五
暑い夏が来た。旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、伊那の方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つ毛付け(馬市)も近づき、各村の駒改めということも新たに開始された。当時幕府に勢力のある彦根の藩主(井伊掃部頭)も、久しぶりの帰国と見え、須原宿泊まり、妻籠宿昼食、馬籠はお小休みで、木曾路を通った。
六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうで雨乞いでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。荒町の部落ではすでにそれを始めた。
ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村の小前のものがある。福島の馬市からの戻りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。気の短い問屋の九太夫がそれを見つけて、どなった。
「おい、どこへ行っていたんだい。」
「馬買いよなし。」
「この旱りを知らんのか。お前の留守に、田圃は乾いてしまう。荒町あたりじゃ梵天山へ登って、雨乞いを始めている。氏神さまへ行ってごらん、お千度参りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木を出さずに済むまいぞ。」
伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
六月の六日、村民一同は鎌止めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林から樅の木一本を元伐りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅が一本、吾家の林にもありますから。」
元伐りにした二本の樅には注連なぞが掛けられて、その前で禰宜の祈祷があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。
「よいよ。よいよ。」
互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある高札場あたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、三つや表から畳石の辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番鶏が鳴いた。
「どうもことしは年回りがよくない。」
「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが西南の方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。馬籠ばかりじゃない、妻籠でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」
吉左衛門と金兵衛とは二人でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところへ急いだ。山里に住むものは、すこし変わったことでも見たり聞いたりすると、すぐそれを何かの暗示に結びつけた。
三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだ御利生は見えなかった。峠のものは熊野大権現に、荒町のものは愛宕山に、いずれも百八の松明をとぼして、思い思いの祈願をこめる。宿内では二組に分かれてのお日待も始まる。雨乞いの祈祷、それに水の拝借と言って、村からは諏訪大社へ二人の代参までも送った。神前へのお初穂料として金百疋、道中の路用として一人につき一分二朱ずつ、百六十軒の村じゅうのものが十九文ずつ出し合ってそれを分担した。
東海道浦賀の宿、久里が浜の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが伝わって来たのも、村ではこの雨乞いの最中である。
問屋の九太夫がまずそれを彦根の早飛脚から聞きつけて、吉左衛門にも告げ、金兵衛にも告げた。その黒船の現われたため、にわかに彦根の藩主は幕府から現場の詰役を命ぜられたとのこと。
嘉永六年六月十日の晩で、ちょうど諏訪大社からの二人の代参が村をさして大急ぎに帰って来たころは、その乾ききった夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。江戸からの便りは中仙道を経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚でも相応日数はかかる。黒船とか、唐人船とかがおびただしくあの沖合いにあらわれたということ以外に、くわしいことはだれにもわからない。ましてアメリカの水師提督ペリイが四艘の軍艦を率いて、初めて日本に到着したなぞとは、知りようもない。
「江戸は大変だということですよ。」
金兵衛はただそれだけを吉左衛門の耳にささやいた。