5
「買ってやれ買ってやれかわいそうに」
豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっぱは凱歌のごとく鳴りひびいた。
二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。
「伯父さんをゆるしてください、伯父さんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」
かれは警部にこう哀願した。
「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまたたいていった。「だが阪井の方で示談にしないと警察では困るんだ」
「監獄へいくんでしょうか」
「そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね」
チビ公はがっかりして警察をでた、それからその足でさしいれ屋へゆき、売りだめから七十五銭をだしていった。
「どうかよろしくお願いします」
「覚平さんだったね」とさしいれ屋の亭主がいった。
「はあ」
「覚平さんのさしいれはすんでるよ」
「三度分の弁当ですよ」
「ああすんでる」
「だれがしてくれたのです」
「だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本」
「へえ、それじゃちり紙を一つ……」
「ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる」
「それも?」とチビ公はあきれて、「どなたがやってくだすったのですか」
「それもいえない、いわずにいてくれというんだから」
「じゃさしいれするものはほかになんでしょう」
「その人がみんなやってくれるからいいだろう」
チビ公はあっけにとられて言葉がでなかった、親類とてほかにはなし、友達はあるだろうが、しかし匿名にしてさしいれするのでは、ふだんにさほど懇意にしている人でないかもしれぬ、自分では想像もできぬが、母にきいたら思いあたることもあるだろう、こう思ってかれはそこをでた、家へ帰ると母もすでに帰っていた。生まれてはじめててんびん棒をかついだので母はがっかりつかれて、肩を冷水で冷やしていた。
「どうでしたお母さん」とチビ公がいった。
「大変によく売れたよ」と母はわらっていた。
「ぼくの方も非常によかったです、二時間のうちに」
かれはからのおけを見せ、それから売りだめを伯母にわたしてさしいれものの一件を語った。
「だれだろうね」
「さあだれだろう」
伯母と母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな匿名の必要のない人であり、毛布二枚を買う資力のない人ばかりであった。
その日の夕飯はさびしかった、酒を飲んで喧嘩をするのは困るが、さてその人が牢獄にあると思えばさびしさが一層しみじみと身に迫る。
「阪井にかけあって示談にしてもらうようにしましょうかね」と母は伯母にいった。
「まあ、そうするよりほかにしかたがありますまい」と伯母がいった。チビ公をるすにして二人はそれぞれ知人をたよって示談の運動をした。
「よろしい、なんとかしましょう」
こう快諾してくれた人は四、五人もあったが、翌日になると悄然としてこういう。
「どうも阪井のやつはどうしてもききませんよ、このうえは弁護士にたのんで……」
望みの綱も切れはてて一家三人はたがいにため息をついた。もとより女と子どものことである、心は勇気にみちてもからだの疲労は三日目の朝にはげしくおそうてきた。母の肩は紫に腫れて荷を負うことができない、チビ公は睡眠の不足と過度の労働のために頭が大盤石のごとく重くなり動悸が高まり息苦しくなってきた。
豆腐を買う人は多くなったが、作る人がなくなり売りにでる者がなくなった。
示談が不調で覚平は監獄へまわされた。
三
