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聖アレキセイ寺院の惨劇
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聖アレキセイ寺院の惨劇
小栗虫太郎
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Chapter 3 of 5

二

「絶命しているのかい?」検事が片膝をつくと、法水は屍体の左手をトンと落して、

「ウン、咽喉をやられたんだ。兇器が屍体付近にないのだから、明白な他殺だよ。それに、こんな低温の中でまだ体温が残っているし、硬直が始まり掛けたところだからね。絶命はたぶん四時前後だろうが、その一時間後に鐘が鳴っているんだ。」と云ってからルキーンに、「君、開閉器はどこだね?」と訊ねた。

「いや、鐘楼には電燈の設備がないのです。それから、姉妹には別条ないようですが。」

「それが、起きているのだから妙なんだよ。」検事が口を挾んだ。「鳴子の音を聞いても返事しなかったのは、事によると、姉妹はこの事件のことを知っていて、僕等に妙な感違いをしたのかもしれないがね。」

「何にしても、それは大したことじゃない。しかし電燈がないと、明け切るまで待たなくてはならんな。」法水は悠長な言葉を吐いたが、さっそく検事に手配を依頼して、その最後に、警察医と本庁の課員以外は構内に入らせぬようにして欲しい――と云う旨を付け加えた。

それから三十分後に、検事が警察医を伴って上ってくるまでは、暗黒の中で屍体を挾んだ二人の無言の行であった。ただルキーンが、

「やっぱりワシレンコだな。あいつも可哀そうに。」とかすかに呟くのを聴いたのみで、それを法水が問い返そうとした時、階段を上る跫音が聞えたのであった。しかしもうその時には、塔の上層に黎明が始まっていて、鐘群の輪郭が暈っと朧気に現われて来た。

「上の小鐘は暗くて判らんが、下にある大鐘だけは二つ見える。」警察医が屍体を検案している方には見向きもせず、法水は仰向いて独語した。「床から円蓋の頂点までが五米ぐらいか、それから鐘までも同じぐらいあるだろう。」

「そうです。」ルキーンが合槌を打った。「鐘は全部尖塔の頂にある窪みの中に隠れていて、大鐘の裾が塔の窓にチョッピリ覗いているくらいなんですから、どんな暴風にでもビクともしませんぜ。二つの大鐘の上に小鐘が八つあって、綱を引くと最初に小鐘が鳴り、続いて大鐘に及んで行く装置になっているのです。それから、鐘の横軸を支えている鉄棒は、頂辺まで伸びて大十字架になっているんですよ。」

法水は試みに綱を引いてみた。鐘は両手でやっと引ける程の重量だったが、果してルキーンの云う通り、最初小鐘が明朗たる玻璃性の音響を発し、続いて荘厳な大鐘が交った。彼はそれによって、鐘の鳴る順序が不変の機械装置によること、二つの大鐘がそれぞれ反対の方向へ交互に振動する――などを知った。それから少し経って、呼息が白い煙のように見え始めて来ると、今度はルキーンの服装に気がついた。帽子外套からズボンまですべて護謨引きの防水着で固め、しかも全身ずぶぬれである。

やがて、警察医の報告が始まった。

「死後約二時間半と云うところでしょうな。兇器は洋式短剣ですよ。創道は環状軟骨の左二糎程の所から最初刃を縦にして抉りながら斜上に突き上げているのですから気道は水平の刃で貫いてあります。そして、頸椎骨の第二椎辺をかすめた所が創底になっているのですぞ。」

それにいちいち点頭きながら、法水は屍体の不自然な形状を凝然と見下している。屍体は寝衣の上に茶色の外套を羽織り、腰を奇妙に鉾立ててしゃがんだ恰好のまま上半身を俯伏しているが、両手は水牛の角のような形で前方に投げ出し、指は全部鉤形に屈曲している。その傷口の下が、流れ出した血で湖水のような溜りだ。が、それには、周囲の床から扉の内側にかけてわずかな飛沫が飛び散っているのみのことで、どこにも乱れた個所がない。無論それによって、格闘の跡は愚か、死体が刺された以後に動いた形跡のないことまで明白に立証されるのであるが、その推定をさらに裏書しているのが両手の指先であって、それには、傷口を押えたと見なければならぬ血痕が付着していないのである。――そして、鐘楼にはその一円以外に、付着した血痕の存在が発見されず、兇器を捜した検事も空しく戻って来た。

