一、(直助権兵衛)どうせ終いは身を裂かれ
以上のとおり読み終ると、法水麟太郎は眼前の里虹を見た。彼は今日、めずらしく渋い服装をしている。
七つ糸の唐桟の対に、献上博多の帯をしめた彼を見ては、黒死館における面影など、何処にも見出されないのである。それは、彼自身にも俳優の経験があるばかりでなく、特殊演劇保存という見地からして、この一座とは何かと親しかった。
そこは、武州草加の芝居小屋、年も押し迫った暮の廿八日のこと――。
はや春興行に、乗り込みまでも済ました一座のものは、薄汚い仕度部屋のなかで、車座になっていた。
ぐるりには大入袋や安っぽい石版摺りの似顔絵などが、一面に張られていて、壁地の花模様などは、何が何やら判らないほどに、色褪めていた。
すべてが、腐った沼水にうつる水際のように、なんともいえぬ陰気な代物ばかりだったのである。
「どうだね真鳥屋、これには覚えがあるだろうが」
法水にそう云われて、里虹は慇懃に頷いた。彼は、懐古とも怖れともつかぬ異様な表情をして、凝っと伏目になっていた。
年のころは、六十を幾つか越えていて、牡牛のような、がっしりと肥えた多血質の身体をしていた。おまけに、台詞以外には吃る癖もあり、かつは永らくの阿片吸飲者でもあって、皮膚にはどこか薄気味悪い――まるで象皮腫のそれのような浮腫が一面に拡がっているのだった。
しかし、彼が孤島から救われた一人であることは、ここで贅言を費やすまでもないことだろう。
やがて法水は、側の壁に視線を転じ、そこに立て掛けてある絵を見入りはじめた。
それは百号ほどのもので、数世紀も遡行したと思われるような、暗い色調で描かれていた。事実クイロス教授が持ち出した謎は、この画中において、さらに混沌たるものになってしまったのである。
しかし、特徴と云えば二つほどあって、一人が蒼ざめ、打ち伏して苦悶していると、もう一人は、これは右胸を押え同じような表情をしている。
また、もう一つは、二人とも指の節が太く、髪の毛が薄く、頭が水頭のように膨れあがっていることだった。
しかし、以上のほかに、もう一つ際立って不思議なものがあったのである。と云うのは、二人とも、双方の足首に上図のような紋様が描かれ、それは――あるいは捺されたと云ったほうが、適切であるかもしれない。
「どうも僕には、クイロス教授の意志というのが、判らんのだがね。しかし、こう離れて見ていると、なんだか怖ろしいような気がしてくるじゃないか。どうやら、ボルルワスキーかニコラス・フェリー――臭いのだが……」
あるいは、朱と暗緑の対比から、発しているのかもしれないが、事実その絵からは、竦ませるような鬼気が迫って来るのだ。
法水は、なにやら云いたげな顔をしたが、その時隅から中山小六が乗り出して来た。
この老人は、耳の辺まで垂れた白毛を残して、てかてかに禿げ上っているが、身体は十一、二の子供くらい――どこからどこまでが、典型的な侏儒だったのである。しかも、どことなく弱々しく、腰も曲りかけている。
小六は半畳ほどずり出して、狡そうな笑を泛べ、
「すると、なんですかな先生。いまおっしゃった異人の名というのが、なにかこの図紋とでも関係がござんすので……」
と云うと、相手の深々とした皺を、法水は、痛ましげに見やっていたが、
「いやいや、なんでもないのだよ。じつは、ちょっと他のものに、附会けていたんだがね」
と何げなく云ったけれども、その眼はただならぬ暗色を湛え、ギロリと六人の車座を見まわした。
明敏な読者諸君は、すでに気付かれたことと思うが、小六はさておき、里虹を交えた他の四人というのが、その年配といい、なにかしら夷岐戸島の四人の嬰児を想い起させるではないか。
