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奥州における御館藤原氏
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奥州における御館藤原氏
喜田貞吉
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Chapter 4 of 5

四 頼朝奥州征伐の顛末

奥羽の地はかつて坂上田村麻呂征夷の偉勲により、今の岩手県の北部から青森県の東南部、すなわち爾薩体から都母にまで皇威を耀かしたのであったけれども、その後、夷族再び勢力を恢復して、北部地方はいつしかその手に落ちたものと見えて、延喜の「民部式」収むるところ、陸奥国府の所管は北方気仙・胆沢・江刺の地方に限られ、和賀・稗貫・紫波・岩手・閉伊等、今の岩手県の大部分は、もはや国司所管の外に置かれたのであった。最も延喜の「神祇式」には斯波郡内の官社一社が載せられてあるが、これはおそらく古い「神名帳」のままを収録したもので(「延喜神名帳」は他にも往時のまま改めざる証少からず)、当時の実際ではない。したがってこのことは、かえってかつては少くも紫波(斯波)の地方までも国司の治が及んでいたのが、延喜のころにはそれが夷地に落ちて、もはや「民部式」から除かれた証拠にもなるべきものである。

かくてこの和賀以北、稗貫・紫波・岩手諸郡の地を領した俘囚長たる安倍氏が、次第に勢力を南に及ぼして『延喜式』所収の江刺・胆沢の二郡をも押領し、いわゆる六郡を管領してさらに衣川の外に出で、磐井郡にまでその押領の手を伸ばそうとするに及んで、ついにいわゆる前九年の役のやむ能わざるに至った次第であった。当時いわゆる六郡以北の地方、すなわち今の二戸・九戸の諸郡から、北、津軽の地方へかけては、いわゆる奥地として安倍氏にも属せず、むろん化外に置かれたものであったのであろう。かくてその戦役の結果は、源頼義・義家父子前後十二年の苦闘の後、ようやく出羽・仙北の俘囚長清原武則兄弟の援助によって、安倍氏を殪すを得たのであったが、武則その功によって鎮守府将軍に任ぜられ、出羽より胆沢に移って安倍氏旧領の六郡を伝領し、相変らずその地を俘囚の手に委するのやむを得なかったのであった。否、清原氏はその勢力を奥羽二州に及ぼして、安倍氏以上のものとなったのであったに相違ない。

されば義家が陸奥守に任ぜられて、その内訌に干渉し、ついにいわゆる後三年の役を生ずるに至ったのは、これまた実際やむを得ざる次第であったといわねばならぬ。しかもその結果は前役と同様であって、五年間の戦争の末にようやく清原氏を殪すことが出来ただけであって、これがためにその地を国司支配の下に移すには至らず、相変らず俘囚なる藤原清衡が、清原武貞の養子として、旧来の六郡の地を伝領し、依然としてその管領に委せねばならなかったのである。要するに前九・後三の両役ともに、いわゆる前門の虎を防いでこれを後門の狼に譲り渡したという結果となってしまったのである。ことに清衡は康保年中その居館を江刺郡豊田館から、さらに南の方磐井郡の平泉に移し、さきに安倍氏が衣川の外に出でんとしたところを実地に行って、ますます南下の形勢を示すに至ったのである。のみならず彼は奥羽両国一万余の村に伽藍を建て、仏性燈油を寄附したといわれている。事実その勢力は、この両州を光被していたのであろう。

ついでその子基衡に至っては、果福父に過ぎて両国を管領したとも言われ、遠く南の方信夫郡の検田についてすら、国司に対抗してこれを拒もうとしたほどであった。かくて秀衡その後を承けて奥州大半を虜掠したとあってみれば、曩祖頼義・義家の正嫡を承けて、すでに天下一統の形勢にある彼れ頼朝たるもの、いかんぞその臥榻の傍において、この夷人の鼾睡を容るすことが出来ようや。いわんや秀衡はさきに平家の推挙によりて陸奥守に任ぜられ、公然奥州をその掌中に握ることが出来たのみならず、院宣を帯して常にその背後を窺おうとするの情勢にあるにおいてをやである。平家、西海に没落した後に至っても、彼は義仲とともに頼朝を夾撃すべきの院宣をまで帯しているのである。これに向う頼朝は勢い朝敵の地位に立たなければならんのである。頼朝たるもの、あにこれを坐視することが出来よう。彼はすでに寿永元年四月において、文覚上人を高雄より請して相模の江の島に大弁才天を勧請し、三七日間の断食の荒行をまで修せしめて、秀衡調伏の祈願を籠めしめたのであった。彼が多年征夷大将軍の補任を希望したのも、実に秀衡征討の名分を正さんことを欲したがためであったことは、上文すでに述べた通りである。

