一
東京芝白金の近郊に谷峡が三つ寄つた所がある。そこは、あちらもこちらも滴る許りの緑翠で飾られて居るので唯谷間の湿つぽい去年の稲の株がまだ覆されて居ない田圃だけに緑がない。
大崎の方に寄つた谷の奥には大きな雲の上に出る様な大杉が幾十本となしに生えて居る。そこは池田侯爵の屋敷である。白金の岡にはお寺が一軒二軒、中の岡には屋敷も無ければ寺もない。細い栗、楢、櫟が三十本六十本と生えて居る。
五月の初めであつた。ある日本晴れの日に此のまん中の岡の森蔭に、草を敷いて横になつて、本を読んで居た者があつた。
見ると、脊は普通より高い、痩形で、黒羅紗のチヤンとした正服を着て居る。
慥かMGを組合せた金ボタンをつけ、顔色は非常に青く、鼻は高いが、頬骨が少し出てゐる。目はどちらかと云ふと、大きくて鋭い。然し気高い輪廓の持主であつた。
此男はいつも此処に来る男だが、近頃は此処へ来て本を開いても別に読まうともして居らぬ。
たゞ目を閉じて黙想をして居る。然し之もあまり長くは続かぬ。すぐ眠つて終つて居る。が夢が醒めるとまた急いで本をかき開いて読む。三四行の処を繰返し繰返し読んで居て、此度は急いで畔道を伝つて白金の方に飛んで帰る。
今日も彼は例の如く此処へ遣つて来て、例の如くやつて居た。
その時彼のねて居る頭のうへの細道からだんだら降りに降りて来る一人の廿前後の青年があつた。小薩張りとした絣の衣服に真岡木綿の黒の兵古帯をしめ、鳥打帽を冠つてステツキをついて居た。
彼は脊は高くないが骨格の逞しい眉の濃い髯の多い、赤い顔した男だつた。
彼は散歩の帰り路である。
不図洋服を着た男が横になつて本を読んで居るのを見たから、急に立ち止つて声を掛けた。
『新見なんしてるか? よせ、よせ!』
『ア、鈴木か、何処へ行つて居たんだ?』と本を読んで居た男は叫んだ。
『僕か僕は目黒の不動さんの方へ行つて居たんだ。君、此春色駘然たる時に古臭い本なんか読むな、僕は君が恁那処でぐずぐずして居るのを知つて居たら、目黒の方へ連れて行つて遣るんだつた。新見また今日も煩悶か?』
『馬鹿!』
『何だその本は? 哲学か? よせ、よせ』と彼は歩を運んで新見の傍に腰を降して、彼が小笹の上に捨てた洋書を取り上げた。
『何だ之りや? Upaniashed と発音するのか? ウム。The sacred books of the East つて何だ一体?』
『これか、之れは紀元前千三百年から六百年の間に出来ただらうと云ふ印度の経典だよ、君、知らぬか? リグ、バタつて。昨日、上村の仏教史の講演に一寸と話して居たぢや無いか』
『ウムあれがどうした?』
『あれから、之が進化したのだよ』
『面白い物読んで居るな。僕など学科の準備にあくせくして居る許りで、外の本を読む暇なぞ無いがア。君は感心だな。内容は怎那者だ一体』と今迄本の体裁許り見て居たが三十頁もあらうと思ふ序文をめくつて大きな文字で印刷してある本文から読み始めた。
『凡ては梵なりか? 世界は梵の中に始まり終り又呼吸するものなるを黙想すべし……か、アハハ……汎神論か? 然し、面白い事を云ふね』
鈴木は本を閉じながら、
『新見君然し、君は、此本の云ふ所を真面目に信ずるかね。恁那昔噺の様な汎神論を?』と問ふたが、
『なに君等子供には解ら無いよ。印度哲学の一冊でも読んで、そんな事を云ひ給へ。近頃の子供は印度哲学の一冊も読まない癖に生意気な事を云ふ。まだ超越しない中は駄目だよ。大いに超越して解脱した者が始めて汎神論とか何とか云ひ得るんだ』鈴木は新見の一年下だ。
『それでも君常識から考へても因果律と物質は同一ぢやあるまいし、凡ての物を統一する者が切れ切れになるなら、統一も何も出来ぬぢや無いか?』新見は一本突き込まれた。