「どうも解せんな。気管を切断されただけで雷撃的に即死するはずはないが、」法水はそう呟いて、死体の頭髪を掴みグイと引き上げた。「大体創道を見給え。こう云う方向から行われているのは、これまでの短剣殺人にはかつて例のなかったことだよ。しかも、沈着巧妙に頸動脈を避けて、たった一突きだぜ。それがまた、この奇妙な鉾立腰にぶつかると、一体犯人がどんな姿勢で突いたのだか?――すっかり判らなくなってしまうのだよ。それから、顔面が無残な苦痛で引ん歪んでいるにもかかわらず、たとえ十数秒の間でも床上を輾転反側した跡がない。無論手足に痙攣らしいものが見えるけれども、それには明確に表出がないのだ。すると支倉君、君はこれを見てどう思うね?」

検事は答えられなかったが、法水がいちいち指摘する屍体の不可解な点に、早くもこの事件の底深い神秘が現われているように思った。法水はそれから屍体の両腕に視線を落し、それを交互に掴んで、何か比較するものがあったらしかったが、続いて両眼を詳しく調べて、

「溢血点があるな。」と呟くと、今度は屍体を仰向けにした。すると、股下の辺りから――ちょうど閾から一寸程下った所に当るのだが――真鍮製の手燭が現われた。それは、直径五寸ばかりの鉢型をしたもので、堆状の火山型をした残蝋が鉄芯の受金を火口底のようにして盛り上っている。そして、その間から百目蝋燭にも使えそうな太い鉄芯が、真黒に燻ってニョッキリ突き出ていて、燃え尽きた芯がその裾の方で横倒しになっていた。ところが、手燭のあった辺の着衣を調べると、焦痕は愚かやや水平から突出している鉄芯の痕らしいものさえ見出されないのである。それも後で差込んだものでないことは、床から手燭の裾にかけて、微かながら血の飛沫があるので明瞭だった。

「何だい? 大変な執念じゃないか。」手燭を置くと、法水の眼がふたたび屍体の両腕に引かれて行くので、検事は訊かざるを得なくなった。

「ウン、左腕が内側へ曲っているだろう。今に君は、それが非常に重大な点だと云う理由が判るよ。」それから法水はルキーンを見て、

「君が昨夜ここを出る時に、この蝋燭がどのぐらいの長さだったか憶えているかね?」

「さよう、五分ばかりでしたかな。しかし、その後にラザレフが使ったかもしれません。」

法水は困ったような表情をしたが、すぐ着衣を脱がして屍体の全身を調べ始めた。微かに糞尿を洩らしているだけで、外傷はもちろん軽微な皮下出血の跡さえ見られない。が、腹の胴巻には札らしい形がムックリ盛り上っている。

「これです。」ルキーンは忌々し気に云った。「これがラザレフ唯一の趣味なんですよ。守銭奴です。こいつは。だから、可哀そうなもんですぜ。電燈料を吝んでいるのですから、姉妹二人とも薄暗い石油洋燈の光で、それも、少しでもながくともせば、こいつが大騒ぎなんです。」

屍体の検案を終ると、法水はラザレフの室に入って行った。その室は、礼拝堂の円天井と鐘楼の床に挾まれた空隙を利用しているので、梯状に作られてあった。扉に続いて二坪程の板敷があり、それから梯子で、下の寝室に下りるようになっている。そこには、姉妹の室で見たと同じ採光窓が床にあいていて、その上を太い粗目の金網で覆うてあった。こう云う奇妙な構造と云い、また、この室の存在が外部からは全然想像されないのを見ても、その昔白系華やかなりし頃には、恐らく秘密な使途に当てられていたらしく思われた。しかし、室内は整然としていて、結局法水は何物にも触れることが出来なかった。

それから、向う側にある娘達の室へ行くまでに、一つの発見があった。と云うのは、礼拝堂の円天井に当る部分の中央の床に、二個所彩色硝子の採光窓があいていて、そこから振綱の下にかけて、わずかではあるが、剥がれ落ちたらしい凝血の小片が散在していることであった。しかし、法水はそれには一瞥をくれただけで、振綱の下から三尺程の所を不審げに眺めていた。そこには、短い瓦斯管が挾んであるのだが、やがて彼は、その下から何物かを抜き取ると、それを手早くポケットに収め、そのままスタスタ歩き出した。姉妹の室の扉には掛金が下りていて、しかも鍵は、鍵穴の中に突っ込まれたままになっている。

「鍵にはないけども、」そう云って、検事は扉の前方の床に、わずか飛散している血粉を指摘した。「して見ると、始末の不完全な手で、犯人はよほど複雑な動作をしたと見えるね。」

