5
「おや、どうもありがとう。だが、もうそんなことを言ってもらって嬉しがるような年でもないから大丈夫自惚れやしないからたんとお言い」とお光はちっとも動ぜず、洗い髪のハラハラ零れるのを掻き揚げながら、「お上さんと言や、金さん、今日私の来たのはね」
「来たのは?」
「ほかでもないが、こないだの、そら、写真のはどうなの?」と鋭い目をしてじっと男の顔を見つめる。
「うむ、あれか、可愛らしいね」
「可愛らしいからどうなの?」
「どうてえこともねえさ」
「何だね! この人は。お前さん考えとくと言って持って帰ったんじゃないかね?」
「そうさ」
「じゃ、考えたの?」
「別に考えて見もしねえが、くれるなら貰ってもいい」
「貰ってもいいんだなんて、何だか一向弾まない返事だね」
「なに、弾まねえてえわけでもねえんだが……何しろこうして宿屋の二階に燻ってるような始末で、まるで旅へでも来た心持なんだからね。まあ家でも持って、ちゃんと一所帯構えねえことにゃ女房の話も真剣事になれねえじゃねえか」
「そりゃ、まあね」とお光は意を得たもののように頷いて見せる。
「だが、向うは返事を急いででもいるのかい?」
「向うはなに、別に急いでもいやしないけどね」
「急がなくたって、何もこれ、早くくれてしまわなきゃ腐るてえものでもねえんだからな」
「当り前さ、夏のお萩餅か何ぞじゃあるまいし……ありようを言うとね、娘もまだ年は行ってても全小姐なんだから、親ももう少し先へなってからの方が望みなんかも知れないのさ」
「じゃ、とにかくもう少し待ってもらおうじゃねえか。第一お前、肝心の仲人があの通りの始末なんだもの」
「仲人があの通りってどう?」
「新さんの今のとこさ」
「ああ、だけど、それを言ってちゃいつのことだか分らないかも知れないよ」と伏目になって言った。
金之助は深くも気に留めぬ様子で、「こっちだっていつのことだかまだ分らねえんだから……だが、わけのねえことだから、見合いだけちょっとやらかして見ようか?」
「え、見合いを」お光はぎょッとしたように面を振り挙げたが、「さあ……ね、だけど、見合いをすりゃ、すぐ何とか後の話をしなけりゃならないからね。見合いをしっ放しにして、いつまでもまた引っ張っとくというわけにも行かないから……まあ何てことなしに延ばしといたらいいじゃないかね」
「そうかい、それじゃまあ、どうなりとお光さんの考え通りに任せるから、よろしく頼むよ」
金之助は急須に湯を注したが、茶はもう出流れているので、手を叩いて女中を呼ぶ。
間もなく、「何か御用ですの?」と不作法に縁側の外から用を聞いて、女中はジロジロお光の姿を見るのであった。
「御用だから呼んだのよ。この急須を空けっちまっての、新しく茶を入れて来な」
「はい」と女中はようよう膝を折って、遠くから片手を伸ばして茶盆ぐるみ引き寄せながら、
「ついでにお茶椀も洗って来ましょうね」
「姐さん、あの、便所はどちらですの?」
「便所ですか? 御案内しましょう」
「はばかりさま」
女中は茶盆を持ってお光を案内する。
しばらくすると、奇麗に茶道具を洗い揚げて持って来たが、ニヤニヤと変に笑いながら、「ちょいと、あなたのレコなの?」と女中は小指を出して見せる。
「何が? 馬鹿言え」
「隠したって駄目よ。どこの芸者?」
「芸者だ? 馬鹿言え! よその立派な上さんだ」
「とか何とかおっしゃいますね。白粉っけなしの、わざと櫛巻か何かで堅気らしく見せたって、商売人はどこかこう意気だからたまらないわね。どこの芸者? 隠さずに言っておしまいなさいよ」
「ちょ! 芸者じゃねえってのに、しつこい奴だな」
「まだ隠してるよ! あなたが言わなきゃ俥屋に聞いてやる」
「俥屋が何とか言ってますか?」と背後からお光が入って来た。
「あら!」と女中は真赤になって、「まあ、御免なさいまし。いえね、お尻を振らずに俥屋は走れないものか、それを聞いて見ようとそう申して……ほほほほ。あなた布団をお敷き遊ばせ」と格にもない遊ばせ辞をてれ隠しに、そのままバタバタと馳せ去ったのである。
