わたりがは
昭和二年の改造八月號、日本周遊二十八頁の上の六行目、
羽越線の汽車――改造社の宣傳班と別る。……
あはれ、あはれ、旅びとは、
いつかはこころやすらはん。
桓根を見れば「山吹や笠にさすべき枝のなり」
彼の旅行記、東北、北海道、新潟は、改造社に入用なものであつたらうが、(改造社版現代文學全集の宣傳を兼ねた講演旅行――所謂圓本のはじめ)彼にとつても、既に大正十一年五月の作であるところの、あはれ、あはれ、旅びとは、を、さしはさんだ旅行記が一つ必要であつたと思はれる。
東北、北海道、新潟の講演旅行で、一挺のぴすとるが彼の手にはいつてゐたのであらうか、彼は旅行から歸つて僕に會ふなり、「僕はこんどはいよいよぴすとるも手にいれた、」と言つてゐた。
「自分の死後どんなことがあつても發表はしてくれるな」と言つて、鵠沼で前年の冬、僕に預けたもののなかから、彼は三つ死ぬまでにひきだした。あはれ、あはれ、はその一つ。手帳八月號の風琴もまたその一つ、それに「なぜ?」を僕は二年の一月三十日に渡してゐる。
――夕方僕の宿で、僕の祖父の遺愛の詠歌自在の詞の栞から、僕等は二人がかりで詞を拾つてゐた。
「あはれ、あはれ、旅びとのこころはいつかやすらはん……ねえ君、何か詞をさがしてくれなきやおまんまを喰べに出かけられないぢやないか。はやく考へておくれよ、ねえ、はやく考へておまんまをたべにゆかうよ、君、」と彼に言はれてゐるうちに、
わた 海渡線
わだ (海川ノマガリ入ル處入江ノ水ノ淀)
わたどの 廊下
わだち 輪立 車ノ輪
につづいて
わたりがは (三途ノ川みつせ川)トモイフといふ詞に出會つて、僕等は思はず「ああ」と言つた。わた、わだ、わたどの、わだち、ととび、わたりがはといふ詞に出會つた時に、
今日のうちといふ今日のうちのその夕方に、
あはれ、あはれ、旅びとの
こころはいつかやすらはん
が、
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん
と、きまつて、改造社はその翌日に、東北、北海道、新潟の原稿を持つていつた筈である。旅行記の日附(昭和二、六、二十一)を僕のメモランダムとすれば、その前日に僕等は、わたりがはゆきといふことばを造つてゐた。
わたりがはをみつせ川と言ひかへることには、彼は不賛成で、僕は「みつせ川ゆきか、」といつて、二度三度「わたりがはだよ、君。」と言はれた。
「君、僕はわたりがはといふ詞を知らなかつた。こんないい言葉があることはいままで知らなかつた。僕は知らなかつたよ。」
うつとりとなつて斯う言つてゐた時の、ああもうつくしかつた顏を、僕は僕の一生に於いてもうみることはないであらう。
Gramme のことは知らない。骨あげで見た芥川の腦味噌は、曾て彼が用意してゐた脱脂綿を燃したとしてみたほどの嵩であつた。
(鼻口を埋む脱脂綿、縊死)
こはれた肋骨を掌に、舍利こつぱい御坊は御坊の勘考をふりまはしてゐた。
――ずゐぶん水腫のきてゐたひとですねえ?
――このきいろくなつてゐるところが藥でかうなつたのです。
――ここがわるくなつてゐたところの骨です。
改造社が民衆夏季大學の講師として、芥川を關西か九州のいづれかへのぞんでゐた。
――ああ、うるさいから電報で返事をしておいた。どうせ西の方だ、
――それまでに、おれはもうあの世にいつてゐるから、
――だから僕はただ、ユク、としておいたのだ、ユクとだけで場所は書かなかつたよ。
これは芥川が死ぬ數日前に僕に答へた言葉である。彼の死は七月二十四日日曜日、夏季大學は八月。
七月二十三日、芥川の伯母さんの考へでは午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた。
「――タバコヲトリニキタ、」
七月二十四日、芥川の伯母さんの勘定では、午前一時か半頃、芥川は復た伯母さんの枕もとにきた。さうして一枚の短册を渡して言つた。
「――ヲバサンコレヲアシタノアサ下島サンニワタシテ下サイ、」
「――先生ガキタトキ僕ガマダネテヰルカモ知レナイガ、ネテヰタラ、僕ヲオコサズニオイテソノママ、マダネテヰルカラトイツテワタシテオイテ下サイ――、」
先生といふのは下島勳(空谷)、田端の醫者、短册の句は、
自嘲
水洟や鼻の先だけ暮れ殘る
、一時半に伯母さんに「オヤスミ」を言つて、六時に奧さんが氣づいて、下島さんがとんできて、……みんな駄目であつた。私には醫者の知識はない。しかし、私はなぜか・四時の彼を感じる。