『スピノザでも研究して見給へ。科学的頭脳を持つて居る者が誰が馬鹿らしい創造論などを信ずるものか。然し君は熱心なクリスチヤン、而も伝道の準備に学院に来たのだから、敢てスピノザ気取るのぢや無いが君の信仰を迫害せんさ。勝手に神様を創造し給へ。然し物質不滅や勢力保存や進化論を信じて居る二十世紀文明が馬鹿らしい天地創造論などを信ぜられるものか』と真面目に論ずる。
『君、さうだけれども、物質不滅だつて勢力保存だつて進化論だつて皆仮定だらう。信仰だらう。僕等はあまり知らんさ。然しそれは自己の演繹で決して帰納では無いのだらう。僕は論理学で一寸と其様な事を読んだ事があるが……』
『然し、ヘツケルを――君は読んだ事があるかね? 一元論さ。物質精神一体両側面説さ――我等は無限に進化しつゝある者即ち神になつて居るのだ?』議論はいつしか全く真面目になつた。
『君それぢや死ねば人間はどうなる?』
『死ねば分子さ。何も不思議な事は無いぢや無いか』
『滑稽だな――神様がまた分子から復習するのか? 君それぢや進化が退化になつて居るだらう! 道徳も芸術も夢だな』
『君は解らんから困る!』
『兎に角、もう四時だ、三十分すれば、飯が食へるよ、そろそろ帰つて行かう、大分今日は理窟を並べたね』と鈴木は時計を見乍ら云つた。
『それぢや帰らうか?』と立ち上つた。洋服について居た塵を払つて、細い畔道を鈴木を先に立てゝ新見は帰つて行く。二人は岡に沿うて廻り、水車場の辺を上り、森の垣根に沿ふて歩んだ。鈴木が問ふた。
『君仏教は今日の科学的信仰と同じ事を云ふぢや無いか。それに君は何故明治学院などに這入つて来た? 仏教大学にでも入学すれば善いに』
『僕はそれだから哲学の方面から云へば仏教を取るが、併し仏教は駄目だよ! 僕は十七八位の時から哲学じみた事がすきで随分苦悶して歩いた方だがね。……十五の時に国の中学の三年が終んで直ぐ東京へ遣つて来て、あつち、こつちの中学を漂泊したさ。その間は教科書などは少しも手につけずに詩や哲学や雑誌を朝から晩まで読んでね、随分それは苦悶した者だよ。僕は高輪の仏教中学を卒業したのだよ。君は誰からか聞いたかい』
『いや、聞か無かつたが。――それぢや君は小さい時から哲学が好きだつたのだね。君、一体どうして哲学が好きになつたのか?』
『なに、一つは母と十歳の時に別れて、継母に養育せられたのと、僕が国を出ると云ふ動機が、姉の死と云ふのにあつたのだからね。自然僕の心が哲学に向いたと見えるね。さうだらう、君のクリスチヤンになつた動機を聞いた事があるが、君だつて三陸の海嘯に父母兄弟を失はずに居て人生を疑うことが無ければ信仰とか神とか云ふものを問題にしなかつたらう?』
『そらさうだ。君は高輪中学に居たのか? 面白い処に居たのだね。駄目か、仏教は?』
『駄目だね。僕は宗教学校に這入つて僕の疑問を取り去つて貰ふと思つたが全く駄目だね。反つて苦悶を増して来たさ、彼等の内幕を悟つたから』
『さうかね?』
『僕は鎌倉の建長寺へ参禅した事もあるが、馬鹿らしいよ、禅と云ふのも。此頃大分禅が流行して居る様だが君、仏教と云ふのは真に禅の様な者だね。輪廓許り残して色彩を消さうと云ふのさ。だから鎌倉何十の寺院之れ皆貸屋さ。君来光寺の本尊が売物に出たと云ふことを此間の新聞で見ただらう。あれは運慶の名作でね。彫刻家の喜ぶものだがね……仏教は道徳だとか人格だとか云ふものは全く否定して居るのさ。そして言葉で愚婦愚夫を欺いて居るのだ。駄目さ。肉と血の躍る者が信ずるものぢや無いな』
『全くだね。本願寺の失態なども、馬鹿気て居る位ゐ堕落してゐるからね。君それでは何うして明治学院の様な処に這入る様になつたんだ?』
『僕の父がね僕に強いて法律を研究せよと勧めて一高に居たのさ。然し三年の一学期と云ふ時にね。急に喀血してね――僕の母も姉も肺で死んだんだよ――医者が肺だと云ふぢや無いか。茅ヶ崎で一年と八丈ヶ島で一年遊んでね。今度はもう法律などをやる勇気は無いぢや無いか。非常に宗教的に傾いてね。仏教の方も飽いて居たから。明治学院の高等学部で一、二年遊ばうと思つてね、去年の九月、明治学院へ来たのだ』
