四
霧原警部は平素沈着を以て聞えて居るが、この時ばかりは椅子から飛び上らんばかりに喜んだ。
「そりゃ非常な発見だ」と警部は叫んだ。「その紙を見せてくれたまえ」
「今、鑑識課にまわして乾かしてもらってありますから、もうじきもって来てくれる筈です」
そのとき給仕がはいって来て一枚の紙片を渡した。その上には一寸四方位の大きさの字で、中央に「ツノダ」と墨ではっきり書かれてあった。それを受取った警部は、はや、もとの冷静な態度になって居た。
「君はこれで、どういうことを考える?」と、その文字と、地上に書かれた文字の写真とをくらべて居た警部がたずねた。
「殺された女が二人と同居して居たと思いたいです」
「いかにもプロバブルだ。写真の文字と紙の文字とに、手蹟の似通ったところがある。して見ると地上に書かれたのは『ソ』の字の誤りでなく『ツノダ』にちがいない。すると『ツノダ』は一たい何を意味するだろうか?」
朝井刑事は暫く考えて居たが、やがて当惑したような顔をあげて答えた。「ツノダというのはやはり女に関係のある者の名前だろうと思います。犯人の名が角田ではありますまいか。平岡の本名が或は角田かもしれません」
「すると、一口にいえば角田は女の情夫だというのだね? それにしても情夫の名をこのようにふとい文字で、しかもはっきりした書体で桜紙に書くというのはどういう訳だろうか?」
「女は迷信深いものですから、何かの呪禁いにしたのかもしれません」
霧原警部はさも我が意を得たという様な顔をして言った。
「よい所へ気がついた。迷信とは面白い、ことに妊娠したものは迷信深くなり易いからね。然し、仮りに平岡を情夫とすると、殺害の動機は何だろう」
「…………」
「いや君の当惑するのも無理はない。この事件はもっともっと研究して見なければならぬ」
「いっそ、ツノダという言葉を平岡にきかせて、その反応を見たらどうでしょうか」
「それはまだ早過ぎるよ。それよりもこれから、平岡と鬼頭とを逢わせて見ようと思う」
「然しそうすれば、愈々二人は口を噤むように、しめし合いはせないでしょうか」
「さあ、其処だて。二人は逢ってどんな会話をするかをきいて見たいのだ」
朝井刑事は早くも霧原警部の意中を覚った。警部の室と、その隣りの応接室の境の壁は特別の構造になって居て、壁の前にある一点に立つと応接室で行われる会話はすべてこちらの耳にはいるばかりでなく、応接室にかけてある総監の油絵の肖像は、その眼の瞳が切り抜かれてあって、こちらの室からその瞳に眼をあてると、応接室の人の挙動が悉くわかるようになって居るので、霧原警部は平岡と鬼頭を対面させて、その挙動、会話から二人の秘密を知ろうとするにちがいなかった。
夕暮が迫って来て、そうした観察をするには頗る好都合の時期となった。朝井刑事は警部の命によって、先ず鬼頭を応接室に導かしめた。それから合図によって平岡を連れ入れさせることにし、朝井刑事が肖像画の後ろから覗き、警部が会話をきく役になった。そして若し中の二人がぼそぼそ話を始めたならば、朝井刑事が手を以て知らせると、部下のものが、応接室へ這入って行って二人を引き離す手筈にきめたのである。
いよいよ平岡は応接室の中へ入れられた。警部は耳をすまして緊張して居たが、意外にも会話の声はして来なかった。そこでぼそぼそ話が始まったのかと朝井刑事の方を見ると、刑事は一生懸命に見つめて居たが、その口は驚きのためにだんだん大きく開かれて行った。暫くしてから、朝井刑事が猛烈に手を振ったので部下の警官は応接室へ闖入して二人を引き離した。
二分の後、霧原警部と朝井刑事とは対座したが、朝井刑事は眼をぱちくりさせて、暫くは物が言えぬらしかった。
「どうした朝井君?」と警部は不審顔をして訊ねた。
「大変なことをしてしまいました」
「え?」
「二人は手真似で話をしました」
「まあ、落ついて話したまえ」
「はじめ平岡がはいって行くと二人は、顔を見合せましたが、鬼頭はあたりを一応ながめまわしてから、突然手真似をつかいました。すると平岡も手真似で答え、暫くの間話しあって居ましたが、急に平岡が泣き出しますと、鬼頭は傍へよってなだめながら、耳に口をあてて囁きかけました。そこで私は驚いて合図をしたのですが、あまりに意外だったので、とうとう二人に手真似で話をされた機会を与えてしまったのです。私は盗賊たちのつかう符牒を多少研究したことがありますが、今の二人の手真似はさっぱりわかりません。けれどこれで二人が盗賊仲間だということを知りました」
「ふむ」といったきり警部はうつむいて考え込んだ。「だが、犯罪者仲間だとすると、平岡の泣いたのが少しおかしいね」
「平岡は気が弱いからでしょう」
「そうかしら、僕はこれまで種々な犯罪者に接したが、男で泣くのはめずらしいね」
「でも、手真似で話すところはそうとしか思われません」
「手真似! そうだ。二人に手真似で話されたのは失敗だったが……待ちたまえ、其処に秘密の鍵があるようにも思われる……」こういったかと思うと、霧原警部は急に晴やかな顔をした。が、
「こりゃ君、も一度死体解剖をやり直さなくちゃならん」と叫ぶように言った。
この意外の言葉に、朝井刑事はすっかり面喰って、ただ警部の顔を見つめるばかりであった。
「今の法医学というものは犯罪に直接関係した秘密を解決するばかりで、死体そのものの包む秘密は、とかく見のがしてしまい易いのだ。今度の事件でも、被害者は妊娠して居るということの外にもっと大きな秘密を包んでいるらしい。その秘密をあばかぬ限りは、この事件の解決はむずかしいだろうと思う。もし僕の推定が誤らなければ、犯人たちの口を噤んで居る理由もわかるし、そこに鬼頭否園田の前科者としての謀計が働いて居るようにも思われる……」
「では園田を犯人とお認めになるのですか」
「それはまだ何とも言われない。死体の秘密をあばいたら、それによってどちらか一人の口をあかせることが出来ると思う。だが、二度目の解剖は極秘のうちに行わなければならぬ。君自身にさえ立ち合っては貰えない。僕と大学の村山教授と二人でこの解決をしたいと思うのだ。……」