「何のことなの? 女中の言ったのは」
「なあに、馬鹿馬鹿しいのさ。お光さんのことをどこの芸者だって……」
「まあ、厭よ……」
「芸者なものか、よその歴としたお上さんだと言っても、どうしても承知しやがらねえで、俺が隠してるから俥屋に聞いて見るって、そう言ってるところへヒョッコリお光さんが帰って来たのさ。お多福め、苦しがりやがって俥屋の尻が何だとか……はははは、腹の皮を綯らしやがった。だが、そう見られるほど意気に出来てりゃしようがねえ」
「およしよ! 聞きたくもない」とお光は気障がって、「だけど、芸者が何で金さんのとこへ来たと思ったんだろう!」
「それがまたおかしいのさ。馬鹿は馬鹿だけの手前勘で、お光さんのことを俺のレコだろうって、そう吐かしやがるのさ、馬鹿馬鹿しくって腹も立てられねえ」
お光はただ笑って聞いたが、「そうそう、私ゃその話で思い出したが、今家にいる若い者ね」
「むむ、あの店にいる三十近くの?」
「あれさ、為といって佃の方の店で担人をしていた者でね、内のが病気中、代りに得意廻りをさすのによこしてもらったんだが、あれがまた、金さんと私の間を変に疑ってておかしいのさ。私が吉新へ片づかない前に、何でも金さんとわけがあったに違いないんだって」
「へええ、どうしてお光さんの片づかねえ前のことなんか――お互いに何も後暗いことはねえから、何と言おうがかまわねえけれど、どうしてまたそんなころのことを知ってるんだろう?」
「それがさ、お前さんをその時分よく知ってて、それから私のことも知ってるんだって」
「はてね、俺が佃にいる時分、為ってえそんな奴があったかしら」
「それは金さんの方じゃ知らないだろうって、自分でも言ってるんだが、何でもね、あの近辺で小僧か何かしていて、それでお前さんを知ってるんだそうだが、寄席なぞでよく私と二人のとこを見かけたって……変な奴がまた、家へ来たものさねえ」
「そりゃしかし、お光さんも迷惑だろうな。くだらねえこと言やがって、もしか新さんの耳にでも入ったら痛くねえ腹も探られなきゃならねえ」
「なにもね内の耳へ入れるようなことはさせないから、そりゃ大丈夫だけど……金さん、もう何時だろう?」と思い出したように聞く。
金之助は床の間に置いてあった銀側時計を取って見て、「三時半少し過ぎだ。まあいいじゃねえか」
「いえ、そうしちゃいられないの、まだほかへ廻らなきゃならないから……」とお光は身支度しかけたが、「あの、こないだの写真は空いてて?」
「持ってくかい?」
「え、あれはほかでちょいと借りたんだから」
五
お光の俥は霊岸島からさらに中洲へ廻って、中洲は例のお仙親子の住居を訪れるので、一昨日媼さんがお光を訪ねた時の話では、明日の夕方か、明後日の午後にと言ったその午後がもう四時すぎ、昨日もいたずらに待惚け食うし、今日もどうやら当てにならないらしく思われたので。
「今まで来ないところを見ると、今日も来ないんだろう、どうも一昨日行った時のお光さんの様子が――そりゃ病人を抱えていちゃ、人のことなんぞ身にも人らなかろうけれど――この前家へ来た時の気込みとはまるで違ってしまって、何だか話のあんばいがよそよそしかったもの」と娘を対手に媼さんが愚痴っているところへ、俥の音がして、ちょうどお光が来たのであった。
親子は裁縫の師匠をしているので、つい先方弟子の娘たちが帰った後の、断布片や糸屑がまだ座敷に散らかっているのを手早く片寄せて、ともかくもと蓐に請ずる。請ぜられるままお光は座に就いて、お互いに挨拶も済むと、娘は茶の支度にと引っ込む。
「一昨日はどうも……御病人のおあんなさるとこへ長々と談し込んでしまいまして、さぞ御迷惑なさいましたでしょうねえ。どうでございますね? 御病人は」