そこへドヤドヤ靴音がして、外事課員まで網羅した全機能を率いて、捜査局長熊城卓吉が肥躯を現わした。法水は頓狂な声をあげて、

「いよう、コーション僧正!」

しかし、熊城の苦笑は半ば消えてしまい、側のルキーンを魂消たように瞶めていたが、やがて法水の説明を聴き終ると容を作って、

「なるほど、純粋の怨恨以外のものじゃない。手口に現われた特徴も、犯人が相当の力量を具えた男――と云う点に一致しているよ。」ともったいらしく頷いた。そして、さっそく部下に構内一帯に渉る調査を命じたが、程なく堂外の一隊を率いた警部が、ひどく亢奮して戻ってきた。

「実にどうも、得体が判らなくなりまして。最初入った貴方がた三人以外に、足跡がないのですからな。昨夜は二時頃に降りやんでいるのですから、凍った霙の上についたものなら、われわれでなくとも子供でさえ判らなけりゃなりません。それから兇器は、裏門側の会堂から二十米程離れた所で、落ちていた紙鳶を突き破っていたのです。」

そう云って、警部は一振りの洋式短剣を突き出した。銅製の鍔から束にかけて血痕が点々としていて、烏賊の甲型をした刃の部分は洗ったらしい。それがラザレフの所有品で、平生扉の後の棚の上に載せてあることが、すぐルキーンによって明らかにされた。そして、紙鳶は比較的最近のものらしい二枚半の般若で、糸に鈎切がついていた。

「まさか、使者神の靴を履いたわけじゃあるまいよ。」法水が動じた気色を見せなかったように、他の二人も、足跡を残さずにすむ脱出径路と不可解な兇器の遺留場所を解くものが、漠然と暗示されているような気がして、必ずや鐘楼内から、それを鑑識的に証明するものが、現われるに違いないと信じていた。だから、熊城はむしろ部下の狼狽振りに渋面を作ったほどで、さっそく法水に姉妹への訊問を促した。

扉が開かれてまず眼に映ったのは、この室の構造がラザレフの室と同一であると云うことだった。その時梯子を下りかけていた妹娘のイリヤは、愕然としたように振り向いたが、警部の正服を見ると、すぐ険しい緊張を解いた。その六尺近い豊かな肉付きは、まさにアマゾンと云う形容であろう。そして、直線と角のまるでない平和な丸顔を見ると、邪気ない単純な性格らしく思われるが、ときどき顔の向けようによって、積極的な意志と細心な思慮を隠しているとしか思われない、深い陰影が作られるのだった。彼女は男のような幅のある声で姉を呼び、少しも動じた気色を見せない。

姉のジナイーダは寝台の下にある屎瓶を布片で覆うてから、悠然と上って来たが、二七、八になるらしい彼女の神々しい美しさには、粗服の中にも聖ベアトリチェの俤があった。それが、高い思索と叡智を語るものであることは云うまでもないが、全体の感じは妹とは違い非常に複雑で、侵し難い厳かさの中にも、脆い神経的な鋭さと、瞑想めいた不気味なものとの両面が包まれているように思われた。それだけに、烈酷な実行力を認めることは出来なかった。しかし、これらの特徴以外に法水に注目されたのは、ジナイーダとルキーンとの対照がむしろ悲劇的に隔絶していることと、父の変死を伝えても、姉妹二人には睫毛の微動すら見られなかったことである。

「一昔前は神父フリスチァンと呼ばれた父が変死を遂げても、それが当然だと申さなくてはならないのですから……」ジナイーダは唇を歪めて、まず父親の死に冷たい嘲りの色を現わした。

「でも、御実父なのでしょう?」

「ところが、養父でございます。両親を一時に失った私ども二人は、慈愛深い神父フリスチァンの手許に引き取られて、その後を実父にも優った愛みの下に育てられて参りました。イリヤは父の手許で、私は年頃になってから、かねての希望通り修道院に……。その頃、父はキエフの聖者と呼ばれておりましたのですが、」しかしジナイーダは、ピインと眉をはね上げて次の言葉に移った。

「ところが、一九二五年にいよいよ私のおりました僧院が破壊されたので、当時巴里に移っていた父のもとに戻らなければならなくなりました。すると、そこに以前とは似てもつかぬ父を見出したのでございます。ああ、なんたる変り方でしょう 父はいつの間にか、聖職を捨ててしまって、聖器類を売払った金を資本に、亡命人達の血と膏を絞っているのです。そして、無論私達に対する態度も、昔の父ではございませんでした。」

