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白峰山脈縦断記
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白峰山脈縦断記
小島烏水
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Chapter 5 of 7

5

この大残雪を踏んで、南農鳥の傾斜を登ること半ば頃から、大なる富士山は、裾野から沙を盛り上げたように高く、雪が粉を吹いたように細い筋を入れている、その下に山中湖、それから河口湖が半分喰い取られたようになって、山蔭の本栖湖の一部と、離れ離れに静かな水を伏せている、函根、御阪、早川連嶺などが、今の雨ですっきりと洗われて、鮮やかな緑色をしている、愛鷹を超えて伊豆半島の天城山が、根のない霞のように、ホンノリと浮いて、それよりも嬉しかったのは、駿河湾に黒煙をかすかに一筋二筋残して走っている汽船!

黄花石楠花が、岩角の間に小さくしがみついて咲いている、その間を踏んで、登れば、千枚沢岳と悪沢岳の間に、赤石山が吊鐘を伏せたように円く立っている、支脈伝いに背面を見た時には、壮大だと思った白河内岳も、ここから見ると、可愛そうなほど、低くなって、下に踞くまってしまった。

南農鳥の上に出た、足の下から大障壁をめぐらして、近く農鳥山の三角測量標を見たときは嬉しかった、しかし登り著くと南農鳥の最高点は、まだここではなく、五、六町も先にあることが解った、これから截っ立った、ギザギザ尖った石が、堤防のように自然に築き上げられているところを伝わるのだ、偃松と、黄花石楠花の間を抜き足をして、やっと南農鳥山の二等三角測量標の下に来た、おそらく参謀本部陸地測量部員が、野営をした跡ではあるまいかと思われる、ちょっとした平地へ出た。

ここから見ると、石の剣の大嶺が、半円形にえぐられて、蜿蜒として我が日本南アルプスの大王、北岳に肉迫している、その北岳は、大岩塊が三個ばかりくッついて、その中の二塊は、楕円形をしているが、一塊は恐ろしく尖っている、そうして四辺に山もないように、この全体が折烏帽子形に切ッ立って、壁下からは低い支脈が、東の谷の方へと走っている、能呂川があの下から出るのだと、追及して来た猟師が、そう言ったが、実際私たちは、川などはどうでもよかった。

もう山という山が、みんな顔を出して来た、地蔵岳鳳凰山を隔てて、八ヶ岳の火山彙が見える、上野下野の連山は、雲を溶かして、そのまま刷毛で塗ったのではないかとおもうような、紺青色をして、その中にも赤城山と、榛名山が、地蔵岳と駒ヶ岳の間に、小さく潜んでいた、その最右端に日光連山、左の方に越後の連山がぼんやりとしていて、先刻吹き寄せられた雲の名残か知らん、氷のようなのが、幾片となく、その辺の頭をふわりと漂っている、午を過ぎたが、濃い透明の空は、硝子で張り詰めたようだ、黄色の日光が、黄花石楠花を蒸して、甘酸ッぱいような、鼻神経をそそるような匂いとも色ともつかないのが、眼から鼻へと抜ける、頭がボーッとする、これでも踏む土の一部分だろうかと思うようだ、残雪は幾筋となく、壁間を放射して、緑の森林の中へ髪の毛を分けるように、筋目をつけて落ちている、ただ北アルプスの大山脈は、雲に閉じられてしまって、いつまで経っても出て来そうにもない。

金剛杖が石にカチリと当る、金属性の微かな短い音がしてコロコロと絶壁の下に転げ落ちる、どこを見ても絶壁! 墜石!

三角測量標の直下には、誰かが前に土を均らした痕のある、野宮地には誂え向きな、三間位な平地が出来ている、黄花石楠花、小岩鏡、チングルマ、岩梅などが、疎らに生えている、位置は東を向いて、富士山と対している、南へ向いた断崖には、数条の残雪があるから、溶かして水を獲ることが出来る、時間は猶早いが、これからまた峻しい山稜つづきで、適当な野営地が見つからぬかも知れないから、今夜はここで寝ることにした。

例の天幕作りに取りかかる、古生層地は白峰までつづき、鳳凰地蔵一脈の間で、深谷にフツリと切れているのが、よく見える、人夫たちは雷鳥三羽を捕獲した、みんなして二羽を醤油飯に、一羽を焼いて喰った。

霧がまた少し来た、夜になると、甲府市の電燈が黄いろの珠のように、混沌の底から、ボーッと見えた、先刻の汽船といい、この電燈といい、人間に遇わずに、山から山を伝わって、野獣のような生活をつづけていた人々の胸をおどらせた。

