちゃんと買い受けたのかい?」
「そうだよ」
野呂はそれからいじめられた子供みたいな表情になって、語り始めました。それによると、半月ほど前、新聞広告欄で売家の広告を見て、この家に不破を訪れたんだそうです。すると不破は家の内外をくわしく見せ、土地も借地であるし、家もボロ家であるからして、十五万円にお負けしようとのこと。野呂の方も大体手頃の値段だと思ったが、言い値で買うのは野呂家の家憲に反するので、とりあえず一万円値切った(ケチな男ですな)というのです。すると不破はニコニコしながら快諾した。そこで野呂は四万円を手付けとして置き、残余の十万円が都合出来次第引越して来て、その節登記の変更をしようという話にまとまったんだそうです。
「だから僕は引越し車を引いてやって来たんだ」と野呂は悄然と頭を垂れました。「一体僕はどうなるんだろう。だまされたのかしら」
「そうかも知れないね」僕も不安げに相槌を打った。「でも、それにしてはおかしい。不破氏はまだ君から十万円取り分があるんだからね。逃げ出すわけがない。逃げたら損だものね」
「そうだねえ。それじゃやっぱり墓参に出たのかな」
「しかし、それにしても、君に売渡す約束をしながら、この僕から権利金を取ったのは、どういう心算だろう?」
「十万円が入ってから戻すつもりじゃなかろうか」
「そりゃあんまり僕を踏みつけにしたやり方だよ」僕はすこし怒りました。「それじゃ僕はツナギに使われたようなもんじゃないか」
「まあそう決ったわけじゃない」野呂は僕をなぐさめました。「とにかく不破氏が帰って来てから、その所存をただしてみよう」
「とにかく荷物を搬入した方がいいね。置き放しは物騒だからね」
「あっ、そうだ」
野呂はぴょこんと飛び上って、あたふたと表の方にかけて行きました。そこで僕もサンダルをつっかけて、そのあとを追った。門前に大八車がとまっていて、荷物がわんさと積んであります。どこから引っぱって来たのか知らないが、こんな大荷物をひとりで引っぱって来るなんて、痩せっぽちのくせに相当な体力だと内心舌を捲きながら、僕は荷物の搬入をせっせと手伝ってやりました。ところが野呂はそれを特に感謝する風でもなく、至極あたり前の表情で、時には僕に指図がましい口まで利くのです。この椅子を持てとか、これはこわれやすいから大切に運べとか、そんな具合に命令する。好意で加勢してやっているのに身勝手なことを言うなと思ったけれども、とにかくすべてを運び入れました。ところがそこで一悶着起きた。運び入れた洋服箪笥や机のたぐいを、野呂がせっせと中央の板の間に据え始めたものですから、僕が一文句をつけたのです。
「板の間にあまり置かないで呉れ。西の四畳半に置けばいいじゃないか」
野呂は顔を上げて、じろりと僕を見ました。
「そんなことを指図する権利が、一体君にはあるのかい」
「あるんだよ」
そして僕は、僕と不破との間にかわされた板の間共同使用の約束を、野呂に説明してやりました。すると野呂は口をとがらせて言いました。
「だって、そんなこと、契約書には書いてなかったじゃないか」
「書いてなくっても、そういう口約束になっているんだ」
「そりゃおかしい。ウソだろう。ふつう間借人なんてものは、一部屋だけに決ってるものだよ。それを不破氏がいないからと思って――」
「ウソじゃないってば」僕も大声を出しました。「契約書に板の間共同をうたってないと君は言うが、一部屋だけだとも書いてないじゃないか。君の言い方は実証的でないぞ」
「それじゃ水掛け論は止しにして、現実的に行こう。失礼ながら拝見したところ、君は道具類をろくに持っていない。全然ないといってもいいくらいだ。ところが僕はごまんと持っている。持てるものが場所を広く取るのは、こりゃ当然の話じゃなかろうか」
「そんな横車があるものか」
さかんに言い争っておりますと、庭の方から、ごめん、という大声が聞えてきました。見ると何時の間に入って来たのか頑丈そうな男と肥った男が、二人並んで立っています。頑丈な男が急に眼付をするどくさせて言いました。
「不破数馬はいないかね」
「旅行に出かけました」
「トンズラしやがったな」
肥った方の男が、騎手が馬の尻をひっぱたくような恰好で、自分の尻をピタンと叩き、口惜しげに言いました。頑丈男は一歩足を踏み出し、僕ら二人を指差しながら、威圧するような声で、
「君らは一体何だ!」
「それよりもあなたは一体誰ですか」と野呂が肩をそびやかした。
「僕はその筋のものだ」
そして頑丈男がポケットから、警察手帳みたいなものを出して見せたものですから、野呂の無理していからせた肩は見る見る低くなって、すっかり撫肩になってしまいました。
「はあ。僕は不破さんからこの家を買った者です」
「僕は不破さんからこの家を半分借りた者です」と僕も遅れじと言いそえました。「ともかくも一応おあがり下さい」