「あり得ることです。」法水は重たげに頷いた。「革命の衝撃ですよ。大戦後の性格の激変で、それが因で起った悲劇は、かなりな数に上っていると云う話ですからね。で、その後は?」

「それから父は、過去った日の栄光を、真黒に汚れた爪で剥ぎって行きました。なかにも、わずかな金に眼が眩んだばかりに、ニコライ・ニコラエウィッチ大公のもとで例の『ジィノヴィェフの書翰』を偽造したぐらいですから。ですから、同志と不和を起して日本に渡った後も、やはり窮迫した人達を絞った金で、ここの堂守の株を買ったのでございます。サア、怨恨の心当りって そう云った日には、東京中の白露人全部が嫌疑者にならなくてはなりませんわ。あの貪欲と高い利息とでは、いくら勘忍強い神様でもお憎しみにならずにはいられないでしょう。ですから、現在の父を見て昔の高い感情を考えると、私にはどうしても、それが同じ人間だとは思われないのです。」

そこで、法水の質問はいよいよ本題に転じて行った。

「ところで、鐘の音をお聴きになったでしょうな。」

「ところが、それ以前に気味の悪いできごとがございまして。四時半頃眼が醒めると、階段の壁燈が点っているのです。父は御存知の通りなので、ルキーンが戻ったかなとも思いましたが、来れば鳴子が鳴るはずです。しかし、大して気にも留めずにいたところが、間もなくこの室の扉の前辺から離れて、コトリコトリと遠ざかって行く跫音が、鐘楼に起りました。」

「それには、何か特徴がありましたか?」

「それが、通例の歩き方で二歩のところが一歩と云う具合で、非常に一足ごとの間が遠いのです。何か考えながら歩いているようでした。」

「すると、妙なことになりそうですね。」そう云って法水は黙考に沈んだ。が、やがて顔を上げた時には、顔色が死人さながらに蒼ざめていた。「確かあなたは、お父さんの亡霊が歩いていたと云われるのでしょう。ですが、その一時間も前に、絶命が医学的に証明されているのですよ。」

まさに、心臓が一時に凝縮したと云う感じだった。それより、一体どこに推定の根拠があるのか?――法水の意外な言葉に、周囲の人々はいっせいに驚かされた。が、ジナイーダだけは水のように静かだった。

「医学的にどうこうは、問題ではございません。この世界は、計り知れない神秘な暗号と象徴に充ちているのですから。私は、正しくそれが父だと信じております。しかも、その音は非常に明瞭しておりまして、聴き誤まる惧れは毛頭もなかったのです。またたとえそれが、肉体の耳では聴えぬ消された音であったにしても、必ずや私には、異ならない啓示となって現われたに違いございません。」

なんたる厳粛さであろう 法水もそれに酬いるかのよう、沈痛な声音で応じた。

「なるほど。しかし、ハインリッヒ・ゾイゼ(十三世紀独逸の有名な神学者)がしばしば見た耶蘇の幻像と云うのは、その源が親しく凝視めていた聖画にあったと云いますがね。それに、誰やらこう云う言葉を云ったじゃありませんか。――自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや――とね。」

最後の一句が終らぬうちに、ジナイーダの総身に細かい顫動が戦いた。が、次の瞬間、彼女はカラカラと哄笑って、「これは驚きましたわね。私を犯人に御想像なさるとは恐縮ですわ。私達が現在父からどんな酷い目にあわされていようと、孤児院から救ってくれた大恩を考えれば、そんなことなんでもないことですわ。この点をとくと御記憶下さいまし。それに、もう一つ法水さん、永い間費って自然科学が征服したものと云うのが、カバラ教や印度の瑜伽派の魔術だけに過ぎないと云うこともね……」

法水は、神学との観念上の対立以外に、嘲笑を浴びたような気がしたが、ジナイーダは相手の沈黙を流眄に見て、いよいよ冷静に語を続ける。

「で、ともかく洋燈を点して、覗こうと致しますと、外側から鍵を下したと見えて、扉はビクとも致しません。そこで妹を起しましたが、二人とも恐怖のために、梯子を上って洋燈を消しに行くことさえ出来なかったのです。すると、そのうち程なく鐘が鳴り始めました。」

