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仰げば朝焼けで、一天が燃えている。夕焼のように混濁した朱でなくて、聖くて朗らかな火である。富士の斜面のヒダは、均整せられて、端然たる中にも、その高いところは光を強く受けて、浮彫につまみ上り、低い裂け目には暗い影が漂っている。全体としては、素焼の陶器の雅味である。富士が小さく見えるのもこれだ。表裏に廻り、左右から見直しても、「あなたこなたも同じ姿」の八字の輪廓と、円錐の形式とは、連嶺構造の山と、鋭利に切り込まれた深谷を見た目からは、浅いものに見せるかも知れぬ。だがそれは、大裾野を忘れているからだ。裾野は富士の物だ、富士のものを富士に返して、東海の浜にまで引き下り、さて仰いで見たまえ。それから数十里の裾野を、曲馬の馬が、同じ円周を駆けめぐるように、廻って見たまえ。それこそ富士という彫刻品の、線と面の回転だ、そこに驚くべき変化と偉大さを発見するだろう。
あるいは一歩さかのぼって、裾野がいまだ生成しないうち、富士と、愛鷹と、箱根が、陥没地帯の大海原に、火山島のように煙を吐いて、浮かんでいたところを想像すれば、今日の豆南諸島の大島、利島、三宅島などが、鋪石のように大洋に置かれているのと似て、更に大規模なる山海の布置を構成するであろう。今のような裾野となって、富士の登山が一しお悦ばれるのは、絨氈を布く緑青の草と、湿分を放散する豊富な濶葉樹林とにあろう。旅人がアンデスの登山を悦ぶのは、麓が永久の春であるからだそうだが、山の天国は、発達した裾野を有するところの、富士火山帯に多くあらねばならない。それから山の全裸体像として、線や、光や、影や、円味やを研究するのに、富士ぐらい秘密を許してくれる山はあるまい。縦横はもとより、富士ばかりは恐らく螺旋状にでも上れよう。結局富士は、探検家の山でなくて、女でも、子供でも、老人でも、心易く登れる全人類の山だ。殊に旅人の山だ。私も旅人として富士を讃美する。
アルプスの美を、知覚的に讃美したのは、スイスの農夫でなくて、旅人であった如くに、富土山もそうであった。「天地のわかれし時ゆ、神さびて」と歌った山辺赤人は旅人であった。太刀持つ童、馬の口取り、仕丁どもを召連れ、馬上袖をからんで「時知らぬ山は富士の根」と詠じた情熱の詩人在原業平も、流竄の途中に富士を見たのであった。墨染の衣を着た坊さんが、網代笠を片手に杖ついて、富士に向って休息しているとすれば、問わずして富士見西行なることを知る。富士くらい大詩人を持った山が、地球上のどこに存在しているだろう。名もない一遊子ではあるけれど、私も幼い時から、富士の影を浴びて、武蔵相模で育った一児童として、永い間の外国生活から、故国へ放還された一旅人として、親友と、子供と、忠実なる案内者とに囲まれて、今富士の膝下へ来て亡き母の顔に見えまつるが如く、しみじみと見ているのだ。
今にも大野原の上を、自由に飛翔しようとする大鳥が羽翼を収めて、暫く休息している姿勢を、富士は取っている。空気は頬一杯に吹かれてビードロのように、薄青い光を含んで流動している。そして野も、山も、森も、朝の光線にひたって、ああ光ほど不思議な現像液はあるまい。幻からはっきりと、物体のつかめる現実の世界となった。
六 富士の古道
この前に来たときは、裾野の路という路は、馬力のわだちのあとで、松葉つなぎにこんぐらがり、太く細く、土が掘れたり、盛り上ったりして、行人を迷わせたところに、裾野らしい特色があったが、今は本街道然たる、一筋路が、劃然と引かれて、迷いようもなくなった。
一合から一合五勺の休み茶屋、そこを出ると、雲の海は下になって、天子ヶ岳の一脈、その次に早川連巓の一線、最後に赤石山系の大屏風が、立て列なっている。富士の噴出する前から、そこに居並んで、もっとも若い富士が、おどろくべく大きく生長して、頭抜けてくるのを見つめていた山たちである。今後もそうやって見守っているであろう。富士山中で、大宮口の森林として、もっとも名高いモミ、ツガ、ナラ、モミジ、ブナなどの、夏なお寒い喬木帯を通過する。三合目の茗荷谷の小舎では、かけひの水が涼しかった、三合五勺では、名産万年雪を売っている。山の中で、雪を売るということが、一方の室で、シトロンやミルクキャラメルを売っているのに対して、いかにも原始的で、室でやりそうな商いではないか。三合五勺を出外れると、定規でも当てがってブチきったように、森林が脚下に落ち込んで、眼の前には黒砂の焼山が大斜行する。虎杖や去年の実を結んだままのハマナシ(コケモモ)が、砂の上にしがみついている。すんだ空は息吹がかかったように、サッと曇って、今までどこにいたろうと思われる霧がかかる。木山と石山の境は、やがて白明と暗霧の境界線であった。
四合目となると、室も今までのように木造でなく、石を積み重ねた堡塁式の石室となる。海抜二千四百五十米、寒暖計六十二度、ここで大宮口の旧道と、一つになるのだと強力はいう。
私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ、陰にして密なる喬木帯のモミやツガから、ぶら下る長いサルオガセ、濃い緑の蘚苔類と混生する大久保羊歯の茂り具合などは、まだ目に残っている。そればかりではない、足利時代の『鷹筑波集』からも、猿楽狂言からも、また貞徳の「独吟百韻」からも、富士詣の群衆のざわめきは、手に取るように聞えるが、それらの参詣者は、皆この村山口を取ったものであるらしい。今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦するに恰好な題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師も数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀しいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐の深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。
