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おせん
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おせん
邦枝完二
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Terang
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Sepia
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Terjemahan Pagera AI
Asli Public Domain
Chapter 3 of 14

3

二

「おたき」 「え」 「隣じゃまた、いつもの病が始まったらしいぜ。何しろあの匂じゃ、臭くッてたまらねえな」 「ほんとうに、何んて因果な人なんだろうね。顔を見りゃ、十人なみの男前だし絵も上手だって話だけど、してることは、まるッきり並の人間と変ってるんだからね」 「おめえ。ちょいと隣へ行って来ねえ」 「何しにさ」 「夜のこたァ、こっちが寝てるうちだから、何をしても構わねえが、お天道様が、上ったら、その匂だけに止めてもらいてえッてよ。仕事に行ったって、えたいの知れぬ匂が、半纏にまでしみ込んでるんで、外聞が悪くッて仕様がありやァしねえ」 「女じゃ駄目だよ。お前さん行って、かけ合って来とくれよ」 「だからね。おいらァ行くな知ってるが、今もそいった通り、帳場へ出かけてからがみっともなくて仕様がねえんだ。あんな匂の中へ這入っちゃいかれねえッてのよ」 「あたしだっていやだよ。まるで焼場のような匂だもの。きのうだって、髪結のおしげさんがいうじゃァないか。お上さんとこへ結いに行くのもいいけれど、お隣の壁越しに伝わってくる匂をかぐと、仏臭いような気がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出かけて来てもらいたいって。――いったいお前さん、あれァ何を焼く匂だと思ってるの」 「分ってらァな」 「何んだえ」 「奴ァ絵かきッて振れ込みだが、嘘ッ八だぜ」 「おや、絵かきじゃないのかい」 「そうとも。奴ァ雪駄直しだ」 「雪駄直し。――」 「それに違えねえやな。でえいち、外にあんな匂をさせる家業が、ある筈はなかろうじゃねえか。雪駄の皮を、鍋で煮るんだ。軟らかにして、針の通りがよくなるようによ」 「そうかしら」 「しらも黒もありァしねえ。それが為に、忙しい時にゃ、夜ッぴて鍋をかけッ放しにしとくから、こっちこそいい面の皮なんだ。――この壁ンところ鼻を当てて臭いで見ねえ。火事場で雪駄の焼け残りを踏んだ時と、まるッきり変りがねえじゃねえか」 「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持がするんだから、そんなとこへ寄るなんざ、真ッ平よ。――ねえお前さん。後生だから、かけ合って来とくれよ」 「おめえ行って来ねえ」 「女じゃ駄目だというのにさ」 「男が行っちゃァ、穏やかでねえから、おめえ行きねえッてんだ」 「だって、こんなこたァ、どこの家だって、みんな亭主の役じゃないか」 「おいらァいけねえ」 「なんて気の弱い人なんだろう」 「臭えからいやなんだ」 「お前さんより、女だもの。あたしの方が、どんなにいやだか知れやしない。――昔ッから、公事かけ合は、みんな男のつとめなんだよ」 「ふん。昔も今もあるもんじゃねえ。隣近所のこたァ、女房がするに極ッてらァな。行って、こっぴどくやっ付けて来ねえッてことよ」  壁一重隣の左官夫婦が、朝飯の膳をはさんで、聞えよがしのいやがらせも、春重の耳へは、秋の蝿の羽ばたき程にも這入らなかったのであろう。行燈の下の、薬罐の上に負いかぶさったその顔は、益々上気してゆくばかりであった。