「それが妙なんですわ。」イリヤが口を挾んだ。「最初にゴーンゴーンと大鐘が鳴り出して、それから小鐘が始まったのですから。」

「エッ、なんですって」法水は一度で血の気を失ってしまった。ところが、ジナイーダも口を添えて、イリヤの前言を繰り返すのだった。

それこそ、文字通りの鬼気であろう。鳴鐘の機械装置はいかなる方法によっても、そう云う顛倒した鳴り方を許さぬのである。大体法水にしろ、鐘の鳴った原因を犯人の行動の一部に結びつければ、この事件には芥子粒程の怪奇もないと信じていた矢先に、イリヤの一言はたちどころに推理の論理的な進行を破壊してしまった。検事もブルッと身慄いして、

「そう云えば、たしかにそうだったよ。僕は大変なところをうっかりしていたもんだ。」

法水は堪らなくなったように扉の外に飛び出して、何度も鐘を振り仰いでいたが、それを見て、拡大鏡を振り廻していた一人の刑事が側に寄って来た。

「法水先生、鐘ですか? しかしあの大鐘は今も上って見たところですが、二三人かかって手で押したくらいでは、歯車があるのでビクともしませんぜ。また、内部の振錘を手で動かしたにしたところで、音だけは妙に詰ったような鳴り方をしますが、肝腎の鐘が動かないのですから、振動を上の小鐘に伝えることが出来ないのです。」

「なるほど、すると、鐘を傾けるのは、振綱以外にないと云うのだね。いや有難う。」

法水はふたたび姉妹の室に戻ったが、こうして鐘の性能いっさいを知り尽してしまうと、もうこの上、鐘声の不思議を科学的に考察する余地はないと思った。第一それより、なにゆえ鳴らされねばならなかったか?――が判らなくなってしまった。それがもし犯人だとすれば、どうして自分自身の存在を曝け出すような危険を冒してまで、あえてする必要があったのだろうか?(それに安易な解釈法を当てると、鐘が鳴った時、下の鐘楼には死体のほか誰一人いなかったと云う結論になってしまうのだ。)しかし死体になったはずのラザレフが歩いていたと云うジナイーダの言を考えると、肉体を離れた執拗な魂魄――ある種の動物磁気にすこぶる鋭敏だと云う説であるが――それを操って、跫音を現わし一方では、鐘を奇蹟的に動かした、一人の神現術者が存在するのではないかとも思われる。だが、そう考えることは、彼にとってこの上もない屈辱だったのだ。やがて、法水は今までにない緊張をこめてジナイーダに問いを発したが、その内容は雑談以上のものとは思われなかった。

「時に妙な質問ですが、貴女がいられた修道院と云うのは?」

「ハア、ビーンロセルフスクにありましたが、」

「すると、何派ですか。」

「トラヴィストでございます。」

「ああ、トラヴィスト。」それだけで法水の言葉がブッツリ杜絶れたが、その後数秒に渉って、二人の間に凄愴な黙闘が交されているように思われた。しかし、その時鑑識課員が姉妹の指紋を採りに入ってきたので、偶然緊迫した空気が解れて、一同はやっと一息吐くことが出来たのである。

その間、法水は側の置洋燈を調べていたが、偶然注目すべき発見にぶつかった。そのナデコフ型置洋燈と云うのは、電燈普及以前露西亜の上流家庭に流行ったもので、芯の加減捻子がある部分にそれがなく、そこが普通型のものより遙かに大きく小大鼓形をしている。そして、鎧扉式に十数条の縦窓が開くようになっていて、そこから外気が入ると、上方の熱い空気との間に気流が起って、それが中央の筒にある弁を押して回転させ、徐々に芯を押し出すのである。しかし、法水に固唾を呑ませたものは、この装置ではなく、安手の襟飾を継ぎ合せて貼ってある、台の底だった。彼が何の気なしにそれを剥がして見ると、内側の洋皮紙に――イワン・トドロイッチよりニコライ・ニコラエヴィッチ大公に贈る――と認められてあった。それを肩越しに見て、一人の外事課員が驚いたように云った。

「これですよ――四年程前巴里警察本部から移牒のありましたのは。大公の死後に、手ずから書かれた備品目録の中から、カライクの宝冠と皇帝の侍従長トドロイッチから贈られたこの置洋燈が紛失しているのです。」

「道理で、昼間はこれを寝台の下に隠すように、厳しく云いつけられておりました。父なら盗み兼ねませんわ。」ジナイーダが恥入ったように嘆息するのを、熊城は得たり顔に頷いた。

「いずれ劇的な秘密のあることだろうがね。とにかく動機としての資格は充分にある。だけど法水君、そうなると、一人殺すも三人殺すも同じことになるがね。それだのに、どうして外側から下した鍵をそのままにして逃げ出したのだろう。」

