五 外科手術
「実は、ぶちまけたところ、そんなような事情なんです。……むろん、正木の方から、一応申上げたはすだと存じますが、私からじかに申上げてみたら、また、いくぶんお感じの上でちがう点もあろうかと存じまして……」
と、俊亮は、まるっこい膝を、手のひらでこすりこすり言った。
「なるほど、それでわざわざお出でくだすったとおっしゃるのか。じゃが、正木さんから伺ったところと、ちょっともちがってはいませんな。」
大巻運平老は、とぼけたようにそう答えて、顎鬚をぐいとひっばった。その大きな眼玉は、天井を見ている。あまり愉快そうな表情ではない。――運平老は、お芳の父で、次郎が天狗の面に似ていると思っている人なのである。剣道に自信があり、裏の土蔵を道場代りにして、村の青年たちに、おりおり稽古をつけてやっている。鉄庵と号して画も描く。四君子のほかに、鹿の密画が得意である。
俊亮は、運平老の気持をはかりかねて、用心ぶかくその顔色をうかがった。すると運平老は、急に脊骨を真直にし、天井に注いでいた視線を、射るように俊亮の顔に転じて、かみつくように言った。
「あんたは、つまるところ、今度の話を取消しにおいでになったわけじゃな。」
「いや、決してそんなわけでは……」
「なるほど、あんたの口から取消そうとはおっしゃらん。じゃが、その代りに、わしに取消させようというのが、あんたの本心じゃろう。」
「とんでもない。そんなふうにとられましては……」
「すると、やっぱりお芳は約束どおりもらってくださるのかな。」
「そりゃあ、もう、こちら様さえ、ただ今申上げたような事情を、十分ご承知くだすったうえのことであれば……」
「その事なら、はじめから承知していますがな。」
「そうですと、きょうわざわざお邪魔にあがる必要もなかったんです。ただ、私としましては、どの程度に正木からお話申上げてありますか、実はその点が非常に気がかりだったものですから……」
「あんたも、よっほど神経質じゃな、はっはっはっ。じゃが、わしもそれで安心しましたわい。」
と、運平老は、がらりとくだけた態度になり、
「いや、恥を言えば、おたがいさまでしてな。何しろ、お芳という女は、ご覧のとおりののろまで、女学校にもとうとうあがれなかったし、かたづいた先からは、子供が亡くなったのを幸いに追い出されるし、実は、もう、わしの方で、一生飼殺しの腹をきめて居りましたのじゃ。ところが、正木さんでは、そののろまなところが、かえって気に入ったとおっしゃるのでな。」
「恐縮です。」
「それで、あんたにも、そののろまなところを買っていただきたい、と思っていますのじゃ。のろまなだけに辛抱はいくらでもしますぞ。あんたが無理やり引きずり出すようなことさえなさらなきゃあ、めったなことで、自分からおんでるような、気のきいた女ではありませんのでな。そこは、あんたとちがって、豚のように無神経ですよ。」
「これはどうも……」
「いや、ほんとうじゃ。豚ではちとかわいそうなら、まあ山出しの女中と思っていただけば、まちがいありますまい。」
「何をおっしゃいます。」
「いや、山出しの女中と言えば、あいつにも一つだけ取柄がありますのじゃ。それは漬物がなかなか上手でしてな。あいつの漬けた糠味噌じゃと、お母さんにもきっとお気に召しますわい。」
運平老はすこぶる真面目である。俊亮は、むず痒ゆそうに頬をゆがめた。
「ところで――」
と、運平老は、急に思い出したように、うしろの茶棚にのせてあった一枚の葉書をとって、それを俊亮の方にさし出しながら、
「きのう、次郎君がわしにこんな葉書をくれましてな。字はあまり上手でもないようじゃが、書くことが気がきいとりますわい。これには大巻運平も一本参りましてな。」
「へえ――」
俊亮は、葉書を受取って、すぐそれに眼を走らせた。ペン書きである。恭一にもらった万年筆をつかったものらしい。慣れないせいか、字は、なるほど鉛筆書きの時ほどうまく書けていない。文句にはまずこうあった。
「お祖父さん。こないだは大へんお世話になりました。僕は、剣道を教えてくださるお祖父さんが出来て、うれしくてなりません。このつぎの日曜日も、きっと参りますから、また教えて下さい。」
俊亮は、そこまで読むと、葉書から眼をはなして、
「へえ――。もうこちらにお邪魔にあがったんですか。」
「この前の土曜に、お芳がつれて来ましてな。一晩泊って行きましたのじゃ。」
「それに、さっそく剣道の稽古までしていただいたんですね。」
「大いにやりましたよ。……じゃが、まあ、葉書を終りまで読んで貰いましょうか。」
俊亮は読みつづけた。
「しかし、お祖父さん、こんど教わる時には、もう「かあっ、かあっ」とかけ声を出すのはよしたいと思います。お祖父さんが出せとおっしゃっても出しません。それは、昨日から、そんなかけ声を出さなくってもいいようになったからです。こんどの日曜には、もっとほかのかけ声を教えてください。さよなら。」