アルプスにも似た例がある。近代氷河学の祖なるルイ・アガシイ先生は、旧記を調査して、偶々第十六世紀の宗教戦時代に、スイスの Valais の村民が他宗派の圧迫を蒙り、子供たちを引き連れ、Aletsch 氷河の遠方まで、Viesch 谷に沿うて、アルプス山を横切ったとあるを見つけだし、今は到底ゆける路ではないと不審を起して、氷河を踏査せられたところ、Aletsch 大氷河が被覆している底に、立派に保存せられた旧道路を発見せられた旨を記述せられている(Geological Sketches 第二輯、一八七六年刊)。氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙ぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。
七 石楠花
いつごろからのいいならわしか、富士の五合目を「天地の境」と称している。五合目では、実際人の気も変る、誰もわらじの緒を引き締める。私は吉田口の五合目に一泊したが、夜中絶えず、人声と鈴音がする。起きて見ると、眼の前の阪下から、ぬっと提燈が出る、すいと金剛杖が突き出る。それが引っ切りなしだから、町内の小火で提燈が露路に行列するようだ。大抵の登山者は、ここで一息いれる、水を飲む、床几にごろりと横になるのもある。五合目は山中の立場である。
私は、御中道をするために、荷担ぎ一人連れて、小御岳神社の方面へと横入りをした。「途が違うぞよ」「そっちへゆくでねえぞ」遠くから呼ばった人の親切は、心のうちで受けた。水蒸気があまりに濃やかであったため、待ち設けなかった御来光が、東の空にさした。しかし旭日章旗のような光線の放射でなく、大きな火の玉というよりも、全身爛焼の火山その物のように、赤々と浮び上った。天上の雲が、いくらか火を含んで、青貝をすったようなつやが出る。それが猫眼石のように、慌だしく変る。大裾野の草木が、めらめらと青く燃える。捨てられた鏡のような山中湖は、反射が強くて、ブリッキ色に固く光った。道志山脈、関東山脈の山々の衣紋は、隆として折目を正した。思いがけなく、落葉松の森林から鐘が鳴った、小刻みな太鼓が木魂のように、山から谷へと朝の空気を震撼した。神主の祝詞が「聞こし召せと、かしこみ、かしこみ」と途切れ途切れに聞える時には、素朴な板葺のかけ茶屋の前を通って、はや小御岳神社へと詣でるころであった。神社の庭には天狗がおもちゃにするというまさかり、かま、太刀などが、散乱している。室の人が、杖に「大願成就」という焼印を押してくれた上に、小御岳の朱印を押した紙に、水引を添えてくれた。これはしかし吉田口の五合目から、富士に向って、左に路を取り、宝永山の火口壁から、その火口底へ下り、大宮方面の大森林に入って、大沢の嶮を越え、小御岳へ出るのが順で、始めて「大願成就」になるのだが、私は故あって、逆に山に向って右廻りをした。そのため一歩踏み出したばかりで、御褒美の水引きを先へ頂戴してしまった。これは逆廻りといって、道者は忌むのだそうで、案内者をもって自任する荷担ぎの男は、私から右の水引と朱印を取りあげて、遂に返してもらえなかった。
何故逆廻りをしたかといえば、御中道は、前にも廻っているんだが、小御岳から御庭を通じて、大宮道へ出遇うまでの、森林の石楠花を見たかったのだ。それには毎日午後から雷雨と聞いているから、晴れた朝によく見て置きたいと思ったからだ。幸いにして、石楠花を見る目的は、十分に遂げられた。同時に不幸にして、雷雨の予覚は当り過ぎるほど当った。
神社を出て、富士の胴中に、腹帯を巻いたような御中道へとかかる、この前後、落葉松が多く、幹を骸骨のように白くさらし、雪代水や風力のために、山下の方へと枝を振り分けて、うつむきに反っている、落葉松の蔭には、石楠花がちらほら見えて、深山の花の有する異香をくんじているが、路が御庭へ一里、大沢へ約二里と、森の中へ深いりすると、落葉松の間から、コメツガや、白ビソの蔭から、ひょろ長い丈の石楠花が、星のようにちらつく。それも、横に曲りくねった、普通平地で見るような石楠花でなく、白花石楠花である。高さは一丈以上に達したのも珍しくない。つばきの葉を見るような、厚い革質のくすんだ光沢があって、先端の丸い、細長い楕円形の葉を群がらしている。その裏返しになったところは、白蝋を塗ったようで、赤児の頬の柔か味がある。美しいのはその花弁だ。白花という名を冠らせるくらいだから白くはあるが、花冠の脊には、岩魚の皮膚のような、薄紅の曇りが潮し、花柱を取り巻いた五裂した花冠が、十個の雄蕊を抱き合うようにして漏斗の鉢のように開いている。しかもその花は、一つのこずえの尖端に、十数個から二十ぐらい、鈴生りに群って、波頭のせり上るように、噴水のたぎるように、おどっているところは、一個大湊合の自然の花束とも見られよう、その花盛りの中に、どうかすると、北向きに固く結んだつぼみが見える。つぼみと、それを包む薹とは、赤と白とを市松格子形に互層にして、御供物の菓子のように盛り上っている。花として美しく開くものは、つぼみとしてまず麗わしく装わねばならなかった。私は平原の草野において、山百合の花を愛し、深山の灌木において、もっとも白花石楠花を愛する。