夜も深くなった、焚火がとろとろと消えかかったとき、風が吹いて天幕の油紙が巻くられた、その隙間から潜り込んだ風で、焔がパッと燃え上って光ったときは、寐込んだ油断に身体に火がついたかと思って、一同夢うつつに駭いて立ち上った、霧がいつの間にか深くなっていた、油紙は雨に遇ったように湿めっている、冷やりと手に触れたので眼が醒める。

山の肌(間の岳の雪田に到る)

朝起きて見ると、霧がまだ深い、西の方がまだしも霽れていて、うすくはあるが、明る味がさす、東天の山には、霧が立て罩めて、一行はこの方面に盲目になった、日は霧の中をいつの間にか昇っている、冷たい白い月のように、ぼんやりとして、錫色の円い輪が、空の中ほどを彷徨っている、輪の周囲は、ただ混沌として一点の光輝も放たない、霧の底には、平原がある、平原の面は皸が割れたようになって、銀白の川が、閃めいている、甲府平原は、深い水の中の藻のようにかすんで、蒼く揺めいているばかりだ。

この連日、峰から峰を伝わっているので、水がないから、顔も洗われない、焚火で髭を焼いたり、その焚火の煤煙や、偃松の脂で、手も頬も黒くなったり、誰を見ても、化かされたような顔をしている、谷へ下りたい、早く谷へ下りて、自由に奔放する水音が聞えたら、まあどんなに愉快だろう――谷川の流れる末に、巣くう人里などは、考えるさえ、まだ遠いのである。

二等三角点に添って、西へと向き、見上げるような、岩の障壁を攀じると、急に屏風が失くなったようになって、北の方から、待ち構えていた冷たい風が吹きつけて来る、強い風ではないけれど、遠くは北の方、飛騨山脈や、近くは西の方木曾山脈の山々の、雪や氷の砥石に、風の歯は砥がれて、鋭くなり、冷たさがいや増して、霧を追いまくり、かつ追いかけて、我らの頬に噛みつくのである、我らは吹き込む風の中心になったようで、その冷たさと、痛さとに慄えながらも、山稜を伝わって行く。岩は鋼鉄のように硬くなりながらも、イワベンケイ、ミヤマダイコンソウ、ムカゴトラノオなど、黄紫のやさしい花を、点々とその窪洞に填めながら、ギザギザに尖っている輪廓を、無数に空に投げ掛けている。

西へ西へと、伝わって、一山超えると、また一山が、鋭い鑿で穿りぬいたように、大曲りに蜿ねった山稜を、連鎖にして、その果に突立っている、仰ぐと、西の天は雲が三万尺も高く、堆くなって、その隙間には湖水のように澄徹した碧空が、一筋横に入っている、中農鳥とおぼしき一峰を超えると、また一峰がある、日が昇るに従って、雲や霧は、岩と空の結び目から、次第に離れて消えて行く、葉を一杯に荷った楡の樹のような積雲は、方々が頽れて、谷底へと揺落してしまう、そうしてその分身が、水陸両棲の爬行動物のように、岩を蜿ねり、谷に下って、見えなくなる。

空は高くなって、四方は壮大な円形劇場のように開展する……出た……出た……木曾御嶽は、腰から上、全容を現わした、木曾駒ヶ岳も近くに立ち上った、方々から頭を白く削った稜錐状の山々が、波のように寄せて来た。

脚下の谷へ追い落された水蒸気の団々は、反曲の度を高めて、背を山に冷やさせ、顔を日光に向けて、ふわりと立って飛ぶ、それが長く繋がって、日を截ち切ったかと思うとき、異常な光がチラリと岩角に落ちた、ふと見上げると、円い虹のようなものが、虚空の中に二輪も、三輪も結ばれた、その輪の中に、首を貫ぬいて五、六丈もあろうかと思うような、黒い巨人が、ヌーッと立っている、富士登りの道者のいう、三尊の阿弥陀の来迎はこれだ、侏儒のような人間が、天空に映像されたときに、このような巨人となったのだ、我らが手を挙げると、向うでも挙げる、金剛杖を横縦に振り廻わすと、空の中でも十字架を切る。暁を思わせるうす紅色で、雨気を含んだ虚空に、浸み透るように、暈して描かれた自分たちの印画は、この大なる空間を跨いで、谷間へと消え落ちた。