しかし、その暗合の魔力は、ついにその場限りではなかった。その時法水は、ただそれらしい符合に打たれただけで、やがて心火にめぐりはじめる、片輪車のことなどは毛ほども知らなかったのである。
法水が帰ってからも、一座はそのままの沈黙を続けていた。
霜刻に近い夜ふけの楽屋の中は、いたって火の気も乏しく、外の凍りが室内にも及んで、幟のはためきに、歯の音も合わぬほどの寒さだった。
そのうち山村儀右衛門が、例の神経的な、蒼白いしゃくれ顔を突き出して、
「ところで爺つぁん、春にはなんとかして当てようと思うんだがね。いっそ、慣例を打ち破って、四谷をやってみたら、どんなものだろう。伊右衛門はわっし、お岩は逢痴と、配役はざっとこんなもんでさあ」
と云って、彼はかたわらの逢痴と顔を見合せるのだった。
逢痴は、一座中の若女形だった。寒さにもめげず、衣紋を抜き出して、綺麗な襟足を隠そうともしない。
この逢痴には、はじめ二つの世界があった。
一つは、楽屋における男性であり、一つは、舞台における女性であったが、やがて自働的な聯想を起したのであろうか、今ではもう、感情挙動言葉服装とも、女性のそれと異ならないものになってしまった。
まったく着物のままざんぷりと水に漬けて、どこからどこまで透き徹してしまっても、たぶん彼には、女性以外の特徴が見出されないに相違ない。そうして、古風な芝居言葉だが、お内儀様と云われるのを喜んだり、箸の持ち運び、食事の仕様までもそのままなのを見ると、それが山下久米八と、いかに際立った対照をなしているか判ることと思う。
久米八は、他の三人と同じ、四十を超えた老女優だが、肉のかたく引き緊った、どこかに厭味のある顔立だった。
彼女は、すべてが男性化していて、その汚なげによごれた爪にも、身嗜みのないことを証拠立てている。
そして、その三人に挾まって、なんら特徴のないのが村次郎だった。
寡黙な、芸の引き立たないこの男は、容貌にも特徴がなく、いつも髪の毛に埃っぽい匂いがする――とまあそういったような、何から何まで役者らしくない男だった。
しかし、里虹はそう云われると、半白眼をぴたりと、儀右衛門に据えて、
「四谷……。へん、めっそうもねえ」
と吐き出すように云い放って、
「のう友田屋、おぬしは法水先生のお気に入りで、えらあく学問にも身を入れたものだが、新劇とやらはいざ知らず、この一座には四谷は北向きなのさ」
と壁に貼り付けてある写楽の絵で、岩井喜代太郎が扮している、「関本おてる」の色刷を見て、
「だいぶ安手な写楽のようだが、聴くところだと、喜代太郎はそれほどの背高じゃねえというそうだぜ。ただ写楽が、煙管を長く描いたもんだから、後々のうるさがりやが、高い背丈と釣合いの煙管なんて、そんなことを吐ざいたそうなんだよ。喜代太郎が、どうして高えもんかな」
と、話を外らすような、しかも、異様な言葉を口にしたのだった。
しかし、そう云いながら、里虹はぜいぜいと息を切らし、顳の脈管が、蛇のように膨れ上っているのが見えた。
彼はしばらく硝子戸越しに、外ではためいている幟を見詰めていたが、やがて返した眼が配役の一部に触れると、
「いいから、窓でも締めねえってことさ。こうして、車座になっていると、うっかり丁半とでも間違われるわな。おう、だいぶ風が出たのう。だが、吹いてるからいいようなものの、これが収まりゃ、そりゃ事だぜ」
と、異様な言を吐き嘲ら笑いながら、彼はつと立ち上ってしまったのである。
その夜儀右衛門は、いつまでも寝つくことができなかった。閉め忘れた裏木戸が、風のためにバタンバタンと鳴りつづけ、大道を吹き荒ぶ風は、松飾りに浪のような音を立てさせている。ふと、その響きに、彼は夷岐戸島の海鳴りを聯想したのである。