何人が覚平のさしいれ物をしたかは永久の疑問として葬られた。しかしチビ公の一家は次第次第に貧苦に迫った。夜中の二時に起きて豆腐を作れば朝にはもうつかれて町をまわることができない。町をまわろうとすれば夜中に豆腐を作ることができない。このためにお美代は女手一つでわずかばかりの豆腐をつくり、チビ公一人が売りに出ることにきめた。
製作の量が少ないので、いくら売れてももうける金額はきわめて少なくなった。チビ公はいつも帰り道に古田からたにしを拾うて帰った。一家三人のおかずはたにしとおからばかりであった。伯母のお仙は毎日のように愚痴をこぼした。
「おまえのためにこんなことになったよ」
これを聞くたびにチビ公はいつも涙ぐんでいった。
「伯母さん、ぼくはどんなにもかせぐから、そんなことをいわないでくださいよ」
ある日かれは豆腐おけをかついで例の裏道を通った、かれの耳に突然異様の音響が聞こえた。それは医者の手塚の家であった。夕日はかっと植え込みを染めて土蔵の壁が燃ゆるように赤く反射していた。欝蒼と茂った樹々の緑のあいだに、明るいぼたんの花が目ざむるばかりにさきほこっているのが見える。そこに大きな池があって土橋をかけわたしみぎわには白いしょうぶも見える。それよりずっと奥に回廊紆曲して障子の色まっ白に、そこらからピアノの音が栄華をほこるかのごとく流れてくる。
「ああその家はぼくの父の家だったのだ」
チビ公は暗然としておけを路傍におろして腕をくんだ。
「お父さんは政党のためにこの家までなくしてしまったのだ。お父さんはずいぶん人の世話もし、この町のためになることをしたのだが、いまではだれひとりそれをいう者がない。その子のぼくは豆腐を売って……それでもご飯を食べることができない」
チビ公は急になきたくなった、かれは自分が生まれたときには、この邸の中を女中や乳母にだかれて子守り歌を聞きながら眠ったことだろうと想像した。
「つまらないな」とかれは歎息した。「いくら働いてもご飯が食べられないのだ、働かない方がいい、死んでしまうほうがいい、ぼくなぞは生きてる資格がないのだ、路傍のかえるのように人にふまれてへたばってしまうのだ」
暗い憂欝はかれの心を閉ざした。かれは自分の影法師がいかにも哀れに細長く垣根に屈折しているのを見ながらため息をはいた。
「影法師までなんだか見すぼらしいや」
ピアノの音は樹々の葉をゆすって涼風に乗ってくる。
「お父さんのある者は幸福だなあ、ああしてぼうんぼうんピアノをひいて楽しんでいる」
かれはがっかりしておけをかついだ。つかれた足をひきずって二、三間歩きだすとそこでひとりの女の子にあった。それは光一の妹の文子であった。かの女は尋常の五年であった。下ぶくれのうりざね顔で目は大きすぎるほどぱっちりとして髪を二つに割って両耳のところで結び玉をこさえている。元禄袖のセルに海老茶のはかまをはき、一生懸命にゴムほおずきを口で鳴らしていた。
「今晩は」とチビ公は声をかけた。
「今晩は」と文子はにっこりしていった。がすぐ思いだしたように、
「青木さん、兄さんがあなたを探してたわ」
「兄さんが?」
「ああ」
「何か用事があるんですか」
「そうでしょう私知らないけれども」
文子はこういってまたぶうぶうほおずきをならした。
「急用なの?」
「そうでしょう」
「なんだろう」
「会えばわかるじゃないの?」
「それはそうですな」
「兄さんがいま、家にいるでしょう、いってちょうだいね」
文子はこういったがすぐ「私も一緒にいくわ、あそこに大きな犬がいるからおいはらってちょうだいね」
「ああ酒屋の犬ですか」
ふたりは並んで歩きだした。小学校にいたときには文子はまだまだおさなかった。げたのはなおが切れて難儀してるのを見てチビ公はてぬぐいをさいてはなおをすげてやったことがある。そのとき肩につかまって片足をチビ公の片足の上に載せたことをかれは記憶している。
ふたりは光一の家の裏口の前へきた。
「待っててね」
文子は足をけあげて走りだし、勝手口の戸をあけたかと思うと大きな声で叫んだ。
「兄さん、青木さんをつれてきたわ、兄さん早く」
光一の姿が戸のあいだからあらわれた。
「やかましいやつだな、おてんば!」