しかるに後白河法皇は、その御在世中ついにこれを許し給わなんだ。これは法皇が藤原氏をして鎌倉の勢力を牽制せしめ給わんとの御下心と、一つにはその豊富なる砂金その他の物資の貢献に望みを絶ち給わざりしこととに由るものと察せらるる由は、またすでにこれを述べた通りで、事実法皇は最後までも奥州の砂金の貢献を促し給うたのであった。文治五年三月、秀衡すでに死して子泰衡家を継ぎ、当時朝敵と見做されたる義経を隠慝扶持せるの罪によって、まさに鎌倉の討伐を受けんとする際になってまでも、法皇はなお書を鎌倉に下して、これを催促せしめ給うたのであった。この月十日附権中納言経房の「奉書」に、

奥州貢金の事、明年の御元服料と云ひ、院中の御用と云ひ、旁所用等あり。而して泰衡空く以て懈怠す、尤も奇怪の事なり。早く催進せしめ給ふべし。且は又国司に仰せられ畢んぬ。

とある。当時朝廷では、後鳥羽天皇の御元服にも、また院中の諸雑用にも、実にこの藤原氏の貢金を当てにして居給うたのであったのだ。かかる次第であったから、法皇が最後までも頼朝に許すに、征夷大将軍の号をもってすることを憚り給うたに御無理はない。

しかしながら頼朝がますます勢力を得るとともに、その圧迫の手は次第に奥州にも加えられた。平家滅亡の翌年、すなわち文治二年に至って、従来秀衡より朝廷へ貢進する砂金その他の物資は、爾今必ず頼朝の手を経由すべく、左の書面を秀衡に送ったのであった。

御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり。尤も魚水の思をなすべし。但行程を隔てて信を通ぜんと欲するに所なし。又貢馬・貢金の如きは、国土の貢たり。予争でか管領せざらんや。当年より早く予伝達すべし。且勅定の趣を守る所なり。云々。

これに対して秀衡ももはやこれを拒むに由なく、四月「請文」を送って、貢馬・貢金等はまず鎌倉に沙汰し進むべく、京都に伝進すべきの由承諾したことであった。頼朝いかに東海道の惣官たりとも、国家の公道を経由して貢物を朝廷に送るに干渉すべき道理はないはずであるが、彼はなおかつて藤原基経が、万機巨細皆太政大臣に関白して、しかして後に奏下せよとの詔を受けて、天皇と臣民との間に関白という一の障屏を設け、直接上下の疏通することなきに至らしめたと同じように、天下の武家はまずことごとく鎌倉を経由して、しかして後に朝廷との関係を保たしめんとした政策の強行であったのである。彼はすでに平家滅亡の前から、武家の官位は必ずその推挙によるべきことに定めていたのであった。

しかるに義経は元暦元年八月に、その手続きを経ずして左衛門少尉に任ぜられたがために、はなはだしく頼朝の忿怨を招き、後ついに頼朝より朝敵として追捕の宣旨を申し下さるることとまでなったのである。しかるに義経は巧みにその捜索の手から免れ、はるばる奥州に潜行して秀衡に頼ったのであった。これは頼朝にとっては実に勿怪の幸いで、彼はために秀衡討伐の良い口実を得た訳である。もし強いて推測をこの間に逞しうしたならば、なお将棊の雪隠詰と同一の筆法をもって、義経が少年のさい扶持されたる関係をたどって、ここに落ち行くべく暗に導かれたのであったのかも知れぬ。

ともかくも義経が秀衡に頼ったことは、鎌倉に奥州討伐の良い口実を与えたもので、頼朝奏請してしばしば院庁下文を申し下し、秀衡は凶賊義経を扶持して反逆を起したものとして、これを征伐せんことを希望したが、朝廷では単に義経を搦め進ずべき旨を下知し給うのみで、奥州討伐のことはどうしてもお許しがない。そのうちに秀衡死して、子泰衡は鎌倉の威に恐れ、文治五年閏四月三十日、不意に義経の居館を襲うてこれを殺した。かくてその飛脚が五月二十二日鎌倉に到着し、これを京都に奏上したについて、六月八日到来の経房の返報に、義経誅戮のこと法皇のことに悦び聞こしめすところで、義経滅亡のうえは国中定めて静謐なるべく、もはや弓箭を袋にすべきものなることの御沙汰があったのである。これまことに当然の御意で、頼朝の強請によって朝敵となった義経だにすでに殺されたうえは、泰衡はむしろその功を賞せらるべく、討伐を受くべき所由はなかるべきはずであるが、頼朝の真意は義経誅戮よりもむしろ奥州征伐であったに相違ない。