――はじめ想い泛べたのは、数字の符合だった。それは、夷岐戸島における四人が、現在自分をはじめの四人ではなかったかということだが、クイロス教授の文書を見ても、それには三男一女という符合があり、もはや疑うべくもないのだった。
さらに、もう一つの証拠というのは、四人がいずれも、実の父母を知らないということで、戸籍面を見ても、一家を創立した戸主になっているのだ。
そして、いまはっきりと知ったのは、四人のいずれか二人が里虹を父にしているということ――それが島中の二人が、島に流された二人であるか。また里虹の子以外の二人は、いったい誰を父にしているのであろうか。
その疑惑の深さには、現実も幻も差別がなく、揉み込めば揉み込むほど、頭の中に触れる突起がなくなってしまって、やがて彼は恍惚となってしまうのだった。
しかし、そうしているうちに、ふと松飾りのざわめきに触れると、彼の神経はふたたび鋭くなってきた。
そうして、今度は夷岐戸島に行き、不思議な人魚の行衛は、女の惨屍体は――と繞らせているうちに、いつとなく島内における、祖父母たちの生活を想い起すのだった。
――あの島における祖先の次の時代に、もし男の子と女の子とが、生れたとしよう。するとそこには、道徳も思想も、言語も抑制もあり得ないはずである。
ソドムの崩壊の日、生き残った一人の父と二人の娘は、いったいなにを行なったか。それは抱擁であり、肉慾であり、大いなる沈黙の儀式である――種族保存のためには、あの刑罰の神、エホバですらもそれを許したではないか。
しかし、近親相姦は……
儀右衛門はそこでハッとなり、鋭い苦痛を思って、慄え戦いた。彼は夜具に触れる衣擦れにも、獣めいた熱っぽさを覚えるのだった。
と云うのは、二人とも二十まえのことであったが、ふとした魔の戯れから、一夜山下久米八を犯してしまったのであるから。しかし当時の記憶といっても、声も立てない、まるで年増のような子供だったということや、その時逃げ出した足の下で、石ころが気味悪くごろごろしていたということなどで、それすらも、今では懲罰の意味を持つようになってしまった。
もしやして、二人が兄妹だったら――と。
いきなり血のさわぎを覚えて、儀右衛門は吾となく、胸をかきむしった。氷のような悪寒が脊髄を貫き走った。
彼は自分の血管の中に、木を噛む虫のような音を聴いたのである。その途端、儀右衛門は強烈な衝動に駆られて、一目散に楽屋のなかへ、飛び込んで行ったのであった。
そして、永いこと薄闇のなかに立ちつくして、彼は油絵具の、どんよりとした反映を見詰めていた。
が、心の中は、里虹に対する憤りで一杯だった。
あの男が、自分の父親であるかないかはしばらくさておき、もしそうでないとして、戸籍面をあのようにしたとすれば、とりもなおさず、自分が経験した近親相姦の悩みを、他の子供たちにもなめさせようとしたのではないか。
また、事実自分の子であったとしても、そういった悪魔的な性格は、あの男に必ずやあるに相違ない。
わけても、苦悩が酷烈なそれだけに、その心理はあながち奇蹟とは云われないはずである。それにしても、この四人ははたして誰の子なのであろう。一人、二人、三人、四人――そのうち二人が、たしかに里虹の子にはちがいないのであるが……
と、1、2、3、4――と数字の幻像が目まぐるしく駈け廻っているうちに、いかなる心理的な結合であろうか、いきなり6と9の上に、強いスポットのような光が落ちた。そして、その瞬間、儀右衛門は髪の毛が動いたかと思った。