三

「重さん。もし、重さんは留守かい。――おやッ、天道様が臍の皺まで御覧なさろうッて真ッ昼間、あかりをつけッ放しにしてるなんざ、ひど過ぎるぜ。――寝ているのかい。起きてるんなら開けてくんねえ」  どこかで一杯引っかけて来た、酔いの廻った舌であろう。声は確に彫師の松五郎であった。 「ふふふふ。とうとう寄りゃがったな」  首をすくめながら、口の中でこう呟いた春重は、それでも爪を煮込んでいる薬罐の傍から顔を放さずに、雨戸の方を偸み見た。陽は高々と昇っているらしく、今さら気付いた雨戸の隙間には、なだらかな日の光が、吹矢で吹き込んだように、こまいの現れた壁の裾へ流れ込んでいた。 「春重さん。重さん。――」  が、それでも春重は返事をしずに、そのまま鎌首を上げて、ひそかに上りはなの方へ這い寄って行った。 「おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけて寝てるなんざ、どっちにしても不用心だぜ。おいらだよ。松五郎様の御登城だよ」 「もし、親方」  突然、隣の女房おたきの声が聞こえた。 「ねえお上さん。ここの家ァ留守でげすかい。寝てるんだか留守なんだか、ちっともわからねえ」 「いますともさ。だが親方、悪いこたァいわないから、滅多に戸を開けるなァお止しなさいよ。そこを開けた日にゃ、それこそ生皮の匂で、隣近所は大迷惑だわな」 「生皮の匂ってななんだの、お上さん」 「おや、親方にゃこの匂がわからないのかい。このたまらないいやな匂が。……」 「判らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠を煮てる匂だわな」 「冗談じゃない。そんな生やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋を火鉢へかけて、雪駄の皮を煮てるんだよ。今もうちで、絵師なんて振れ込みは、大嘘だって話を。……」  がらッと雨戸が開いて、春重の辛い顔がぬッと現れた。 「お早よう」 「お早ようじゃねえや。何んだって松つぁんこんな早くッからやって来たんだ」 「早えことがあるもんか。お天道様は、もうとっくに朝湯を済まして、あんなに高く昇ってるじゃねえか。――いってえ重さん。おめえ、寝てえたんだか起きてたんだか、なぜ返事をしてくれねえんだ」 「返事なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入ンねえ」  不機嫌な春重の顔は、桐油のように強張っていた。 「へえってもいいかい」 「帰るんなら帰ンねえ」 「いやにおどかすの」 「振られた朝帰りなんぞに寄られちゃ、かなわねえ」 「ふふふ。振られてなんざ来ねえよ。それが証拠にゃ、いい土産を持って来た」 「土産なんざいらねえから、そこを締めたら、もとの通り、ちゃんと心張棒をかけといてくんねえ」 「重さん、おめえまだ寝るつもりかい」 「いいから、おいらのいった通りにしてくんねえよ」  松五郎が不承無承に、雨戸の心張棒をかうと、九尺二間の家の中は再び元通りの夜の世界に変って行った。 「上ンねえ」  が、松五郎は、次第に鼻を衝いてくる異様な匂に、そのままそこへ佇んでしまった。

四

行燈はほのかにともっていたものの、日向から這入って来たばかりの松五郎の眼には、家の中は真ッ暗闇であった。 「松つぁん、何んで上らねえんだ」 「暗くって、足もとが見えやしねえ」 「不自由な眼だの。そんなこっちゃ、面白い思いは出来ねえぜ」 「重さん、おめえ、ずっと起きて何をしてなすった」 「ふふふ。こっちへ上りゃァ、直ぐに判るこッた。――まァこの行燈の傍へ来て見ねえ」  漸く眼に慣れて来たのであろう。行燈の輪が次第に色を濃くするにつれて、狭いあたりの有様は、おのずから松五郎の前にはっきり浮き出した。 「絵をかいてたんじゃねえのかい」 「絵なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂がわからねえかの」 「膠だな」 「ふふ、膠は情ねえぜ」 「じゃァやっぱり、牛の皮でも煮てるのか」 「馬鹿をいわッし。おいらが何んで、牛の皮に用があるんだ。もっともこの薬罐の傍へ鼻を押ッつけて、よく嗅いで見ねえ」 「おいらァ、こんな匂は真ァ平だ」 「何んだって。この匂がかげねえッて。ふふふ。世の中にこれ程のいい匂は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香だろうが、蘭麝だろうが及びもつかねえ、勿体ねえくれえの名香だぜ。――そんな遠くにいたんじゃ、本当の香りは判らねえから、もっと薬罐の傍に寄って、鼻の穴をおッぴろげて嗅いで見ねえ」 「いってえ、何を煮てるのよ」 「江戸はおろか、日本中に二つとねえ代物を煮てるんだ」 「おどかしちゃいけねえ。そんな物がある訳はなかろうぜ」 「なにねえことがあるものか。――それ見ねえ。おめえ、この袋にゃ覚えがあろう」  鼻の先へ付き付けた紅の糠袋は、春重の手の中で、珠のように小さく躍った。 「あッ。そいつを。……」 「どうだ。おせんの爪だ。この匂を嫌うようじゃ、男に生れた甲斐がねえぜ」 「重さん。おめえは、よっぽどの変り者だのう」  松五郎は、あらためて春重の顔を見守った。 「変り者じゃァねえ。そういうおめえの方が、変ってるんだ。――四角四面にかしこまっているお武家でも、男と生れたからにゃ、女の嫌いな者ッ、ただの一人もありゃァしめえ。その万人が万人、好きで好きでたまらねえ女の、これが本当の匂だろうじゃねえか。成る程、肌の匂もある。髪の匂もある。乳の匂もあるにァ違えねえ。だが、その数ある女の匂を、一つにまとめた有難味の籠ったのが、この匂なんだ。――三浦屋の高尾がどれほど綺麗だろうが、楊枝見世のお藤がどんなに評判だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女の匂に酔って客が通うという寸法じゃねえか。――よく聞きなよ。匂だぜ。このたまらねえいい匂だぜ」 「冗談じゃねえ。おいらァいくら何んだって、こんな匂をかぎたくッて、通うような馬鹿気たこたァ。……」 「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判らねえと見えるの。こいつだ。この匂が、嘘も隠しもねえ、女の匂だってんだ」 「馬鹿な、おめえ。――」 「そうか。そう思ってるんなら、いまおめえに見せてやる物がある。きっとびっくりするなよ」  春重はこういいながら、いきなり真暗な戸棚の中へ首を突っ込んだ。