この山の上で、朝から夕立に遇っては堪まらないと、多年山登りの経験から気がついて、呆れ顔の導者を促して路を急ぐ、岩角を上ったり、下ったり、偃松や黄花石楠花の間を転がるようにして走ったが、その間に幻影は消え消えながら、三度出た、しかし心配ほどもなく、霧は奇麗に拭われて、雨にはならなかった。

間の岳は大断崖を隔てて北に聳えている、北岳はここからは見えない、峻急な山頂の岩壁を峰伝いに北に向けて直下する。間の岳はもう眼の前に立っている、山の空気が稀薄で透明になっているから、それが近いように見えていて、歩くに遠いのが解る。

雪で釉薬をかけたように光る遠くの山々は、桔梗色に冴え渡った空の下で、互いにその何百万年来の、荒んだ顔を見合せた、今朝になって始めて見た顔だ、或るものは牛乳の皮のように、凝った雪を被いている、或るものは細長い雪の紐で、腹の中を結えている、そうして尖鋭の岩を歯のように黒く露わして、ニッとうす気味悪く笑っている。

目的は間の岳にある、残んの雪は、足許の岩壁に白い斑を入れている、偃松はその間に寸青を点じている、東天の富士山を始めて分明に見ながら、岩や松を踏み越えて、下りると、誰が寝泊したのか、野営地の跡が、二カ所あった、石を畳み上げて、竈が拵えてあるので、それと知れたのだ、偃松の薪が、半分焦げて、二、三本転がっている。

尾根を伝わって、東に富士山、西に木曾の御嶽を見ながら行くと、また野営地があった、そこはちょっとした草原になっていた、雪解の水で湿っているところへ、信濃金梅の、黄色な花の大輪が、春の野に見る蒲公英のように咲いている、アルプスの高山植物を、代表しているところから、アルプスの旅客が、必ず土産に持ちかえるものにしてあるエーデルワイス(深山薄雪草)は銀白の柔毛を簇がらせて、同族の高根薄雪草や、または赤紫色の濃い芹葉塩釜、四葉塩釜などと交って、乾燥した礫だらけの窪地に美しい色彩を流している。

振り返れば、間の岳(赤石山脈)や、悪沢岳の間から、赤石山が見える、そうして千枚沢の一支脈は、兀々した石の翼をひろげて、自分たちの一行を、遥かに包もうとしている。

東へ方向を取って、また北へと折れる、右にも左にも、雪田がある、ここから近く見た間の岳は、破れた石を以て、肉としている、おそらくその石を悉く除けば、間の岳は零になるであろう、その石だ、老人の皺のように山の膚に筋を漲らせているのも、古衣の襞のように、スレスレに切れたり、ボロボロに崩れたりしているのも、この石だ、それを針線のように、偃松が幾箇処も縫っている。

急峻な登りを行く、雲は赤石山を包み隠して、西南にその連嶺の西河内岳の一角を現わした、さすがに富士山のみは、深くまつわる山を踏み踰えて、ひとり高く半天に立っている。

石の急壁を登りかけていると、雷鳥が一羽、ちょこちょこと前を歩いている、晃平が、狙いをつけて一発放したが、禽は横に逸れて、截られた羽が、動揺した空気に白く舞った、一行手取りにするつもりで、暫く追いかけて見たが、掌中の物にはならなかった。

疲労の足を引き擦って、石壁の上に登りついたとき、眼は先ず晶々粲々として、碧空に輝きわたる大雪田、海抜三千百八十九米突の高頂から放射して、細胞のような小粒の雪が、半ば結晶し、半ば融けて、大気を含んだ、透明の泡が、岩の影に紫色を翳しているのに、眩ゆくなるばかりに駭いた、南方八月の雪! 白峰をして白からしめた雪! 我ら一行の手は、初めてこの秘められたる、白い肌に触れたのである。

羚羊・長之助草(北岳の絶巓に登る記)

それから尾根伝いに、間の岳の絶頂まで這い上り、三等三角測量標の下に立った、北西に駒ヶ岳(甲斐)の白い頭が、眼前の鋭い三稜形をしている北岳に、挟みつけられて見える、霧が来て散った。

この附近は偃松の原でなければ、暗礁のような岩角が立っていて、高山植物が点じている、なお北岳を見ていると、東の谷、西の谷、北の谷から霧が吹いて来て、その裾は深谷の方に布きながら、頂上を匝ぐって、渦を巻いている。西北の仙丈岳を前衛として、駒ヶ岳、鋸岳、木曾駒山脈の切れ間に谷が多いので、このように水蒸気も多く、そうしてこの山を目がけて、吹きつけるのであろう。

Chapter 5 of 7
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