三
本庄は一分の隙のない昨夜のスマートな服装に引きかえて、今日はふだん着のままで羽織も着ず庭下駄を穿いて、奥田子爵の御休息所へ行った。近くから電話をかけたとみえて、茶席には桃子が先に来て待っていた。
彼女の青褪めた顔を見ると、本庄は胸がドキリとした。
「家の方に知れたんじゃない?」
真先に胸に浮んだことを云った。
「いいえ、違うの。家の者じゃない、あなたの奥様に知れちゃったじゃないの。私、どうしよう」
彼女はおろおろ声で云った。
「それがどうして、君にわかったの?」
「奥様から今朝お迎えが来たのよ。そしてお目にかかりました」
「どこで?」
「心霊研究所とやらの応接室で、私、とても気味がわるかったわ。眼をすえて廊下を歩いている女の人や、私の顔を射るような凄い眼で見ている人達が、うようよいて、私、体がかたくなってしまったのよ。奥様もお宅でお会いした時は優しいお顔をしていらしたけれど、今朝は深刻な表情で、私の心を突き刺すようなお眼をなすってね。本庄を迷わすようなことをなさると私はゆるしても私の守護の霊がゆるしません。あなたの身に禍いがふりかかるから再び昨夜のような過失をしてはなりませんよ。早く手をきって、あなたは人の夫などを盗まず、正統な結婚をおしなさい。と、仰しゃるの」
「余計なおせっかいだ。そんな言葉で、二人の仲を割かれてたまるもんか」
「でもねえ、私、考えちゃったの」
「どう考えたの?」
彼は慌てて訊いた。
「恐いんですもの。昨夜のことをもう知っていらっしゃるようじゃ、この先、あの方にはどんなことでも知れてしまうでしょう? 私、興がさめちゃった、と、云ってはすまないけれど、監視つきで、お互いのおつきあいをする気にはなれなくなっちゃったんですもの」
それには本庄も同感だった。
「別れるよ、僕は断然安子と別れる」
と本庄はきっぱり云った。
いま、こういう話をしていることも、安子は家にいて、ちゃんと知っているかも知れない。あるいは彼女の言葉をかりて云うならば、彼女の霊魂が彼女の肉体から遊離して、自由に飛び歩き、肉眼では見えないけれど、この部屋のどこかで覗き見しているのかも知れないのだ。
そんな馬鹿なことがあるはずはない。と打ち消すあとから、本庄は心が身に添わぬような不安に襲われるのだった。
「私、奥様のあの恐い眼が、この障子の穴からでも覗いてやしないかと思うと、落ちついていられないのよ」
「あり得ないことだよ。君が、そんな非科学的な事を信じるとは思わなかった。みんな心の迷いだよ。安子のかんは鋭いが、出鱈目だ、それがたまたま当ったので、不審に思うのだが、僕だって、想像を逞しゅうすれば、ある程度までは当るからね」
「そんな気休めだけでは私安心出来ないの。奥様は迚もあなたを愛していらしゃるのね。情炎に燃えた、火のようなあのお眼を見ても、あなたの心をやきつくさないではおかないのだと思えてよ。恐ろしい執念だわ」
「だから、別れる」
「ほんと?」
「ほんとも嘘もない。別れるより生きる道はないもの。絶えざる凝視に僕は苦しくなった。まあ、考えてもみたまえ。いつでも、いつでも、どこからか凝っと見ていられる、すべてを知られてしまう、それが妻だとあっては僕は休息することが出来ない。僕は疲れてしまったよ」
彼は両手で頭を抱えて、泣くような声でつづけた。
「誰だってある時間は自分ひとりの世界が欲しい、またそれが必要なんだ。自分だけしか知らない天地が要るんだよ。それがなくては生きては行かれない。それが心なんだ。心に思うことは口に出さない限り、何人にもわからないだろう? 僕はその心を大切にしていたのに、その心の中にまで忍び入って、僕一人で思っていることを盗み知ろうとする者があっては堪ったものではない。四六時中休息なしに公衆の眼の前で踊らされている者より辛い。僕は気狂いになりそうだよ。妻に別れることは一つしかない僕への救いの道だ」
「お別れになったら、それでもういいのかしら?」
「その上に何がある。僕は家屋敷も、財産も全部彼女に与えて、僕は裸一貰になって安子から離れるんだ。僕がいなくなっても、あれだけの屋敷と財産があれば一生食うには困るまい。食えないようにして捨てたと云われては困るから、何もかも洗いざらいくれてやる。そしたら文句はあるまい」
「でも奥様は、あなたの全財産なんかより、あなたという人が欲しいんじゃないか知ら?」
「なら、どうすればいいって云うんだ?」
彼は焦ら焦らして怒ったような口調で云った。
「どうすればって、私には分らないけれど、きっと離婚を承知されまいと思うのよ」
「どこまでも従いて来ようって云うんなら――、そして、いつまでも、この僕を金しばりにして苦しめようって云うんなら――」
と彼は血の気がさっと顔から退いて、鼻の頭に油汗がにじみ出た。
「どうしても離れないって云ったら、永久に僕から離れて、二度と附き纏えないようにしてやる」
「と、仰しゃると? どうなさるの?」
不穏の空気に、桃子はおびえながら青くなって訊いた。
「うむ。その時は――、その時は殺しちまうばかりさ。殺せば完全に僕から離れる。いや、それは冗談だよ。アハハハハ」
桃子は彼の膝に顔を伏せた。
彼女の頭の上で、本庄の空虚な笑い声がつづいた。