5
「この城内には入らずの間というのがある。そこには淀殿が坐っているそうだ。」
「わたくしもそんな話を聴きましたが、ほんとうでござりましょうか。」と、勇作は首をかしげていました。
「ほんとうだそうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐っている。それを見た者は屹と命を取られると云うことだ。」
「そんなことがござりましょうか。」と、勇作はまだ疑うような顔をしていました。
「そんなことが無いとも云えないな。」
「そうでござりましょうか。」
「どうもありそうに思われる。」
云いかけて、今宮さんは急に床の間の方へ眼をつけました。
「論より証拠だ。あれ、みろ。」
勇作の眼にはなんにも見えないので、不思議そうに主人の顔色をうかゞっていると、今宮さんは少し乗り出して床の間を指さしました。
「あれ、鎧櫃の上には首が二つ乗っている。あれ、あれが見えないか。えゝ、見えないか。馬鹿な奴だ。」
主人の様子がおかしいので、勇作は内々用心していると、今宮さんは跳るように飛びあがって、床の間の刀掛に手をかけました。これはあぶないと思って、勇作は素早く逃げ出して、台所のそばにある中間部屋へ転げ込んだので、勘次も源吉もおどろいた。だん/\仔細をきいて、みんなも顔をしかめたが、半蔵の二の舞はおそろしいので、誰も進んで奥へ見とゞけに行くものがない。しかし小半時ほど立っても、奥の座敷はひっそりとしているらしいので、三人が一緒に繋がって怖々ながら覗きに行くと、今宮さんは鎧櫃を座敷のまん中へ持出して、それに腰をかけて腹を斬っていました。
人参
一
その日は三浦老人の家で西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り旨くはなかった。併しもと/\御馳走をたべに来たわけでないから、わたしは硬いパンでも硬い肉でも一切鵜呑みにする覚悟で、なんでも片端から頬張っていると、老人はあまり洋食を好まないらしく、且は病後という用心もあるとみえて、ほんのお附合に少しばかり食って、やがてナイフとフォークを措いてしまった。
「わたしには構わずに喫べてください。」
「遠慮なく頂戴します。」と、わたしは喉に支えそうな肉を一生懸命に嚥み込みながら云った。食道楽のために身をほろぼした今宮という侍に、こんな料理を食わせたら何というだろうかなどとも考えた。
「今お話をした今宮さんのようなのが其昔にもあったそうですよ。」と、老人はまた話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売ってしまったか、質にでも入れてしまったのでしょう。さりとて武家の御用道中に鎧櫃を持たせないというわけにも行かないので、空の鎧櫃に手頃の石を入れて、好加減の目方をつけて坦ぎ出させると、それが途中で転げ出して大騒ぎをしたことがあるそうです。これも困ったでしょうね。はゝゝゝゝゝ。」
老人はそれからつゞけて幕末の武家の生活状態などを色々話してくれた。果し合いや、辻斬や、かたき討の話も出た。
「西鶴の武道伝来記などを読むと、昔はむやみに仇討があったようですが、太平がつゞくに連れて、それもだん/\に少くなったばかりでなく、幕府でも私にかたき討をすることを禁じる方針を取っていましたし、諸藩でも表向きには仇討の願いを聴きとどけないのが多くなりましたから、自然にその噂が遠ざかって来ました。それでも確かに仇討とわかれば、相手を殺しても罪にはならないのですから、武家ばかりでなく、町人、百姓のあいだにも仇討は時々にありました。なにしろ芝居や講釈ではかたき討を盛に奨励していますし、世間でも褒めそやすのですから、やっぱり根切りというわけには行かないで、とき/″\には変った仇討も出て来ました。これもその一つです。いや、これは赤坂へ行って半七さんにお聴きなすった方がいゝかも知れない。あの人の養父にあたる吉五郎という人もかゝり合った事件ですから。」
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたいもんですが、如何でしょう。」と、わたしは子供らしく強請った。
「じゃあ、まあお話をしましょう。なに、別に勿体をつけるほどの大事件ではありませんがね。」
老人は笑いながら話しはじめた。
安政三年の三月――御承知の通り、その前年の十月には彼の大地震がありまして、下町は大抵焼けたり潰れたりしましたが、それでももう半年もたったので、案外に世直しも早く出来て、世間の景気もよくなりました。勿論、仮普請も沢山ありましたが、金廻りのいゝのや、手廻しの好いのは、もう本普請をすませて、みんな商売をはじめていました。猿若町の芝居も蓋をあけるという勢いで、よし原の仮宅は大繁昌、さすがはお江戸だと諸国の人をおどろかしたくらいでした。
なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に舟見桂斎という町医者がありましたが、診断も調合も上手だというのでなか/\流行っていました。小舟町三丁目の病家を見舞って、夜の五つ頃(午後八時)に帰ってくると、春雨がしと/\降っている。供の男に提灯を持たせて、親父橋を渡りかゝると、あとから跟けて来たらしい一人の者が、つか/\と寄って来て、先ず横合から供の提灯をたゝき落して置いて、いきなりに桂斎先生の左の胸のあたりを突きました。先生はあっと云って倒れる。供はびっくりして人殺し人殺しと呼び立てる。その間に相手はどこへか姿を隠してしまいました。
