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墨子
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墨子
幸田露伴
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Chapter 3 of 4

3

儒墨は洵に異なるところが有る。然し異なるところの存すると同樣に同じきところもある。其同じきところは何かと云へば第一精神である。兩者同じく國家の安康にして人民の生を樂まんことを欲してゐる。此第一精神においては差は無い。佛氏は國家の觀念に於て甚だ稀薄であり、老氏は佛氏ほどでは無いが、又やゝ稀薄である。莊列は原人生活を謳歌するかの如く見えて、是亦國家を重視することに於て儒墨とは餘程の距離が有る。楊朱の學に至つては甚だしい個人主義である。墨子は他の諸家の如くに國家に對して稀薄の思想を有し、又は之を輕視無視する如き非實際的理想的思想的のところは無い。此點は儒家と同じである。墨子は其時代に於て用ゐらるれば直ちに國家人民の爲に有利であると信ずる實行可能性を有する言を爲したのであつて、實際的であり、空言的で無いところを、其力強い存在の支持としてゐる。空言の徒らに高くして實際の伴なはぬのをば墨家は「蕩口」といつて甚だしく卑んでゐる。言論の空しく美にして實に益無きをも「文を以つて用を害する」として恐れてゐる。すべて「實」を重んずるのは墨家の信條である。直ちに依つて以て天下國家を濟ふべきものを眞の道としてゐる。此點に於ては孔子の學と其色彩こそ少し異なるものがあれ、性質と精神とに於て相通じ相同じきものがある。

たゞ其の實行の形式、及び其の形式の内に存する精神に於て、儒墨は何樣しても一致する譯には行かぬものがある。賢士を重んじ、正しき行爲を重んじ、教育を重んじ、法儀を重んずる等の點に於ては、儒墨同一である。然も墨子の孔子と相異なる第一は、墨子が甚だしく質素簡易な生活状態をば人の正當な生活状態と認め、これに反するものをば一切の社會惡の生ずる根本と見做してゐるのに、孔子は同じく儉素を尊び奢侈を惡みながらも、相當な文化を取入れることは、人間の自然でもあり、社會を善美にする所以でもあると認めて居られ、從つて「禮樂」を重んぜらるゝのであるから、そこで自づから左右に分岐するに至るのである。墨子は甚だしく「用を節する」ことを大切なこととする。用を節せぬ故に節度無き生活と慾求が起る。節度無き生活と慾求が起る故に自己を愛して已まぬ結果として他を侵害することが生じる。それが即ち社會の紛亂の根原である、と説いて、特に「治者」「優者」の節用を強調する。堯が天子の尊きを以て、「土階三等、茅茨剪らず」などと言囃したのも墨子から出たことである。堯が果して天子の尊きを以て然樣いふ生活をしたか否やは不明であつて、堯の女の墓と考へらるゝところの古墳の發掘に於て多くの珠玉を見出したことによつて、宋の羅廬陵は古傳の堯の甚だしい質素の眞否を疑つてゐる。が、史實は兎に角に墨子の時に於て然樣いふ傳説が有り、そして墨子がそれを振かざして、當時の分國の諸侯等の奢侈を戒め簡素儉約を強調したのは、墨子に於ては至當の事と考へたからであつた。詮ずるところ例へば齊の賢相の晏平仲の如きは墨子の最も善しとした人で、同じ賢相でも管仲の如きは三歸反※の事があるから、墨子からは感心せぬ側の人であつたらう。此點が儒家でも實際世間といふものに對して判釋力を有してゐる人には必ずしも是認されない一つである。荀卿の如きは、そんな消極的な、不景氣招致に適したやうなことは不可である、社會が蹙然として萎縮してしまふ、人の上たる者は美ならず飾らずんば民を一にするに足らない、面白いものをあてがひ、味よきものを與へ、天下人民をして愉悦踴躍して、業を勤め生を樂ましめるやうにと取計らふのが聖王の道である、と論難してゐる。雙方に相當の主張は有るが、攻掠侵伐の爭亂が不節用の奢侈、無節度の生活に本づく場合の多いことも疑ふことの出來ない道理で、墨子の時代の君民皆放縱であつたに對し、墨子が節用を強調したのも確に一面の眞理を含んでゐる。今日簡易生活を叫ぶもののあるやうな譯で、時代の大勢は反對な或者を産み出す、河水が強く流れ下る時は其岸邊には上へ向く流れが生ずるやうなもので、墨子は放縱の世に際しておのづから敢然として節用を主張したのである。

