七
「可哀そうな身の上もあったものだね」と平岡の死体の傍に発見された遺書を、翌朝、朝井刑事が読み上げたとき、それをじっと聞いて居た霧原警部が吐き出すように言った。
「平岡だけでも警戒して生かして置くとよかったですのに……」
「いやいや、それ位のことには気がついて居たけれど、僕はわざと平岡にもその機会を与えてやったのさ」
「では、平岡が女であることを知って居られましたか」
「いや、それは知らなかった。ただ然し、男としては珍しい体格だと思ったよ」
「それにしても殺された女が平岡の妹で唖だということをどうして知られたのですか」
霧原警部はにこり笑って言った。
「二人がきょうだいということは別に確実な証拠があった訳でなく、全く推定に過ぎなかったのだ。君も知ってる通り、きょうだいというものはその顔の何処かに似たところがあるものだ。多くの場合にその眼を比較するとわかるものだが、死んだ顔と生きた顔との比較する際には、死んだ人の眼が変化するから、わからない。そういう時僕はいつもその人の鼻の尖端から唇へかけての横顔の曲線を比較するのだよ。すべて人の顔は正面から見て特徴のない場合、側面から見るとはっきりした特徴の見えるものだ。殺された女の解剖の際僕はその横顔の曲線をよく観察し、それから平岡の横顔を見て非常に似て居ることを発見したのだ。それに平岡が、はじめに、妹が一人あるといったからね」
ここで警部は一と息ついて傍の茶を啜り、更に言葉を続けた。
「次に、唖であるという考えは、第一、平岡と鬼頭が手真似で話したことから起ったよ。二人を犯罪者と見るよりも、第三者を唖と考えてはどうかと思ったのだ。第二は殺された女が死に際に文字を地面に書いたことだ。文字を書く元気があるのに、口で言えぬのはおかしいからね。なお又、君は唖の書いた文字を見たことがあるかどうかはしらぬが、唖は字劃を正しくはっきりと書くものだよ。これは一度教わったとおりに書こうとするからだ。平岡は誰に教わったかわからぬと其処に書いて居るが、たしかに教えたものがあるにちがいない。だからああした文字を僕は唖の文字だと判断したのだ。そこで僕は早速大学へ行って村山教授に再解剖を願ったのだ。その結果、聴覚器に、ある故障が見出され発声筋の発育が悪かった。それだけでは生前唖だとは言い兼ねるけれど、凡ての事情を総括すると唖だったということがはっきり浮び上って来たのだ。
さて、殺された女が唖だとして見ると、其処に今回の犯罪の秘密の鍵があるように思われるのだ。というのは、唖であるならば物言う筈がないから、「人殺しーい」と叫んだのは犯人か又は第三者でなければならぬ。そこで僕はそれを警察を迷わすために仕組んだものと睨み、前科者の鬼頭を其処へ結びつけたのだ。西洋では唖に物言うことを教えて居るから、唖だとて物言わぬことはないが、それまで考えて居ては際限がない。また物が言えれば地面へ文字を書かぬ。よく被害者が臨終の際血で犯人の名を書くなどということが探偵小説などに書かれてあるが、それは附近に誰も人が居ない場合だ。尤も苦しくて物の言えぬ場合がないではなく、僕も初めはそう解釈したが、唖だとして見れば、説明がいかにもはっきりつくのだ。
ただ然しツノダが何を意味するかはわからなかったよ。それで平岡にたずねたのだが、ツノダの言葉をきくと平岡はすっかり平静を失ったので、平岡の本名どころか、もっと重い秘密に関係したことだと考え、あの時機を選んだ、最後の一言を言い渡したのだよ……」
「いや実に、あなたが、『妹の唖だよ』といわれたときには、僕自身が驚いてしまいました。まして平岡には強くひびいたにちがいありません」
「だが、何といってもこの事件での最も大切な証拠は、便所の捜索の結果得られたよ。ツノダと書いた紙片が出なければ、この事件は迷宮に入ったかもしれぬ。西洋の都市では糞壺の捜索などということは通常行い得ないが、この点は日本が遅れて居るだけ、却って、犯罪探偵の際には好都合だ。先年川原井某が薬屋の手代を殺したときも、便所の中のビール壜が有力な証拠となってね。して見ると臭い所も馬鹿にはならぬ。『くさい物に蓋をしろ』などという諺は或いは撤廃した方がいいかもしれぬ。ははははは」
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