「どうも思わしくなくって困ります」とお光は辞寡に答えて、「昨日はお待ちなすったでしょうね。出よう出ようと思っても、何分にも手が空けられないものですから……今日やッと出抜けて今向うへ廻ってすぐこちらへ参ったのですよ」
「まあねえ、お忙しいとこを本当に済みませんね、御病人のお世話だけでも大抵なとこへ、とんだまたお世話をかけまして……」
「あれ、私の方から持ち込んだ話ですもの、お世話も何もありゃしませんけど……」と口籠るところへ、娘のお仙は茶を淹れて持って来た。
例の写真ではとても十九とは思われぬが、本人を見れば年相応に大人びている、色は少し黒いが、ほかには点の打ちどころもない縹致で、オットリと上品な、どこまでも内端におとなしやかな娘で、新銘撰の着物にメリンス友禅の帯、羽織だけは着更えて絹縮の小紋の置形、束髪に結って、薄く目立たぬほどに白粉をしている。
「お仙ちゃん、どうぞもうかまわずにね、お客様じゃないんだから」
「え、何にもかまやしないことよ」
「かまいたくも、おかまい申されないのでございますからね」と媼さんは寂しげに笑う。
「でも、この間伺った時にゃ大層御馳走になってしまって……」と今さらに娘の縹致を眺めて、「本当に、お仙ちゃんはいつ見ても美しいわね」
「あら、厭な姉さん!」
「だって、本当なんだもの。束髪も気が変っていいのね」
「結いつけないから変よ」
媼さんが傍から、「お光さんこそいつ見ても奇麗でおいでなさるよね。一つは身飾みがいいせいでもおありでしょうが、二三年前とちっともお変りなさいませんね」
「変らないことがあるものですか、商売が商売ですし、それに手は足りないし、装も振りもかまっちゃいられないんですもの、爺穢くなるばかりですのさ」
「まあ、それで爺穢いのなら、お仙なぞもなるべく爺穢くさせたいものでございますね……あの、お仙やお前さっきの小袖を一走り届けておいでな、ついでに男物の方の寸法を聞いて来るように」
「は、じゃ行って来ましょう……姉さん、ゆっくり談していらっしゃいな、私じき行って来ますから」とお仙は立って行く。
格子戸の開閉静かに娘の出て行った後で、媼さんは一膝進めて、「どうでございましょう?」
「少しね、話が変って来ましてね」
「え、変って来ましたとは?」と気遣わしそうに対手を見つめる。
「始めの話じゃ恐ろしく急ぎのようでしたけど、今日の口振りで見ると、まず家でも持って、ちゃんと体も落ち着いてしまって、それからのことにしたいって……何だかどうも気の永い話なんですよ」
「ですが、家をお持ちなさるぐらいのことに、別に手間も日間も要らないじゃございませんか」
「それがなかなかそうは行かないんですって。何しろこれまで船に乗り通しで、陸で要る物と言っちゃ下駄一足持たないんでしょう、そんなんですから、当人で見るとまた、私たちの考えるようにゃ行かないらしいんですね」
「ですがねえ。私なぞの考えで見ると、何も家をお持ちなさるからって、暮に遣う煤掃きの煤取りから、正月飾る鏡餅のお三方まで一度に買い調えなきゃならないというものじゃなし、お竈を据えて、長火鉢を置いて、一軒のお住居をなさるにむつかしいことも何もないと思いますがね」
「それに何なんでしょう、今はまだ少し星が悪いんでしょう。そんなことも言ってましたよ」
「じゃ、話だけでも決めておいていただいたら……」
「え、それは私も言ったんですがね、向うの言うのじゃ、決めておくのはいいが、お互いにまたどういう思いも寄らない故障が起らないとも限らないから、まあもう少しとにかく待ってくれって、そう言うものですからね」
「お光さん」と媼さんは改まって言った、「どうかね、遠慮なしに本当のことを言っておくんなましよね。ほかのこととは違って、御縁のないものならしかたがないのでございますから、向う様がお断りなさいましたからって、私はそれをどうこう決して思やしませんから」
「あれ、阿母さん、私ゃ本当のことを言ってるんですよ、全く向うの人はそう言ってるんですよ」