節用の主張を一環の半圓とすると、他の半圓として相助けて一環を成すものに兼愛の主張がある。兼愛とは非個人主義である。墨子の考では個人主義は罪惡の根源である。子が父を愛せず、弟が兄を愛せず、吏が上を愛せず、君が臣を愛せず、賊が自己を愛して他人を害し、諸侯が各自國を愛して異國を愛せず、皆自己を本位として、無節度の生活をすれば、天下の爭亂の生ぜぬ理は無い。兼ねるといふのは自他を兼ねるのである。兼の反對は別である、別は私である、兼は公である。古來の聖王、禹も湯も文王武王も皆「兼」の道を以て道と爲したのである、絶對に自己を利し他を顧みぬ如き、「別」の道を取つたのではない、「私」を爲したのでは無い、そこで終に天下の安と民庶の福とを致すを得たのである。人の上たる者、治者たる者は、「兼」に因らずして何樣して民を率ゐ世を治むるを得よう。民も亦「兼」によらずして何樣して家を齊へ生を樂むことを得よう。我が人の親をも愛利し、人も亦我が親を愛利し、交兼ねるの道が立つに至つて眞の平和と幸福とが成立つのである。詩に謂はゆる、我に投ずるに桃を以てす、之に報ゆるに李を以てす、といふやうでなければ、人生は眞の幸福では無い、といふのが墨子の説で、「兼」の道は古聖王の取つたところの大道であると、古に徴して論證し、世間是の如くならざるべからずと、今に照して説諭し、反對側の個人主義を不幸への道であるとして、論談甚だ力めてゐる。墨子の此の主張が、多分を治者優者に對つて爲されてゐるのは特に有理であつて、其意は先づ人の上長たる者の「兼」を以て道とせんことを求め、そして此「兼」の道に民庶も從ふに至るによつて理想的幸福世界を現ぜんとするに在る。此主張はもとより史的の正確不正確を以て爭ふべきでも無く、又其主張の中に含まれてゐる意圖の善惡等を以て爭ふべきでも無く、自己を中心とする楊朱の刻薄な思想などより遙に立勝つてゐる博大な善良な立派なものである。然し人は如何にしても自己を中心としてゐるものであるといふ現在事實とは牴觸してゐる弱味が有ることは爭はれぬ。たゞ眞の人間の幸福といふものは「兼」の道によつてのみ得らるべきものであるとしたら、眞の幸福を得んとするのは是亦人の如何ともする能はざる本願であるから、自己中心といふ現在事實を漸と克服せんとするに力むべきであるとせねばならぬのであるから、墨説も人類の本願といふところに於て非常な強みを有つてゐるのである。然も此説もまた儒家とは容れぬところがある。儒家は勿論楊朱の如き自己中心主義では無いが、自他に於て程度の差を立つることを自然の状態でもあり道理の眞致でも有るとしてゐる。人の親を敬愛せぬことは無いが、吾が親を敬愛して然して後に人の親を敬愛し得ると爲してゐる。そこに差別があつて、その差別は自然であり道理であるとしてゐる。そこで孟子は墨子の道をば、「墨子の兼愛するは是れ父を無みする也、父を無みするは是れ禽獸なり」と酷論してゐるが、これは少し苛評である。孟子は墨子が爲政者治者等に對して「兼」の道を強調してゐるところを看過してゐる。孟子が「何ぞ必ずしも利をいはん」と云つて、人各自ら利せんとすれば社會は何樣にもならぬものである、と説いたところは、正に是れ墨子の兼愛の説の由つて出づるところである。今少し墨子の精神を看取して、そして徐ろに儒家の差別説が墨子の無差別説に優るあるところを説破しなければ、墨家をして首肯せしむるには至らぬと考へられる。