俊亮はわけがわからなくて、何度も読みかえした。運平老は、ひとりでにこにこしながら、
「な、どうです。なかなか要領を得とりましょうが。」
「はあ――」
「もうそんなかけ声を出さなくてもよいようになった、という文句には、まさに千鈞の重みがありますわい。」
「はあ。――しかし、私には、何のことだか、ちっともわかりませんが――」
「いや、なあるほど。こりゃ、あんたには、ちとわかりかねますかな、はっはっはっ。」
と、運平老は膝をゆすった。それから、急に真面目な顔をして、
「実を言いますと、わしはお芳を正木さんにお預けしたあと、次郎君との仲がどうだろうかと、そればかりが気になっていましてな。で、お芳に手紙を出して、わしも助太刀をしてやるから一度次郎君をこちらにつれて来い、と申し附けましたのじゃ。ところが、来てみると、二人の仲は案じたほどわるくない。こりゃあお芳にしては上出来じゃ、と思いましたわい。」
「そのことは、私の方にも正木から報らしてもらっていましたので、内心喜んでいたところです。」
「もっとも、これはお芳ひとりではどうにもならんことじゃで、次郎君の心がけがよいからでもありますのじゃ。」
「いや、あいつ、まったく一筋縄では手におえん子供でして――」
「そう言えば、なるほどそういうところもありますな。じゃが、お芳との仲は、案外うまくいっとりますぞ。そこは、わしがちゃんと睨んでおきましたのじゃ。お芳ののろまも、こうなると、まんざら捨てたものではありませんな。はっはっはっ。」
俊亮は挨拶に困っている。
「ところで、わしがひとつ気になりましたのは、次郎君の口から、まだどうしても、母さんという言葉が出ないことでしたのじゃ。あんたは、それはまだ早過ぎる、とおっしゃるかも知れん。じゃが、こんなことは、はじめが大事でしてな。はじめに言いそびれると、あとでは、いよいよむずかしくなりますのじゃ。」
「ごもっともです。」
「それも、いっそ、そんなことが気にならなければ、何でもないようなものじゃが、なかなかそうは行きませんのでな。母さんと呼べないばかりに、さきざきちょっとした用事を言うにも、奥歯に物がはさまったような言葉づかいをしなけりゃならん。一生そんな気まずい思いをしちゃあ、ばかばかしい話ですよ。」
「ごもっとも。」
「そりゃあ、母でもないものを母と呼ばせようとするのが、そもそもの無理じゃで、そんな無理をしないですめば、それにこしたことはない。じゃが、必要があって無理をするからには、思いきりよくやる方がよいと思いますのじゃ。無理というやつは、外科手術のようなもので、用心しすぎると、かえってしくじりますのでな。」
「ごもっとも。」
俊亮は、ただ「ごもっとも」をくりかえしている。そのうちに、運平老は、次郎の葉書のことなど忘れてしまったかのように、家じゅうにひびきわたるような声で、ひとくさり「なさぬ仲論」を弁じ立てた。
それによると、なさぬ仲はあくまでもなさぬ仲で、自然の親子ではない。自然の親子でないものに、自然の親子と同じような気持になれと求めるのは、そもそも間違いである。そんな間違った要求をするから、何でもないことまでが、ややこしくなって、かえって二人の仲が他人より浅ましいものになる。それは、ごまかそうとしてもごまかせないものを、強いてごまかそうとして、人間が不純になるからである。何よりもいけないのは、この不純だ。人間が不純でさえなければ、なさぬ仲はなさぬ仲のままで楽しくなれないわけはない、というのである。
俊亮もこれにはまったく同感だった。しかし、それでは強いて「母さん」と呼ばせなくてもいいことになりはしないか、という気もして、運平老のそれに対する意見を、内心興味をもって待っていた。
運平老は、しかし、その点になると、論理の筋道を立てる代りに、相変らす外科手術の比喩を用いた。つまり、なさぬ仲は、人間と人間とを外科手術で縫いつけるようなものだから、縫いつけるに必要な手数だけはびくびくしないで、やっておかなけれはならぬ。子供に「母さん」と呼ばせるのも、その手数の一つで、それは世間体や何かのためではない。それが手おくれになると、疵がうまく癒着しない、というのである。
「世間体など、どうでもよいことですよ。外科手術の疵は、どうせかくれませんからな。ただ、わしは、その疵がどんなに大きい疵でも、よく癒着していさえすりゃよい、とそう思いますのじゃ。」
運平老は、そう言って正月以降考えぬいていたらしい「なさぬ仲論」をやっと終った。
俊亮は、次郎にとってこれはいいお祖父さんが出来たものだ、と思い、次郎の葉書に、意味はわからないが、何となく愉快な調子が出ているのも、なるほど、という気がした。そうして、もう一度葉書に眼をとおした。