何故なら、6と9と組み合わせた形は、胎内における双胎児のそれではないか。まったく、身も世もないあの烈しい相剋のなかで、静かに天鵞絨のうえを滑ってゆく思考の車があったのだ――それに今まで彼は気づかなかったまでのことである。
すると、五感が異常にするどくなって、まもなく儀右衛門は、画中から驚くべき特徴をつかみ出した。
それは、双生児にはつきものの鏡像なのであった。
鏡像と云えば、おおかた読者は承知のことであろうが、左と右、右と左といった具合に、双生児の各半面が相手の反対側に酷似することである。
画中では、それが頭の渦にも、利手にも顔の歪みにもあったので、はっきりと儀右衛門は、最終の解答を掴んだように感じた。
四人のうち二人は、たしかに双生児でなければならない――しかし、それを自分の身に及ぼしてみると、いまや儀右衛門は、世界中の嘲りを一身にうけているような気がした。しかしそれには、氷でも踏んでいるような、鬱然とした危懼さがまたあって、まだ何かありはしないか、ありはしないかと、全身の毛が一本一本逆立ってゆくような焦だたしさを覚えてくると、はしなく眼に止まったのは、畳の上に置かれ放しになっている、配役書だったのである。
で、窓を開けると、乳色の清々しい月の光が差し込んできて、その刹那、彼の眼をハッシと射返したものがあった。
直助権兵衛――その名を儀右衛門は、なぜか妙にひしむような、闇の香りのなかで味いはじめた。
それは、はじめ儀右衛門が、配役書きを置いたとき表に出た部分であって、里虹は一瞥をくれたのみ取り上げようともしなかったのであるが、しかしそれには、はっきりと彼の嘲りが泛び出ていた。
直助、権兵衛と――そう二つの名が重なり合っていることは、おそらく里虹のみが知る双生児の表象であろうし、さらに、実の妹とも知らずお袖と懇ろにした、骨肉相姦の意味も必ずやあるに相違ない。そうして、刻々と血が失われてゆくような真蒼な顔をしながら儀右衛門はじっと闇の中に立ちつくしていた。が、そうしているうちに、ふと彼の心を訪れてきた仄白い光があった。と云うのは、直助権兵衛と書かれたその下には、その役の嵐村次郎の名が認められてあったからだ。
村次郎、村次郎が直助権兵衛では、お袖は――と、やにわに彼はその全文を拡げてしまった。そして今や、動かぬ証拠を、掴み上げてしまったのである。
直助権兵衛 嵐村次郎
お岩妹お袖 山下久米八
それは、綾にからまっている絆を、ようやく解きほどいたという感じだった。倦怠いような、銷沈いような、頭の血がすっと下ったという感じで、まるで夢見るような気持で、彼は手に持った二つの名を、ぼんやりと見詰めているのだ。
あの時里虹が、村次郎の名を見ただけで、キッパリと云い切った――というのも、また彼が、問わず語らずに暗示した不倫な関係も、ことごとく、二つの名のうちに秘められているのではないか。
村次郎と久米八は、明白に双生児であり、二人はそうとは知らず、直助とお袖が堕ち込んだ、鬼畜の道を辿りつつあるのだ。そう判ると、かすかな嫉妬を覚えたけれども、これまでの惨苦も懊悩も一時に消え失せて、残った白紙の眩ゆさには、何もかも忘れ果ててしまうのだった。
そうして、再び床に入ったけれども、裏木戸の音は依然として止まず、その間を逢って、雨の滴が思い出したように落ちてくるのだ。
それには心動のような律動があって、四人の胸近くにいる思いがした。
誰しも今夜は、見知らぬ父母に憧れて、母の乳首の勃まり、厚い脂肪の底から伝わる、軟らかな脈打ちの音に、眠らぬ一夜を過すにちがいないと思った。しかし、それには鬱然としたものが感ぜられて、なんとなくモヤモヤとした、いつかは犯罪とでもなりそうな、やがては夷岐戸島の秘密を中心にこの一座に起るであろう、自壊作用の兆ででもあるかに考えられるのだった。