五

じりじりッと燈芯の燃え落ちる音が、しばしのしじまを破ってえあたりを急に明るくした。が、それも束の間、やがて油が尽きたのであろう。行燈は忽ち消えて、あたりは真の闇に変ってしまった。 「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗で、何んにも見えやしねえ」  背伸びをして、三尺の戸棚の奥を探っていた春重は、闇の中から重い声でこういいながら、もう一度、ごとりと鼠のように音を立てた。 「いたずらじゃねえよ。油が切れちゃったんだ」 「油が切れたッて。そんなら、行燈のわきに、油差と火口がおいてあるから、速くつけてくんねえ」 「どこだの」 「行燈の右手だ」  口でそういわれても、勝手を知らない暗の中では、手探りも容易でなく、松五郎は破れ畳の上を、小気味悪く這い廻った。 「速くしてもらいてえの」 「いまつける」  探り当てた油差を、雨戸の隙間から微かに差し込む陽の光を頼りに、油皿のそばまで持って行った松五郎は、中指の先で冷たい真鍮の口を加減しながら、とッとッとと、おもく落ちた油を透かして見たが、さてどうやらそれがうまく運ぶと、これも足の先で探り出した火口を取って、やっとの思いで行燈に灯をいれた。  ぱっと、漆盆の上へ欝金の絵の具を垂らしたように、あたりが明るくなった。同時に、春重のニヤリと笑った薄気味悪い顔が、こっちを向いて立っていた。 「松つぁん。おめえ本当に、女の匂は、麝香の匂だと思ってるんだの」 「そりゃァそうだ。こんな生皮のような匂が女の匂でたまるもんか」 「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見せてやる」  編めば牛蒡締くらいの太さはあるであろう。春重の手から、無造作に投げ出された真ッ黒な一束は、松五郎の膝の下で、蛇のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳の上へ、とぐろを巻いて納まってしまった。 「あッ」 「気味の悪いもんじゃねえよ。よく手に取って、その匂を嗅いで見ねえ」  松五郎は行燈の下に、じっと眼を瞠った。 「これァ重さん、髪の毛じゃねえか」 「その通りだ」 「こんなものを、おめえ。……」 「ふふふ、気味が悪いか。情ねえ料簡だの、爪の匂がいやだというから、そいつを嗅がせてやるんだが、これだって、髢なんぞたわけが違って、滅多矢鱈に集まる代物じゃァねえんだ。数にしたら何万本。しかも一本ずつがみんな違った、若い女の髪の毛だ。――その中へ黙って顔を埋めて見ねえ。一人一人の違った女の声が、代り代りに聞えて来る。この世ながらの極楽だ。上はお大名のお姫様から、下は橋の下の乞食まで、十五から三十までの女と名のつく女の髪は、ひと筋残らずはいってるんだぜ。――どうだ松つぁん。おいらァ、この道へかけちゃ、江戸はおろか、蝦夷長崎の果へ行っても、ひけは取らねえだけの自慢があるんだ。見ねえ、髪の毛はこの通り、一本残らず生きてるんだから。……」  松五郎の膝もとから、黒髪の束を取りあげた春重は、忽ちそれを顔へ押し当てると、次第に募る感激に身をふるわせながら、異様な声で笑い始めた。 「重さん。おれァ帰る」 「帰るンなら、せめて匂だけでも嗅いできねえ」  が、松五郎は、もはや腰が坐らなかった。

Chapter 3 of 14
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