三
地方から東京へ出て来て帝大の法科へ通い始めた藤浪君は差当り得意だったが、その夏休みに失恋した。相手は従姉で年が一つ上だった。子供の時から仲が好かった。本家と分家だから、始終往き来をしていた。
「姉さん」
「…………」
「貞代さん」
「はあ」
「ハッハヽヽ」
「姉さんなんて厭よ、私」
「でも年が一つ上です」
「上って、私暮生れで、あなたは正月生れよ。二月とは違いませんわ」
「満で数えれば同い年ですね」
「えゝ、私、もう三月ばかり後から生れて来れば宜かったと思いますわ」
「何故ですか?」
「存じません。オホヽヽヽ」
斯ういう暗示は直ぐに利く藤浪君だ。貞代さんは此方から申込めば必ず嫁に来てくれると思った。その後、念の為めに試して見た。
「貞代さん」
「はあ」
「貞代」
「はあ」
「貞代でも宜いんですか?」
「結構よ。私、もう三月後から生れて来れば妹ですもの」
「これから三年です」
「御卒業?」
「はあ。僕が二十五で、あなたが二十六になります」
「二十五よ、私。同じじゃありませんか? 満なら何方も二十四ですわ」
藤浪君はこれで理解が出来たと思って上京したのだった。一学期間大いに勉強した。野球部から勧誘があったけれど、応じなかった。
「君は生れ更ったね。豪い」
と高等学校からの同級生が感心した。
「次第があるんだよ」
「ふうむ」
「僕一人の力じゃない。郷里に待っている人があるんだよ」
と藤浪君は大威張りだった。
しかし夏休みに帰郷したら貞代さんは町の呉服屋「丸喜」の総領息子と婚約が定って、九月早々祝言ということになっていた。藤浪君は憤慨したけれど、今更仕方がなかった。
「金三郎さん、あなた、喜んで下さるでしょう?」
「さあ」
「丸喜さんなら、あなたも御存じの筈です」
「中学校で僕より三年上でした」
「今年商大をお出になりましたのよ」
「はあ」
「私よりも三つ上よ」
「貞代さん」
「はあ」
「あなたは自分の意思でお嫁にいらっしゃるんですか?」
「無論ですわ。人の意思でお嫁に行くものがあって?」
「僕……」
「何あに?」
「あなたが待っていて下さると思っていたんです」
「何を?」
「宜いですよ、もう」
「厭な金三郎さんね」
「…………」
「私、あなたより年が上じゃありませんか?」
と貞代さんは年長を主張した。
「随分勝手なものですね」
「何故?」
「手を翻せば雲となり、手を覆せば雨となる。あなたは僕よりも年が下なら宜いと仰有ったことがあります」
「…………」
「僕はあなたを信じ過ぎました」
「金三郎さん、そんなこと仰有らないで、御機嫌を直して下さいよ」
「…………」
「私、これでも、あなたの為めに考えたんですわ」
「何を考えてくれたんですか?」
「式の日を九月上旬と指定しましたの。それなら未だ休暇中ですから、あなたにも出て戴けると思いまして」
「…………」
「出て下さいよ、妹と思って」
「都合次第で年が上になったり下になったりするんですね」
「そんな皮肉を仰有らないで。よう、金三郎さん」
「考えて見ましょう」
「私、あなたに出て戴かないと困りますわ」
「何故ですか?」
「あなたと仲が好かったのを先方で知っているんですから。しかし約束も何もなかったと申上げてあるんですから」
「…………」
「それですから、出て下さらないと、私、変に思われますわ。妹として最後の親切を尽して下さいよ」
「仕方ありません。出席しましょう」
「何うぞ」
「もうこれで失敬します」
「まだ宜いのよ」
「いや、実は昨夜寝られなかったんです。僕は神経衰弱になるかも知れません」
藤浪君は好い面の皮だった。貞代さんを失うばかりでなくその結婚式に列席しなければならなかった。禍は単独で来ないという。悪く廻り合せると何処までも悪い。暑中休暇中腐り切っていた。義理を果してから間もなく上京したが、今度は勉強が出来なくなってしまった。失恋した人間は神経衰弱を起すという暗示が利いたのである。何うも面白くない。自分が甚だ詰まらないものゝように思える。同級生に慢性の神経衰弱で始終むずかしい顔をしている男があったから、徴候を訊いて見たら、割符を合せたようだった。イヨ/\本物の神経衰弱だと思い込んだ。しかし同時に養生法を詳しく話して貰った。元来何ともないところへ、それを堅く守ったから、期せずして健康を増進した。神経衰弱の暗示は今まで身体を大切にしたことのない藤浪君に取っては怪我の功名だった。以来規則正しい習慣がついて、頭もグッと好くなった。問題を冷静に考えて諦めをつけると共に、勉強に身を入れた。可なりの成績で卒業したから、就職の方も滞りなく運んだのである。