「それが判れば犯人の目星がつくぜ。だが僕の想像するところでは、その原因が床の採光窓だろうと思うね。ここから外壁の回転窓が見えるのだから、あれがちょうど階段の天井に当っているのだよ。だから、姉妹の誰か一人が金網をはずして硝子を踏み抜きさえすれば、犯人が迂回して窓の下に着く頃には、充分戸外へ飛び出してしまうことが出来る。つまり、明敏な犯人はそう云う危険な条件を悟って、昨夜は障碍を一つ除いたのみに止めておき、さらに次の機会を狙うことにしたのだろうと思うね。」

それから、法水はふたたびジナイーダに、

「ところで、鍵ですが、」と訊ねた。

「鍵は、父の室と兼用のものが一つしかないのです。そして、いつも父の室の花瓶の中に入れておくことに致しておりますが、どちらにも、夜分鍵を下す習慣はございません。とにかく、跫音と鐘声以外には、何も私達に触れたものがなかったことを御承知下さいまし。」

が、そう云い終ると同時に、突然ジナイーダはかすかな呻声を発してクラクラと蹌踉いた。法水は危く横様に支えたが、額からネットリした汗が筋を引いて、顔面は蝋黄色を呈している。それがなんとなく、抗争する気力のまったく尽き果てた――犯罪者として最も惨めな姿のように思われるのであるが……

脳貧血を起したジナイーダを寝台に横たえてから、法水はイリヤを伴って鐘楼に出たが、その時S署員が、六時頃聖堂と十五六町程隔った地点で非常線に引っかかったと云う、三十がらみの露人を同行した旨を伝えて来た。デミアン・ワシレンコと云う名を聴くと、

「あ、とうとう、」とイリヤがルキーンと同じ言葉を呟いた。

「あの人は姉さんには大変な逆上せ方なんですから。でも、姉さんと云う人は、人間の一番人間らしいところにはてんで興味がないのですから、一寸法師でも綺麗なワシレンコでも、同じものにしか見えないでしょうよ。」

「すると、ワシレンコは姉さんの愛人ではないのですね。」

「それどころですか、」イリヤはちょっと蓮葉な云い方をして、「姉さんはルキーンが一番好きだと云っているくらいですわ。ですから、昨夜ルキーンとの結婚を拒んだのも、私には父に対する面当としか思われません。実は昨夜こうなんです。――父が姉の花婿にルキーンを選んだのは、そもそも一寸法師の貯金が目当だったからです。そして、内々でかなり貰っていたらしいのですが、姉にそれを打ち明けたのがつい一昨日の話で、それから二日の間執拗く付き纏って、結婚の実行を迫るのでした。けれども、姉は何と云われても一言も口をきかず、頑強に拒み続けて、父と争いながら夜になりました。すると、娘の飜心を絶望と見た父は、にわかに態度を変えて今度はルキーンに法外な金を要求するのです。無論二人の間に激論が沸騰して、一時はどうなるかと危ぶまれましたけども、折よくその場にルキーン宛の電報が舞い込んで来たので、それが、一時だけですが、危機を防ぎ止めてくれたのでした。」

イリヤがペラペラしゃべってしまうのに、法水は少からず驚いたが、何となく先手をうたれる気がして、この女は単純なようで案外莫迦じゃないぞ――と思った。イリヤは続けて、

「姉と父の争いが一番激しかったのは、夕方五時頃のことでした。霙が横殴りに吹き込んで来るのに、姉は振綱の下で満身に雪を浴びながら、いつまでも黙って父の顔を睨み付けているのです。それは物凄い形相でしたわ。」

「するとこれが、踏み躙った婚礼の象徴なんですね。」法水はポケットから泥塗れに潰れた白薔薇を取り出して、「たぶん姉さんのでしょうが、この髪飾りが、振綱の下から五寸程のところに引っかかっていたのです。しかし、そう判れば、もうこれには用はありません。」と床に抛り出してから、「だが妙ですな。嫌いでなければ結婚してもいいでしょうがね。」

「それは、真実のことを云いますと、」イリヤはポウと頬を染めて、「私がルキーンを好いているのを知っているからでしょう。旧露字体のシラノは僧院の中から出て来るのですわ。」

「なるほど、面白い観察ですね。では、今度は階段の方を説明して下さい。」

それから。調査が階段の外壁にある回転窓に移ると、熊城は、窓硝子の中央に太い朱線が横に一本引かれてあるのを見て、

「なるほど、この壁燈が点け放しになっていたのをルキーンは不審がったと云うけれども、その理由はたしかこの朱線にある。しかし、これがどうして外から見えねばならなかったのか?」