桂斎先生の疵は脇差のようなもので突かれたらしく、駕籠にのせて自宅へ連れて帰りましたが、手あての甲斐もなしに息を引取ったので、騒ぎはいよ/\大きくなりました。雨のふる晩ではあり、最初に提灯をたゝき消されてしまったので、供の者も相手がどんな人間であるか、どんな服装をしていたか、些とも知らないと云うのですから、手がかりはありません。しかし前後の模様から考えると、どうも物取りの仕業ではないらしい。桂斎先生に対して何かの意趣遺恨のあるものだろうという鑑定で、町方でもそれ/″\に探索にかゝりました。さあ、これからは半七さんの縄張りで、わたくし共にはよく判りませんが、なにか抜きさしのならない証拠が挙ったとみえて、その下手人は間もなく召捕られました。それを召捕ったのが前にもいう通り、半七さんの養父の吉五郎という人です。
その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――丁稚小僧で久松というと、なんだか芝居にでも出て来そうですが、本人は明けて十五という割に、からだの大きい、眼の大きい、見るから逞しそうな小僧だったそうです。しかし運のわるい子で、六つの年に男親に死別れて、姉のおつねと姉弟ふたりは女親の手で育てられたのです。勿論、株家督があるというでは無し、芳町のうら店に逼塞して、おふくろは針仕事や洗濯物をして、細々にその日を送っているという始末ですから、久松は九つの年から近所の糸屋へ奉公にやられ、姉は十三の年から芝口の酒屋へ子守奉公に出ることになって、親子三人が分れ/\に暮していました。そんなわけで、碌々に手習の師匠に通ったのでも無し、誰に教えられたのでも無く、云わば野育ち同様に育って来たのですが、不思議にこの姉弟は親思い、姉思い、弟思いで、おたがいに奉公のひまを見てはおふくろを尋ねて行く。姉は弟をたずねる。弟も姉の身を案じて、使の出先などからその安否をたずねに行く。まことに美しい親子仲、姉弟仲でした。
これほど仲が好いだけに、親子姉弟が別々に暮していると云うことは、定めて辛かったに相違ありません。それでも行末をたのしみに、姉も弟も真面目に奉公して、盆と正月の藪入りにはかならず芳町の家にあつまって、どこへも行かずに一日話し合って帰ることにきめていたので、その日も暮れかゝって姉弟がさびしそうに帰ってゆくうしろ姿を見送ると、相長屋の人達もおのずと涙ぐまれたそうです。
「久ちゃんは男だから仕方もないが、せめておつねちゃんだけは家にいるようにして遣りたいものだ。」と、近所でも噂をしていました。
おふくろも然う思わないではなかったでしょうが、おつねを奉公に出して置けば、一人口が減った上に一年幾らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ/\我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。
ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ/\悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。
桂斎先生は流行医者ですから、うら店などへはなか/\来てくれないのを、伝手を求めてよう/\来て貰うことにしたのですが、先生は病人の容態を篤とみて眉をよせました。
「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」
医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの大世話場というところです。
二
それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通りの療治では、とてもいけない。人参をのませれば屹と癒ると思うが、それを云って聞かせても所詮無駄だと思ったから、黙って来ました。」
人参は高価の薬で、うら店ずまいの者が買い調えられる筈がないから、見殺しは気の毒だと思いながらも、それを教えずに帰って来たというのでした。その話を聴かされて、おつねは喜びもし、嘆きもしました。まったく今の身のうえで高価の人参などを買いとゝのえる力はありません。人参にも色々ありますが、その頃では廉くとも三両か五両、良い品になると十両二十両とも云うほどの値ですから、なか/\容易に手に入れられるものではない。ましてこの姉弟がどんなに工面しても才覚しても、そんな大金の調達の出来ないのは判り切っています。それでも何うかしておふくろを助けたい一心で、おつねは色々にかんがえ抜いた挙句に、思いついたのが例の身売です。
人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう/\その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは鳥渡可愛らしい眼鼻立で、みがき上げれば相当に光りそうな娘なので、自分も自然そんな気になったのかも知れません。それでも迂濶にそんなことは出来ませんから、念のために医者の家へ行って、おふくろの命は屹と人参で取留められるでしょうかと聞きますと、十に九つまでは請合うと桂斎先生が答えたそうです。おつねは喜んで帰って来て、弟にその話をすると、久松も喜んだり嘆いたりで、しばらくは思案に迷ったのですが、姉の決心が固いのと、それより外には人参代を調達する智慧も工夫もないのとで、これもとう/\思い切って、姉に身売をさせることになってしまいました。