5
喜平はまたぴゅっと鞭を打ち鳴らした。
「正勝! てめえは大変なことをしたぞ。浪岡か? わしは見違えていた。花房と浪岡とを取り違えて見ていた。なんて馬鹿なことをするんだ。浪岡を捕まえたら、浪岡は新馬だから一頭だけ離して曳いてくりゃあいいじゃねえか。わしはまた、正勝が浪岡に乗って走らせているんだと思っていたんだ。それで、浪岡が躓いたと思ったから心配して出てきたんだ。ところが、なんという態だ。躓いて転んだどころか、蹴らして大切な前脚へ怪我をさせるなんて、平吾! 早く手当てをしなくちゃ! 早く厩舎へ曳っ張っていって、脚へ重みがかからないように梁から吊って、そして岩戸をすぐ呼んで手当てをさせろ!」
「ほらほら、ほらほらほら」
平吾はすぐ浪岡を厩舎のほうへ曳いていった。松吉もそこに立っていても仕方がないので、浪岡についていこうとした。
「松吉! この花房を曳っ張っていけ!」
喜平は怒鳴った。松吉は戻ってきて正勝から手綱を取った。正勝は寂しそうに項垂れた。
「正勝! てめえはこっちへ来い!」
喜平はそう言って鞭をまたもぴゅっとひと振り振って、母屋のほうへ歩きだした。正勝は訝しそうにして躊躇していた。喜平は後ろを振り返って、またぴゅっぴゅっと鞭を振り鳴らした。
「来いっていったら来い!」
正勝は仕方がなく歩きだした。
6
紀久子はどうしていいか分からなかった。
(困ったわ、困ったわ。あの人がお父さまの前に引っ張っていかれて、お父さまからひどく叱られたら、わたしのあのことを言ってしまいやしないかしら?)
紀久子は恐怖に身を顫わした。いまの場合に正勝が父の部屋へ引っ張っていかれて叱られるということは、紀久子にとって、自分の犯罪の証人が裁判官の前へ引き出されていくのを見るよりももっと苦しかった。紀久子はできることなら、正勝をどうかして父の前へ出したくなかった。正勝の過失を引き受け、正勝の立場に代わり、なんとかして正勝を叱らせたくなかった。
(サラブレッドが怪我をしたのだって、あの人が悪いのじゃなくてわたしが悪いんだもの。わたしがあの時あそこへ出ていかなかったら、どの馬も狂奔なんかしなかったんだもの。結局、怪我をさせたのはわたしなのだわ)
紀久子のそういう気持ちは、恋をしている少女が恋人の罪を引き受けようとする気持ちにさえ似ていた。紀久子は何物に代えても、正勝がその過失の責めから免れて父から叱られずに済むようにしてやりたかった。
(言ってやるわ。お父さまに言ってやるわ。サラブレッドに怪我をさせたのはあの人ではないんだもの。わたしなんだもの。それだのにあの人を叱るなんて、お父さまこそひどいわ。正勝さんのために言ってやるわ)
紀久子はひどく昂奮しながら、母屋のほうへ駆けだした。
7
天井の高い四角な部屋だった。卵色の壁には大型のシェイフィルド銃と、古風な村田銃との二梃の猟銃が横に架けられてあった。その下前には弾嚢帯が折釘からだらりと吊るされていた。そして、部屋の隅には黒鞘の長身の日本刀が立てかけてあった。床には大きな熊の皮が敷いてあった。その熊の皮を踏みつけて大書卓がガラス窓の下に据えられ、中央には楢の丸卓と腕つきの椅子が四つ置かれてあった。
「そこへかけろ!」
鞭でその楢材の腕つき椅子を示しながら、喜平は怒鳴るように言った。正勝は静かに腰を下ろした。そして、将棋の駒のように肩を角ばらせて顔を伏せた。
「正勝! てめえは浪岡を幾らぐらいする馬か、知っているか?」
喜平は書卓の前の回転椅子にどっかりと腰を据えながら言った。
「…………」
正勝は静かに首を振っただけで、なにも言わなかった。
「知らねえ? しかし、てめえだって何年となく牧場にいるんだから、安い馬か高い馬かぐらいは知っているだろう」
「それは……」
「それみろ! てめえは浪岡が高価な馬だってことを知っていて、わしへの腹癒せにわざと怪我をさせたんだろう?」
「そんな……そんな……」