ところが、どうしたことか、その夜のうちに予感が適中してしまった。
翌暁風がおさまると同時に、それなり里虹の姿が、掻き消えてしまったのであるから……。
「まあ聴きねえ。座頭がわっしのことを、新劇崩れと云うだろうが、一時この座を離れて、妙な銭にもならねえ、真似をやっていたことがある」
里虹の行衛が知れなくなって何月目か後のこと、警察でも尋ねあぐんで、結局不入りのための失踪ということでケリをつけたのだが、その日、先夜の四人を前に儀右衛門が切りだした。
「ところが、そのうち一番うけたのが、例の『椿姫』ってやつさ。いいから、わっしに喋らせねえってことよ。そこで、なかの濡れ場にだが、こういう台詞があるのだ。椿姫が、色男のアルマンの胸に椿の花を挿して、『今度はいつ逢いましょう』と云われると、『この花の凋むときに』と答えるんだが、わっしのやった芝居では、すぐ花を凋ませて、アルマンがやって来るのさ」
と、なにやら険しい気組で、儀右衛門はギロリと一座を見廻すのだったが、その比喩にぴたりとくるのが、いつぞやの夜、里虹が口にした――風が収まりゃことだぜ――と云った言葉だった。
それが、この事件にとると、秘密の中の秘密といったようで、妙に青黒い、底知れぬ池を覗き込むような気がするのだった。
けれども、一座の者はいっこうにさりげなく、この鋭い比喩に動じたような者もないのだった。
しかし、儀右衛門の心の中は、嵐村次郎に対する疑惑で一杯だった。ああも、ギスリと里虹に刺されたのであるし、よしんば彼が父であるにしろないにしろ、そうと知られた上は、口を覆うよりも針を立てよ――ではないか。
しかし村次郎は、相も変らず黙々としているので、その物静けさには一種不気味な気持に駆られる場合さえあった。
もしあの夜、楽屋に入った儀右衛門を、村次郎が知っていたとすれば、思うに自分は燃えさかる熱蝋を胸に突きつけられて掴もうにも由なく、足を引きながらたあいなく後ずさりして、一滴一滴と、手から腕にまた胸に、憐れな蝋涙をうけていかなければならぬのではないか。
そうして、朧気に迫ってくる恐怖に、ひしと悶えて日を送るうちに、いよいよ法水の肝入りで、一座の東都初登場となった。
その乗り込みの前夜、はからずも事件の神秘を、一つ解くことができた――それは、風が収まればと云った、里虹の謎なのであった。
そこは、上州藤岡の劇場で、乗り込みを両三日中に控え、ちょうど千秋楽の日であったが、儀右衛門はひさかたぶりに、法水の来訪をうけた。
舞台裏には、唐人殺しに使う、提琴や矢筒などが、ところ狭く散らばっていて、開場前の劇場は、空間がなんとなく物侘びしげであった。
ところが、しばらく見ぬ間に、儀右衛門は見る影もなくやつれ果て、青々とした剃り跡が、ひときわ目立っていた。法水の眼には、それが雲母を地にした写楽の大首か、それとも、何かの死絵のように見えた。
彼は、儀右衛門の頭が上らぬ間に、早々切り出した。
「手紙はたびたび貰っているが、君はあまり考え過ぎると思うね。だいたい自問自答というやつは、自分で自分の心を解釈するんだから、いつも標準が狂いがちなものなんだよ。だから、対象となる自分の心の状態が、どうも誇張されやすいのだ。ところで、しばらく来ない間に、だいぶ顔触れが変ったようだが……」
「ええ、最近に仮髪師を一人拾いましてな。ちょっとした端役もやりますんで、それに、浅尾為十郎という、ど偉え名をくっつけましたんですが……」
と儀右衛門に云われて、思い出したのであるが、楽屋口に入ろうとしたとき、一人の瘠せた老人を見たのを思い出した。その老人は、異様に皺が深く、ことに青磁色をした、珍しい皮膚の色が印象的だった。