『君明治学院は何う思ふ』と鈴木は新見の顔を見て尋ねた。
『僕は実際、基督教と云ふのは、も少し愛に満ちて居る者だと思つて居たがなア』と新見は答へた。
『然し僕は明治学院へ来て特別にさう感じたね。然し新見君、田舎のクリスチヤンは東京の信者と同様だと思つたら間違つて居るよ。真のクリスチヤンは田舎の隅の無花果の樹の下で神の国の夢を見て居るナタナエルだよ』
『僕は基督教の熱烈な歴史が今の信者の中には湧いて居ない様に思ふよ』
『実際僕だつて痛切にそれを感じて居るのさ。戦争の時に……会などを開く今の信者だからね』
『使徒時代の夢は何処にか消え、肉を十字架の上に割いたその熱烈と輝きも何処にか消えたね』
『実際だね。僕もその為めには祈つて居るさ』
『然し遂に経済問題さ。ね鈴木君、君、此間僕と平野の討論を聞いたかね。文学会の時に』
『君は幹事に叱られた相ぢや無いか?』
『やられたさ。然し君、凡そ精神界の事は蔭の表象を取らなければ人間と云ふものには感応が無いだらう。基督教だつて、アメリカと英国のコンモンウエルスを造らなくて、支那帝国の様な者を造つて許り居れば何の価値も無いぢや無いか。さうぢや無いか? キリスト教と云ふ者が今日の社会主義思想を産んだが、サン・シモンやフエリエルは使徒時代の様な世界を実現さそうとしたのだよ。全くだよ、キリスト教が社会主義思想の表象を取らなければ……。それだから僕は幹事にさう云つたのさ、帝国主義に、あなたの学校で教育なさりませ。然しそれはキリスト教ぢや御座いませぬよつて』
『君がさう云ふと、幹事は何う云つた?』
『そしたらね。兎に角文部省の方から社会主義を学生間に宣伝する者があれば厳重に取締れと云つて居るから、君も此の学校に居る間は彼の様な猛烈な破壊的な演説を講壇に立つて大勢の前では為て呉れるなつて』
『……。僕はキリスト教と国家とは決して一致する者ぢや無いと思つて居るがね。僕は社会主義を全く賛成は出来ぬが、今日の日本の信者が国家とキリスト教とが相衝突せぬと云つて弁護しよう、弁護しようといつて居るのが可笑しくつて堪らぬのだ。彼等は皆キリスト信者が……追ひ出される事が恐ろしいのだね』
『馬鹿だよ。世界的のクリスチヤンが何にも井上哲次郎や加藤弘之の様な曲学阿世の徒を恐れて国家とキリスト教の衝突を弁解しなくても、国家とキリスト教とは衝突する。衝突するが○○○○○○○にあると云ひ切れば善いのだに』
『………………………』
恁那に話が先から先へと花が咲いたが、二人は猶屠牛場の横を通つて大きな杉の木が両側に生えた道を白金の方へ歩んで行つた。その時話が大分切れて居たが鈴木は、
『君は中々面白い経験を持つて居るね』と口籠るやうに云ふた。
杉の間を通りすぎて右へ曲らうとした時に、後から声がする。
『鈴木――』
『新――見』
鈴木と新見とはハタと立ち止つて観れば、大食倶楽部の面々、田村、井上、松田、三田の四人、高等科一年の連中で皆普通科出身の火気ある青年達だ。
田村はハリス館の食堂に一番近い室を占めて居る。中脊の頭を五分刈にして普通科から満四年間冠つたと云ふ黒の羅紗が赤くなつて居る帽子を冠つて居る。此男が大食倶楽部の会頭で一日三度の食事時に、食堂の戸がまだ開かぬ時は、鍵穴から食卓の準備を覗く男である。或生徒が田村を歌つた事がある。
『朝起きと、自習時間のしかめ面、食堂さして恵比寿顔かな』
井上と云ふ男は『肉の人』と云ふ名が付いて居るので、恋愛研究が専門だと云ふ愉快な男である。縮れ毛に眼鏡をかけて居るが、高等科になつて、髪を長くして真中から別けたから、髪の癖をつける為だと云つて、寝る時も自習する時も帽子を取つた事の無い男である。
松田と云ふ男は『売卜』と云ふ名が付いて居る男だが、脊の低い大黒さんの様な顔をした男である。
三田と云ふ男は脊の細高い朝から晩まで、犬が人間の糞を踏んで辷つたとか、誰れそれの、鼻の穴の広さが何寸あるとか云つて笑つて許り居る男である。