「とにかく、てめえは蔦が逃げていったのを、わしらが苛めたからだとでも思っているんだろう! 正勝!」
喜平は鞭をしなしなと撓めながら言った。
「…………」
正勝は顔を伏せたまま、答えなかった。
「てめえはそう思っているんだな? 思うなら勝手に思うがいいや。しかし、いくら腹癒せだからって程度があるぞ。浪岡は五百や六百の金じゃ買える馬じゃねえぞ。投げて千二、三百円、客次第で、三千円ぐらいにだって売れる馬なんだぞ。それを怪我させて……」
「でも、死んだというわけじゃねえんで、血管が切れただけなんですから」
「血管が切れただけだからいいというのか? たわけめ!」
喜平はそう言って怒鳴りながら、怒ったときの癖で鞭をまたぴゅっと打ち鳴らした。
「それも今日、買手が見に来るっていうんだぞ。怪我をしている馬に、だれが買手がつくもんか。千円、二千円となりゃあてめえなんか、一生かかったってできるかできねえか分かりゃしめえ。それを……」
「馬鹿正直に働いていたんじゃとても……」
「なにを? 馬鹿正直に働いていたんじゃ? ちぇっ! 利巧に立ち回ればできるっていうのか?」
「利巧に立ち回って悪いことでもしねえかぎり、おれだけじゃなく、だれにだって!」
「何を言ってやがるんだ。屁理窟ばかりつべこべと並べやがって。いったい、てめえらはだれのお陰で育ったと思っているんだ? それも忘れやがって、わしに腹癒せがましいことができると思うのか?」
「旦那! 旦那は少し思い違いをしているようですけど……」
「思い違い? 何が思い違いだ? てめえ、とにかくそこへ手を突いて謝れ!」
喜平は長靴の踵で荒々しく床を蹴った。正勝は唇を噛んで、じっと喜平の顔を見詰めたまま黙っていた。
「謝るのがいやなのか? 謝る理由がねえというのか? 正勝!」
喜平はもう一度、荒々しく床を蹴った。
「謝るのがいやなら出ていけ! この牧場から出て、てめえの好きなところへどこへでも行け! すぐ、いますぐ出ていけ!」
「はあ! いくらでも出ていきますがね」
「すぐ出ていけ!」
「それじゃあひとつ、出ていかれますように、お金を少し都合していただきてえんですが……」
「金? そんなことわしの知ったことか? てめえのような者に金を出してやる理由なんかありゃしねえ!」
「旦那! 昔のことを少し考えてみてくだせえ」
「なにを!」
「旦那は、おれがなにも知らねえと思っているのかね?」
「何を吐かしやがるんだ? たわけめ!」
「おれはこれでも、旦那一家の秘密を握っているんですからなあ」
「秘密? たわけめ! なんの秘密だ? わしを威かして金を出させようというのか? このたわけ者め!」
喜平は立ち上がって鞭を振り上げた。正勝は肘で顔を掩った。鞭はぴゅっと空間で鳴った。
8
紀久子は、ばたりと床の上にくずおれた。
(あらっ! 秘密だなんて、あの人はあのことを言ってしまうのだわ)
彼女はそれっきりで、もうなにも分からなくなった。
9
紀久子は自分のベッドの上で横たわっているのに気がついた。
「お嬢さま! お嬢さま! お気づきになりまして?」
婆やが間近く顔を寄せながら言った。そして、その右手をわなわなと顫わしながら、赤酒らしい赤紫色の液体をなおも紀久子の口に勧めようとしていた。
「お嬢さま! 本当にしっかりなさいませんと……これをもう少し召し上がりませんかよ? お嬢さま!」
「あら! 婆や! わたしどうかして?」
「お嬢さまはじゃあ、なにもご存じございませんのかよう? わたしがお嬢さまにお茶を差し上げようと思いましてお茶を持ってまいりましたら、お嬢さまはそこに倒れていらしったのでございますよ」
「あら! わたしどうかしたのかしら?」
「わたしはまたびっくりいたしまして、すぐにここへ抱き上げて、それからはすぐに赤酒を持ってきて差し上げたのですがね」
「あら! それ赤酒なの? 葡萄酒じゃないの? 赤酒なら貰うわ。わたし、赤酒大好きよ」