儀右衛門は膝を組み直して、
「ところで、たびたび申し上げました、村次郎のことでござんすが、座頭の行衛について、一度ぜひお耳に入れたいことがございますので」
と云いかけたのを、慌てて遮って、
「君は、あまりに考え過ぎるんだよ。無暗に解剖をしたがるんだ。正直に云うと、里虹の事件よりも、自分の解剖の方が、面白いんじゃないかね」
と微笑んだ法水の眼には、儀右衛門の意外な変り方が映った。それは、懸命に唇を噛んで、なにかの激奮を耐えているかに見えた。
「その村次郎のこってすが、わっしゃほんとうに、済まねえことをしてしまったんで。かねて先生から、役の性根や心理の解釈に、いろいろと教えていただきましたが、それが今度という今度は、わっしにゃ恨めしいんで……。じつは久米八の兄妹は村次郎ではなく、やはり、このわっしだったのです」
と彼は、思いもつかぬもの静かな態度で語りはじめた。
「ねえ先生、聴いておくんなさい。いつだったか知らねえが、人間っていうやつは、自分の心の動きをなにかの図や、線や角などで表わしたがるという話を伺いましたが、それが、あの晩の里虹に現われたのです。
あの時窓の外を見て、風にはためいている幟をしばらく眼に止めていましたが、その後で、吹いているからいいようなものの、風が収まりゃ事だぜ――と云ったものです。
ところが、あの翌朝、風が収まると姿が見えなくなったのですから、どうもその暗合にわっしたちは不思議な魔力があるのではないかと、考えるようになりました。そして、磁石にでも引かれるように、その人間放れのした蠱惑に、ぐいぐいと引かれていったのです。
ところが、どうだったでしょう。ふとした事から、その時の黙劇じみた秘密を知ることができたのです。
あながちそれは、徴候発作なんていう、難しい言葉で云い表わさなくても、わっしたちのやくざ世界にだって、面白い逸話があるのですよ。
それは、いかさま札の名人と云われた並木可次郎なんですけど、なんでも勝負の終り頃になって、坊主の二十で勝負が決まるような局面になったのですが、もちろん可次郎にはその札はないので、むしろ自暴気味だったのでしょう。しかし、彼は凝っと考えて、一人に、いま何時だと訊ねました。すると、その一人がふと二つある時計のうち、円い方に眼をやったのを見ると、そこで可次郎は、ポンと札を卓上に投げ捨て、君が勝ったと、その一人を指摘したという話があります。なぜなら、手近の角形のものを見ないで、わざわざ遠い丸形のを見たとすれば、それは坊主の二十を持っている証拠としきゃ思われないじゃありませんか。
そこで先生、あの時里虹の前には、四谷の配役の中で、直助権兵衛(嵐村次郎)とあるところが、開かれてあったのですが、その前にたしか村次郎の幟を見たのでしょう。
だいたい幟というやつは、風に吹かれると、よくどこかに大きな皺ができて、文字の扁がなくなったり、はなはだしい時には、一字丸ごと埋まってしまうような場合もあるのですが、一つ試しに、嵐村次郎とある上半分から、風という字を除って御覧なさいまし。
それが山村となるではございませんか。
ねえ先生、やはりあの鬼畜は、わっしだったのですよ。そして、座頭が云った風云々という言葉は、暗に私たちの関係を嘲ら笑ったものなんです」
「なるほど、フロイドの全集の中には、家(Haus)というところを、心中考えていたことを露き出して、腰巻(Hose)と発音したり、また、死(Tod)と心の中に思っていた言葉が、逸話(Anecdote)を Anectode と書き誤らせた記述があるからね。しかし、君の分析は素晴らしいと思うよ」
と法水は、別にこれという感情を表わさなかった。