呼び止められて新見と鈴木は立ち止まつて居たが、四人は何か頻りと笑ひ乍ら、足並揃へて二人に近づいた。そして腹を抱えたり、仰向いたり、伏向いたりして声を出来るだけ大きくして笑ふ。
新見と鈴木は不思議に思つて見て居たが、四人はまた新見の顔を見ては笑ひ、見ては笑ひ、滑稽な真似をする。新見は狐か狸にばかされた様な気味になつて、
『ウフ……。何だ人を莫迦にして居るぢや無いか』と云つて見たが、
『オホ……。新見君。云つてあげましやうか』と松田は新見の肩を押して、初めて口を開いた。横から田村が、
『アハハ、ハハツ……。ねえ、君がワイフは一生持たぬと云つて悲観して、昨日は一日学校にも出席せずに寝て居た事ですよ』
『それに君が、綺麗に髪を真中から別けて帽子も冠らずに、昨夜は二本榎でおでんを食つて居たと云ふ事ですよ。哲学者近頃何か感じた事があるといふのですよ』と松田が附け加へた。
『何だつまらんウフウフ……』と新見は軽く笑つた。
井上は松田の語尾を次いで、
『そのおでんを食つて居た顔は矢張り悲観して居たそうな』
三田は鈴木に向つて、
『君は哲学者の隣室でせう。昨夜は驕つて貰ひましたかね?』
『いや』と鈴木は軽く答へたが、
『僕は新見君がPを買つて居るのを見付けたのだが。それぢや……芋を独りで帝国主義したのだな。昨夜は』と三田は笑つた。
六人は歩んで行つた。新見は弁護を始める。
『昨夜は夕食が甘く無かつたから、遅く出て行つて芋を買つて食つたのですよ』
『どうか知ら?』
と、松田は云ふ。
鈴木は『君達はいつも盛んだね』と云つたが、
『そら我々は君達より二倍も三倍も食つてエネルギーをそれだけ多く製造して居るからね』と会頭田村は衆を代表して答へた。外の三人は『賛成。賛成』と和した。
新見は唯黙つて歩んで居る。大食倶楽部の連中の様に快活にして見ようと試みたが、重い蓋が胸の上にある様に思つて喜劇を演じて見ようとは思へ無かつた。頭には四、五日前に、リテラリー・ダイヂエストで読んだ、喜劇は現代に於て悲劇に代るであらうと云ふ論文を思ひ出して、エチズ・シアテ・グロスマンは少なくても彼の胸の中を知らぬと考へもして居た。
男全家の新築して居る借屋のあたりに差しかゝつた時、石を積んだ車を曳いて居る馬が、頸から牧草桶を吊つて口を桶の中に入れて食つて居る。
之を見た新見は、――
『田村君、此馬は随分君には敗けぬよ。君は箸を持つて食はなくちやならぬが、此馬を見給へ。斯うだ君、君も恁那にして食ひませんかア』と遣つて見た。
一同はドツと笑つたが、田村は至極真面目な顔をして、
『君、新見君、僕は社会主義の事は余り知ら無いが、社会主義と云ふものも大食主義と云ふのも同じ意味ぢや無いのですか?』口を尖らして論じ始めた。
三田は『卓論。卓論』と叫ぶ。田村は猶も続けて、
『……要するに、パンを多く与へよと叫ぶのですね。さうでせう。我等も賄がパンを多く与へよと云ふのですよ。なア三田君……』と云つたが、
『実際……』と三田は応じた。
新見は唯笑つたが、何だか皆が騒ぐのを避けたい様に思つて居た。松田は、
『おい、明治学院大食倶楽部万歳を三唱しようぢや無いか』と三人の顔を見て動議を出した。が、
鈴木はニコ/\しながら、
『然し君、その動議はまだ早いよ。明治学院社会党と大食倶楽部の名を変へるのなら新見君を会頭にせなくちやいかぬぞ。松田君』と云ひ出した。
『ウム、賛成』と会頭の田村は云ふ。
『哲学者の会頭賛成! ラブ・レターの会頭賛成!』と松田も叫ぶ。
『賛成僕も』と三田が応じる。それに松田は猶加へて、
『ハイカラに髪を別けておでんの立食ひして、芋を独りで皆食ふ会頭賛成!』と付けた。
恁那に騒ぎ乍ら六人は明治学院の坂を上つて門の前へ来た。田村の主唱で、
『新見会頭万歳』と三唱したが、夕食を報じる鐘が寄宿舎の方に鳴つて居た。それで皆な思はず大笑ひをした。