「そんなことをいったら青木さんをつれてきてあげないわ」
「おまえがつれてこなくても青木君はここにいるじゃないか」
光一はわらいながらチビ公の方を向き、
「きみ、ちょっとはいってくれたまえ」
「ぼくはどろあしですから」
「そうか、じゃ庭へいこう」
チビ公はおけを片隅において光一の後ろにしたがった。ふたりは、うの花が雪のごとくさきみちている中庭へでた。そこの鶏舎にいましも追いこまれたにわとりどもは、まだごたごたひしめきあっていた。
「きみに相談があるんだがね」と光一は謹直な顔をしていいだした。
「ぼくはぼくの父ともよく相談のうえでこのことをきめたんだが」
「どんなことですか」
「つまり、きみにもいろいろ不幸な事情が重なってるようだがきみはもう少し学問をする気がないかね」
「それはぼくだって……」とチビ公は早口にいった。「学問はしたいけれどもぼくの家は……」
「だからねえきみ、きみが中学校をやって大学をやるまでの学資ならぼくの父がだしてあげるとこういうのだ。きみは学校でいつも優等だったしね、それからきみの性質や品行のことについてはこの町の人はだれでも知ってるんだからね、豆腐屋をしてるよりも、学問をしたら、きっと成功するだろうと父もいうんだ、実はね、こんど生蕃の親父の一件できみの伯父さんがあんなことになったろう、それできみは夜も昼もかせぎどおしにかせいでいるのを見てぼくの父は……」
「ああわかった」と、チビ公は思わず叫んだ。「伯父さんのさしいれ物をしてくれたのはあなたのお父さんですね」
「いやいや、そんなことは……」と光一は頭をふって、「ぼくは知らない、なんにも知らない」
「かくさないでいってください、ぼくはお礼をいわないと気がすまないから」
「そうじゃないよきみ、決してそうじゃない、ところできみ、いまの話はどうする、きみはぼくと一緒に中学へ通わないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくの家はきみに学資をだすくらいの余裕があるんだ、決して遠慮することはないよ、ぼくの父は商人だけれども金を貯めることばかり考えてやしない、金より大切なのは人間だってしじゅういってるよ、きみのような有望な人間を世話することは父が一番すきなことなんだから、ねえきみ、ふたりで一緒にやろう、大学をでるまでね、きみは二年の試験を受けたまえ、きっと入学ができるよ、ねえきみ」
光一の目は次第に熱気をおびてきた、かれの心はいまどうかして親友の危難を救い、親友をして光ある世界に活躍せしめようという友情にみたされていた。
「ねえ青木君、ねえ、そうしたまえよ」
かれは千三の手をしっかりとにぎって顔をのぞいた。うの花がふたりの胸にたもとにちらりちらりとちりしきる。千三はだまってうつむいていた。
社会のどん底にけおとされて、貧苦に小さな胸をいため、伯父は牢獄にあり、わが身はどろにあえぐふなのごときいまの場合に、ただひとり万斛の同情と親愛をよせてくれる人があると思うと、千三の胸に感激の血が高波のごとくおどらざるを得ない。かれは石のごとく沈黙した。
「ねえ青木君、ぼくの心持ちがわかってくれたろうね」
「…………」
「明日からでも商売をやめてね、伯父さんがでてくるまで休んでね、そうしてきみは試験の準備にかかるんだね、決して不自由な思いはさせないよ」
「…………」
「ぼくはね、金持ちだからといっていばるわけじゃないよ、それはきみもわかってくれるだろうね」
「無論……無論……ぼくは……」
千三ははじめて口を開いたが、胸が一ぱいになって、なんにもいえなくなった。はげしいすすりなきが一度に破裂した。
「ありがとう……ぼくはうれしい」
涙はほおを伝うて滴々として足元に落ちた。足にはわらじをはいている。
「じゃね、そうしてくれるかね」と光一も涙をほろほろこぼしながらいった。
「いいや」と千三は頭をふった。
「いやなのかい」
「お志は感謝します。だが柳さん」
千三はふたたび沈黙した。肩をゆする大きなため息がいくども起こった。
「わがままのようだけれどもぼくはお世話になることはできません」