節用は質素簡樸の原徳を保持する所以であり、質樸は勤勞と因果の好循環を爲す所以である。これに對して奢侈は人の原徳を喪失するに至らしむる所以であり、又奢侈は安逸遊惰と因果の醜循環を形づくるものである。善く勤勞に服すれば、食冷水も其の甘きこと精饌美※の如く、草に睡り樹に枕するも其夢は安靜甘美であるべきである。そして好き睡眠と善き攝養とは、復び勇健爽快なる精神による確實重厚性の尊き勞作を甘なはしむるものである。これと同じ比例に遊惰なる生活は奢侈を要求し、奢侈は又人をして遊惰ならざる能はざらしむるものである。此の意味に於て、墨子は節度ある生活、質樸なる生活を強調すると同時に、「勤勞」といふことを極力強調し、これが世を濟ひ社會を拯ふ所以の道であるとする。彼の大洪水の時に當つて、大禹が水行陸行、奔走寧日無く、營孜として身を碎き心を勞したところは、殆ど其の形儀の標的であるとするのである。莊子をして、「禹親自に耜を操つて天下の川を鳩雜し、腓に※無く、脛に毛無く、甚雨に沐し、疾風に櫛けづり、萬國を置く、禹は大聖也、而して形の天下に勞するや斯の如し、後世の墨者をして多く裘褐を以て衣と爲し、跂を以て服と爲し、日夜休まず、自ら苦むを以て極と爲し、曰く、此の如くなる能はずんば、禹の道に非ざるなり、墨と謂ふに足らずと」と云はせた通り、實に墨子の道は勤勞に服することを人たるものの道の根幹と認めてゐたのである。勞に服することは道であり善であり美であり幸福であり、これによつて世界は化醇し人間は至樂を得るとしたもので、墨家が向臑に毛の無くなるまで奔走勞作することを尊んだことは、楊朱が吾が脚の一毛を拔いて天下を利することになるとも其の一毛を拔くことを肯んじない利己主義と極端の對照を爲してゐるものである。此墨子の服勞を重んじたことは如何にも立派な精神から出てゐることであるが、一面には明らかに當時の君主も士人も民庶も衰世的の精神傾向を有して皆各巧慧狡猾と遊惰安逸と奢侈放肆と虚榮浮美とを以て生活を遂げんとしてゐた状態に切齒して反抗したるに出で、勤勞に服せずんば人世それ如何との感想から出發してゐることも看取されるのである。

そこで墨子の政體に就ての觀察も是の如きの思想精神から來るために、精しく論ずる時は少し儒家の見とは異なるもののあることが見える。墨子の目に映じた天子といふものは天子の名はあつても、天若くは神の寵命を受けて此世に君臨する運命を負うてゐる天子では無い、神權説的の天子ではない。墨子の思想では、人各其義とするところのものを有すれば、一人一義、十人十義、百人百義、千人千義で、義の定まるところは無い。各皆其義を是として人の義を非とすれば、厚き者は鬪、薄き者は爭を生ずる。そこで「兼」といふことの大切なるが如くに「同」といふことが大切である。衆義を一にして、衆異を融冶し、賢者を選擇して立てゝ天子と爲すのであり、そして天子の是とするところは民必ず之を是とし、天子の非とするところは民必ず之を非とし、天子は又必ず天即ち「兼愛」の本體と一致すべきである、とするのである。墨子の天子は「賢者を選擇して立てゝ天子と爲す」といふのであるから、天子の根源は「大統領」と同じものである。これは支那上古の政史に於て、或は然樣であつたので、墨子の上古史解釋は間違つて居らぬかも知れぬ、又或は然樣では無かつたかも知れぬ、墨子の理想の影を以て上古を掩うたのかも知れぬ。いづれにしても此の一半は史的の事にかゝるが、墨子の解では「尚同一義」といふことが非常に大切なことで、そこで、尚同一義のために、天子の獨力が天下を治むるに足らぬから其下に三公を立てる、三公の下に諸侯を立てる、諸侯の次に卿と宰とを立てる、卿と宰とで未だ足らぬから、次に郷長・家君を置く、正長・里長等、墨學に於ては天子以下次第に、絲縷の紀あり、網罟の綱有るが如くに組織立つた職制を置いて、そして同じきを尚び義を一にするのである。墨説によれば諸侯等は富貴遊佚を謂れ無く得るものでは無くて、天子と人民との間に尚同一義の機關として、馳驅して以て上に告げ下に臨むところのものである。墨子の尚同一義の旨を詳しく察すると、墨子は君主は兵力徳力等を以て人民を克服して成立つたものとせずして、民意によつて其異を去り同に歸し爭を除き利を公にする爲に成立したものとする。つまり君主政體を解釋するに民主政體を以てせんとするが如くに見える。上古の支那の政治の實相は或は墨子の言の如くであつたかも知れぬが、それは暫く保留して置く問題として、夏・殷・周に至つては君主政體が確立してゐるのだから、周制を是とする儒家とは此點に於ても墨家は異説であるに相違無い。尚同の論は墨家の古を援き語を壯んにして極力主張するところであるが、儒家でさへ政治の妨害とした秦の時、是の如きの學説が秦の朝廷から酷烈に彈壓されたらうことは分明であるから、秦の後に墨學の全く絶滅した如き觀があるのも不思議では無い。

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