そこで彼は直ちに出征の準備に着手し、六月六日には北条時政の所願として、奥州征伐のことを祈らんがために伊豆北条の地に願成就院の営作を始め、また京都に向ってはしきりに追討の宣旨を奏請するに至った。これに対して法皇は、関東の欝陶黙止難しといえども、義経はすでに誅せられ、ことに今年は造大神宮の上棟、大仏寺の造営等、種々の差障りあるのゆえをもって依然としてお許しがなく、せめては本年だけ猶予せよとお求めになったのである。しかるに鎌倉にはすでに奥州征伐の兵士が続々参集して、その数はやくも一千に及び、今さらこれをいかんともすることが出来ない。このこと奏聞を経ていまだ勅許を得ないとはいえ、軍中にあっては将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずともいうことがある。いわんや泰衡は源家累代の家人の遺跡を受け継いだものであれば、綸旨を下されずといえども治罰を加うるに不思議はない。ことに群参の軍士鎌倉に数日を費しては、還って諸人の煩となる、速かに発向然るべしという理由をもって、叡旨に反してついに七月十九日、頼朝自身出征の途に上ったのであった。そこで京都においても今さらやむを得ぬことと思召されて、同じ日附をもって泰衡追討の「宣旨」を下された。その文に、

陸奥国住人泰衡等、梟心性を稟け辺境に雄張す。或は賊徒を容隠して猥に野心を同じうし、或は詔使に対捍して朝威を忘るるが如し。結構の至り既に逆節に渉る者か。しかのみならず奥州・出羽の両国を掠籠し、公田・庄田の乃貢を輸せず、恒例の仏神事、納官封家の諸済物、其の勤め空しく忘れ、其の用欠けんと欲す。謀一にあらず、厳科遁れ難し。冀くは正二位源朝臣に仰せて、其の身を征伐し、永く後の濫を断たん。

とある。この「宣旨」が奥州において頼朝の陣営に到着したのは、すでに泰衡が殺されたよりも六日の後、すなわち九月九日であった。あるいは戦争の形勢泰衡に不利なるを知って後のことであったのかも知れない。さきに数回頼朝討伐の「院宣」を下し給うた後白河法皇から、また半月前まで泰衡追討を猶予すべく諭し給うた後白河法皇から、たちまちにしてこの討伐の命が発せられたことを思うと、実力を有する武家と虚位を擁する公家との当時の関係がよく推測せられて、頼朝が将軍の府において永続的軍政の例を開き、将軍陣中にあっては王命も奉ぜざるところありとの事実を演出するに至った形勢も察せられるのである。

頼朝、奥州征伐の決心を固うし、いよいよその実行に着手するに至っても、彼はその敵の容易ならざるを慮って、ただに武備を厳にするのみならず、しきりに神仏の加護を求めた。すでに述べた文覚江の島参籠と、時政願成就院の建立のほかに、六月二十八日には鶴岡放生会を引き上げて泰衡征伐の祈祷をなし、二十九日には愛染明王の像を武蔵の慈光山に送って修法を行わしめ、七月五日には駿河の富士御領帝釈院に田地を寄附し、十八日には伊豆山専光房に仰せて祈請を凝らしめ、ために梵宇建立を命じ、また出征の途中には宇都宮に奉幣して立願するところがあり、さらに鎌倉の留守においては、八月十日、妻政子が女房数輩を帥いて鶴岡に百度詣をなすなど、いずれも奥州征伐御祈祷のためだとある。

以上は『吾妻鏡』に見える限りであるが、また同じ八月に京都の東寺で泰衡調伏の法を修せしめたことが『東寺長者補任』に見えるのによると、他の社寺でも定めて同様のことが多かったのであろう。かくまでも彼は慎重の態度を執り、前例になく彼自身将として征途に上ったのであったが、泰衡の方ではもと闘志なく、一意恭順を旨としてさきには命のままに義経を殺し、次いで六月二十六日には弟泉三郎忠衡が、義経に同意しておったという理由でこれをも殺したほどで、とうてい百戦錬磨の鎌倉武士の敵ではなかった。八月九日、阿津賀志山の守りがまず破れ、二十一日には泰衡、平泉館に火を放って北に遁れ、はては北海道に遁れんとする途中、九月三日、部下河田次郎の変心によって肥内郡贄柵で殺されてしまった。始めて阿津賀志山に戦を交えてから、わずかに二十余日、平泉に百年の栄華を誇った御館藤原氏ここに滅び、安倍氏以来三代約百四十年間、奥羽の中央に蟠居しておった俘囚の勢力は、ここに始めてその根柢から覆されたのである。

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