法水は窓枠の埃をスイと撫でて、

「半分しか開かない!、 金具が錆びついているところを見ると、永らく開かれなかったと見えるな。それからイリヤさん、窓の下に引き込んである動力線らしいのは?」

その太い二本の電線は、正門の側にある電柱まで一直線に伸びていて、その上には氷結した雪が載っていない。イリヤはその周囲全部に渉って説明を始めた。

「ええ、パイプ風琴があった頃の動力線なんです。それから、窓の上に三尺ばかりの鉄管が、電線と並行に突き出ていますでしょう。以前は式日になると、あれにロマノフ旗を結びつけたそうです。また、鉄管に絡んでいる裸線は、私のラジオのアンテナですわ。いつだったか、陸軍飛行機の報告筒が鐘楼の屋根に落ちたことがありまして、その時塔に上った兵隊さんに頼んで、先を十字架に引っ掛けて貰ったのです。サア、これだけ判ったら、私を放免して、姉さんの看病をさせてちょうだい。」

鐘楼に戻ると、堂内担当の係員から報告がもたらされたが、それは――。両人の身体検査をしても芥子粒程の血痕さえ付着していないこと。振綱にも期待された着衣の繊維が発見されなかったこと。それから、礼拝堂の聖壇の下に間道が発見されたが、それには使った形跡がないばかりでなく、途中がまったく崩壊していて通行が絶対に不可能な事。そして最後に、指紋の無効果と、円蓋には烈風と傾斜とで霙の堆積がないこと――などで、すべてが空しかった。

「鐘は曲芸的な鳴り方をするし、とうとう犯人の脱出した径路が判らなくなってしまった。それに、短剣を下から投げ上げたにしたところで、五尺とない塔の狭間のどこかに打衝かってしまうぜ。」検事は落胆した態で呟いたが、法水にぜひ訊かねばならないものがあった。

「さっき君はなぜ、ジナイーダが聴いた跫音にラザレフを想像したのだね。」

法水の瞳がチカッと光ったが、彼は冴えない声を出した。

「それは、死体の左腕が内側に湾曲っていたからだよ。歩けるところを見ると、かなり軽度なもので、おそらく発病が眩暈を起した程度だったろうが、ラザレフの左半身は中風性麻痺に罹っていて、それがほとんど軽快に近い症状だったのだ。麻痺が薄らいでいたと云う証拠には、腕が内側に捻れて指先が鉤形になっている。また、そう云う時には、肢を曲げるのに困難を覚えるので、あの跫音をそれと想像させた環状歩行が起って来るのだ。つまり、不自由な方の足を、趾先がガクッとならないように足掌を斜めにして、内側から外方にかけて弧線を描きながら運ぶからだよ。すると、健康な脚を運んだ時しか音が立たないから、二足運んでも跫音は一つしか聴えない。だから、それに似た調子が連続して聴えたとしたら、当然ラザレフを想像するほかにないだろう。」

ラザレフの左半身不髄であると云うことより、法水の理路整然たる推論に驚かされたが、

「なるほど、」と熊城は深く頤を引いて、「すると、振綱に瓦斯管が挾んである理由が判ったよ。半身のあまり自由でないラザレフは、あれに足を掛けて引く力を助けるのだ。」

「ウン、ところが熊城君、僕がズバリと云い当てたばかりに思いがけない収穫があったのだよ。」と法水の顔に紅潮が差して来た。「あの時ジナイーダの外見はすこぶる冷静だったけれども、内心ではそれが異常な衝動だったのだ。もっともわれわれの心理には、ちょっとした恐怖を覚えると、ごくつまらないところで嘘を吐いてしまうものだが、とにかくどうであるにしろ、あの天使のような女の陳述の中に、一つ虚構の事実があったのだ。ねえ熊城君、ジナイーダはたしか自分のいた修道院がトラヴィスト派だと云ったね。しかし、真実は、刷新カルメル教会派なんだぜ。」

「カルメル教会派って?」

「例の裸足の尼僧団のことさ。裸足の上に、夏冬ともセルの服一枚で過し、板の上に眠るばかりか、絶対菜食で、昔は一年のうち八ヶ月は断食すると云う、驚くべき苦行が教則だったとか云う話だがねえ。」