しかし、山村儀右衛門の解釈は、いまや驚くべき悲劇的な光景となって、彼の前に現われた――あの嫌厭すべき近親相姦者は、ついに彼だったのである。
儀右衛門は、ぶるぶる総身を慄わせて、自分の両手を厭わしげに見やっていたが、やがて言葉を次いだ。
「それから先生、またあの時里虹は、写楽の『関本おてる』を見て、事実喜代太郎はさほど背の高い俳優ではなかったのだが、誤って写楽が、煙管を長く描いたので、その釣合から、後世の鑑賞家が背の高い俳優と信じてしまった――と云ったのです。
しかし、これは、いわゆる比例の問題ではないでしょうか。
それに、贅言は要りますまいが、偶然わっしはその真相を知ったばかりに、夷岐戸島の秘密の一部を窺うことができたのです。
と云うのは、外界に対照するものがなければ、汽車でも汽船でも速度が判らないように、里虹はあの島で、もう一人の男ばかりを見ていたために、自分を巨人と信じてしまったのでした。そうなると、相手の一人が、恐ろしく背の低い男にならねばなりませんが、私は、いまだに身柄の不明な、中村小六がそうではないかと思うのです。あの侏儒だけが、自分以外唯一の大人だったので、里虹は自分を素晴らしい巨人と信じ、船影を望むに及んで、自分の妻と二人の双生子を葬ろうとしたのです。
と云うのは、私たちが、いわゆる男と女の畜生児だったからです。
しかし、その双生子はさておいて、どうして自分の妻を殺さねばならなかったのでしょうか。
いいえ、ここまで云えば、私と久米八とが双生子の兄妹だったということも、また往時の慣習からして、双生児の畜生児は殺さねばならなかったということも、さらに里虹が両親からの云い伝えで、クイロスの船を赦免船と信じてしまったことも……。つまり、わっしたちに関することだけは、けっして独断でもなく、またわっしの詮索が、度過ぎたのでもないことはお分りでございましょう。
けれども、問題なのは、里虹の妻が、そもそも誰であるかということです。そこで、一つクイロスの文書を、最初から思い泛べていただきたいですがね」
法水は、この時、眼前の儀右衛門が、精神の昂揚状態に入っているのではないかと疑った。
いろいろな影像が入れ代り立ち代り、驚くべきほどの早さで、相手の表情の中を、かすめ行くのを見た。
儀右衛門は、なにかしら怖ろしい力に、捉えられたかのように息をせき喘いで、
「ねえ先生、たしかクイロスの文書の中には、あの不思議な神秘的な生物――人魚のことが記されてありましたっけね。ところが、上陸するとその姿は見えず、その夜上った※の裏側には、胴体だけの女の屍体がくくりつけてあったというじゃありませんか。里虹は、赦免の条件をあまり周到に考え過ぎた結果、この世にないもの、厭わしい一切のものを、自分の身近から葬り去ろうとしたのです」
「なるほど明察だ。とんとあの※の趣向は、戸板がえしそっくりだからね。これで、里虹が『四谷怪談』を、本気で禁めていたという理由が分ったよ」
と云った法水の声も、耳に入らないかのよう、儀右衛門は気味悪げな、薄笑いを浮べて云った。
「さすが、先生だけにお察しは早えが、なによりわっしが知りてえのは、お母ろのことなんですよ。
人魚の首と、腰からしたをぶった切ってしまえば、それはただの首無し女にすぎねえじゃありませんか。
わっしは、上陸したクイロスはじめの人たちを見て、さぞ里虹が魂消ただろうと――実際首丈ほどもねえ大男なんて、この世の何処にあろうもんかな。
それから先生、近頃じゃわっしも、臥床に入ると、爪先から脈の音が聴えるようになりましたが、そうするとお母ろが、毛孔から海の匂いを吹き入れてくれて、すっかり雲のように、わっしを包んでくれるんですよ」