紀久子はそう言って、蝋のように白く、微かにわなわなと顫えている手を差し伸べてその赤酒をぐっと飲み干した。
「お嬢さま! お嬢さまはどこかお悪いのじゃございませんか」
「なんでもないわ。どこも悪くないのよ。脳貧血を起こしたのだわ」
「脳貧血だって、どこかお悪くないと……お嬢さまは、昨夜からなんとなくお顔の色が悪くて、ご心配事でもあるようなご様子でございましたよ」
「なんでもないのだわ」
「なんでもなければようございますが、何かご心配事でもございましたら、なんでもわたしに打ち明けてくだされませな。わたしはお嬢さまのことなら、生命に懸けてもいたそうと思っているのでございますからね」
「婆や、なんでもないんだからもうあっちへ行っててよ」
またその時、いままで森閑としていた隣室から父親喜平の激しく怒鳴る声が、雷よりも凄まじい勢いをもって紀久子の耳朶を襲ってきた。
「言えっ! 言えったら言え! その秘密というのを言ってみろ! 正勝! てめえはなんで黙っているんだ?」
その激しい態度は、いまにも掴みかかっていきそうに感じられた。
「婆や! お父さまを呼んできてよ。早くお父さまを呼んできてよ。早く! 婆や!」
紀久子はベッドの上に半身を起こして、恐怖に戦きながら狂的に叫んだ。
「お嬢さま! 大丈夫でございますよ。わたしがお傍についておりますから、お呼びなさらないでもよろしゅうございますよ」
「何を婆やは言っているの? 呼びに行くのがいやなの? いやならいいわ、わたしが自分で行ってくるからいいわ」
紀久子はいつもの温順さにも似合わず、狂的に叫びながら髪を振り乱してベッドから飛び下りた。
「お嬢さま! ではわたしが……」
「いいわ!」
彼女は老婆を押し除けるようにして、ドアのほうへ突き進んだ。
第三章
1
沈黙が続いた。喜平は目を輝かして正勝を睨みつけ、唇を噛み締め、鞭の手をぐっと正勝の身近くへ差し伸ばし、その手を微かにわなわなと顫わしていた。そして、正勝は腕を組み、唇を噛み締めてじっと俯いていた。嵐を孕める沈黙だ。いままさに、鉄砲の火蓋が切って落とされようとしているような沈黙だった。
正勝はじっと俯いて、嵐のように荒れ渦巻く心のうちに、喜平の胸に向かって投げつくべく、言葉の弾丸を整えているのだった。過去の噂から、過去の記憶から、彼は喜平の胸に投げつくべき言葉の数々を機関銃の弾嚢帯のように繰り出していた。そして、彼は秘かに喜平のその肉の仮面を肉づきのままに引き剥ぐべく、爪を研ぎ澄ましているのだった。
喜平はじっと正勝を見詰めつづけ、正勝がもし何か喚きだしたら、その細長いしなやかな鞭をもってすぐにも殴りつけようとしているのだった。火のような昂奮をもって、喜平は第二の爆発の動機を待ち構えているのだった。
狂暴な嵐の中の瞬間的な静寂のような沈黙だった。偶然に均衡を得た一つの機構が、わずかの間をどうにか崩れずにいるような、瞬間的静止状態であった。なお大きく恐ろしく爆発しようとして……。そして二人の間には沈黙が続いた。
隣室の沈黙につれ、紀久子はその身体を婆やの手に委すようにした。婆やは紀久子の肩に手をかけて、ベッドの上へ静かに寝かした。そして、紀久子はベッドの上でじっと目を閉じたが、恐怖の嵐がその身内を駆け巡っていた。
(正勝さんはあのことを言ってしまうのだわ。あの秘密を言おうとしているのだわ。あの秘密を……)
紀久子は心の中に呟いた。彼女は渦巻き吹き捲る恐怖の嵐のために、胸が裂けてしまいそうだった。そして、彼女はじっと目を閉じていると、隣室で父の喜平と対峙している正勝がその口辺をもぐもぐさせながら、いまにも叫び出そうとしているさまがはっきりと見えるような気がするのだった。そして、その言葉がいまにも自分の身内へ飛び込んできて、自分の心臓を滅茶めちゃに噛み荒らすような気がするのだった。紀久子の心臓は熱病患者のように燃えながら顫えた。