「だが、どうしてそれが判ったね?」

「と云うのは、僕がさっき、自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや――と云ったっけね。その時ジナイーダは確かに驚いたらしい。無論僕のつもりでは、それを一つの脅迫的な比喩として使ったに過ぎないのだが、しかしジナイーダを驚かせたのは、自分が犯人に擬せられたのを悟ったからではない。元来犯罪者と云うものは、そう云う点には予め用意があるものだからね。では、なぜかと云うと、その一句の文章と云うのが、自身の不思議な夢幻状態を語った、カルメル派の創始者聖テレザの言葉だからだよ。西班牙の女はカルメンだけと思っちゃ間違いだぜ。その昔、神秘神学の一派を率いて、物体浮揚や両所存在まで行ったと云う偉大な神秘家がいたのだ。それにもう一つ――これはまず日本に五百人と馴染のない顔だけど、聖テレザの後継者と呼ばれる僧モリノスの画像が、寝台の横手の壁にかかっていたからだよ。」

「そう云えば、確かに中世紀の修道僧らしい画像があったよ。」検事が合槌をうつと、

「ウン、そこでだ。ジナイーダが童貞女生活のうちに、どの程度までこの一派の修道を積んだか? また、なぜ嘘を云わねばならなかったか?――判らないけれども、」と云いかけて、法水は俄然厳粛な表情になった。「とにかく、ただ一人虚偽の陳述をしたと云う点だけでも、あの女が一番犯人に近いと云えるね。」

熊城はびっくりして叫んだ。

「冗談じゃない。君は鍵のことを忘れてしまったのか。」

「それがさ。ここの扉口は回転窓もないし、下に隙もない。けれども、糸で鍵を操る術はヴァンダインの『ケンネル殺人事件』だけでつきちゃいないよ。君、お化け結びと云う結び方を知ってるだろう――一方の糸は喰い込む一方だが、片方のを引くと、スルリと解けてしまうのを。マア、実験すれば判ることだ。」

法水は鍵の輪形をお化け結びで結んで、ラザレフの室の扉の前に立った。

「憶えておき給え。最初に鍵を差し込んで、もう一捻りで棧が飛び出すと云う瀬戸際まで捻っておくんだ。そして、片方の糸を――解けない方だよ――把手の角軸に結びつけないで二回り程絡めておいて、間をピインと張らせておく。それから、片方引くと解ける方のを鍵穴から潜らせて、それには幾分弛みを持たせておくんだ。無論鍵の押金が上へ向いていればこそ、可能な話なんだよ。そこで、扉の内側に入って把手を廻すと、この通り糸が鍵を引いて回転させるので掛金は下りるが、鍵の押金は下へ降り切らずに中途で糸に支えられる。で、その次に、鍵穴を通った糸を引くんだ。無論鍵の輪形の結び目が解けるから、それから把手を何度も回転して、角軸に絡めたのを弛めながら糸を引けば、どうだい、スルスル中へ入ってしまうだろう。そして、鍵の押金が垂直になって痕が残らないんだ。」

しかし、法水は弛んだ顔で扉を開いた。

「ところが、鐘声があるので、この思いつきだけで事件を終らせてしまうわけにはいかないのさ。構内に足跡がないと云うことは結局犯人が堂内にあり――と云う暗示なんだがね。」

検事と熊城はややしばし放心の態であったが、やがて熊城は階下へ降りて行き、二人の捕虜に対する訊問を終って来た。

「ルキーンの奴は、イリヤの話は全部それに違いないと云うのだが、行くふりをした豪徳寺行だけは、飽くまで頑張り通している――なんてヘマな不在証明じゃないか。それから、ワシレンコは一種の志士業者で、右翼団体の天竜会が養っているそうだが、ひどい結核患者で見る影もないよ。あいつは昨夜ジナイーダが結婚すると云う噂に亢奮して、終夜この周囲を彷徨き歩いていたと云うのだがね。しかし、あの男は犯人じゃない。」そう云って、熊城は脂で染った指先をピチリと鳴らした。

「ねえ法水君、風が烈しかったのと傾斜とで、円蓋に霙が積っていない。だが、円蓋に足跡のないことが、かえって想像を自由にしてくれる。そして、なんだか犯人の目星がつきそうなんだよ。それから、鐘の鳴った原因もさ。」

「そりゃ奇抜だ。」法水は猛烈に皮肉った。「すると、君はどう云う方法で、鐘にああ云う不思議な鳴り方をさせるんだ? それに、第一犯人の特徴を備えた人物が、現在知られているうちにはないはずだぜ。」

Chapter 3 of 5
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