「そこで、次郎君のその葉書じゃが――」
と、運平老も、やっと葉書のことを思い出したらしく、
「わしは、次郎君に、母さんと呼ぶのを、剣道で仕込んでみたいと思いつきましてな。」
「へえ? 剣道で?」
「そうです、剣道で。……こいつは、自分ながら妙案じゃと思いましたわい。」
運平老は、そう言って、ひとりで愉快そうに笑った。俊亮は、まるで狐にでもつままれたような顔をしている。
「次郎君なかなか元気者でしてな、竹刀を握らせると、もう夢中になって打込んでまいりましたわい。ところで、これははじめのうち誰でもそうじゃが、うまく懸声が出ない。出ても気合がかからない。そこをうまく利用しましてな、口を大きくあけてかあっ、かあっと怒鳴ると気合がかかる、と言ってやりましたのじゃ。」
「へえ――?」
「すると、次郎君、言われたとおりに、かあっ、かあっと叫んで打込んで来る。そのかあっという声がうまく出るたびに、わしが、わざとわしの面を打たせてやりますと、次郎君いよいよ調子づきましてな。」
「へえ――」
「次郎君は案外素直な子供ですぞ。」
俊亮は、眼をぱちくりさせた。
「素直じゃから、かあっと気合をかけさえすれば、面がとれると思いこんで、一所懸命に打込んでまいりますのじゃ。」
「なるほど。」
「それで、うんと汗をかきましてな、それからいっしょに風呂に入りましたのじゃ。すると、次郎君、風呂小屋の中でも、ときどき思い出しては両手をふりあげて打込みの真似をする。相変らずかあっ、かあっと気合をかけましてな。」
「へえ――」
「そこをすかさず、わしが、小声でさんとあとをつけましたのじゃ、そのたんびに。」
「なるほど。」
俊亮は、しかし、まだちっとも、なるほどだという顔をしていない。
「次郎君も、最初のうちはそれに気がつかないでいたようじゃが、何度もやっているうちに、けげんそうな眼をしてわしの顔を見ましてな。それから、しばらく突っ立って何か考えるようなふうでいましたが、急に、ああそうか、と言って恥ずかしそうに横を向きましたわい。」
「いや、なるほど。」と、俊亮は笑いながら、
「それで、風呂を出たあと、うまく母さんと言いましたか。」
「いいや、なかなか言いません。そりゃあ、そう急に言うわけがありませんわい。わしも、そんなに急に言わせるつもりもありませんでしてな。わしは、しかし、次郎君は剣道が好きじゃと見込みまして、それに望みをかけましたのじゃ。」
「はあ――」
「剣道が好きじゃとすると、またここに来て稽古がしてみたくなる。稽古がしてみたくなると、きっとかあっという懸声のことを思い出す。ついでに風呂小屋でのさんを思い出す。さあ、そうなると、剣道をよすか、思いきって母さんと言うか、二つに一つじゃが、そこは次郎君が自分で考えることになりますわい。それも、次郎君が、母さんと呼ぶのを心から嫌っておれば話になりませんがな。」
「なるほど。」
俊亮は、今度はいくぶん、なるほどという顔をした。
「ところで、どうです。この葉書は? わしもこんなに早く計画が図に当るとは思いませんでしたわい。はつはっはっ。」
運平老はいかにも愉快そうに、からだをそらして笑った。
俊亮は、しかし、笑わなかった。彼は、むしろ涙ぐんでいるようにさえ見えた。そして握っていた次郎の葉書に、じっと眼をおとしながら、いかにも感慨深そうに言った。
「次郎も、すると、まだ子供らしいところがいくらかはありますかね。」
「そりゃ、ありますとも。次郎君はやっぱり子供ですぞ。はっはっはっ。」
運平老はもう一度大きく笑った。
俊亮も微笑した。しかし彼は、鼻の奥に甘酸っぱいものを感じて、眼を伏せたままだった。
運平老は、それから、襖の向こうにいた夫人を呼んで、湯豆腐と酒とを用意させた。まだ夕食には早い時刻だったし、俊亮はそれを辞退して帰ろうとしたが、運平老が、息子の徹太郎ももう帰るころだから、ぜひ会っておいてくれと言うので、腰をおちつけることにした。
大巻夫人は、でっぷりと肥ったお婆さんだった。俊亮も、口をきくのは今日がはじめてだったが、無口なわりに人が好さそうで、いかにもお芳の母らしいにぶさがあった。運平老が陶然となって、
「お芳も、これでいよいよ落ちつくところがきまって、安心じゃな、婆さん。」と言うと、
「どうか末永くお頼みいたします、徹太郎の嫁をもらうにも、あれが居りましては、何かと工合が悪うございましてな。」
と、正直なところを言って、俊亮の前に丁寧に頭をさげた。その様子が、俊亮をほろりとさせた。
徹太郎が帰って来たのは、もう暗くなるころだった。彼は師範出の秀才で、附属の訓導をつとめて居り、一里ほどのところを自宅から通っている。今年ちょうど三十歳で、眼鼻立のいかついところが、運平老そっくりである。背も高い。俊亮との初対面の挨拶も、きびきびしていて気持がよかった。
「次郎君のことは、父からいろいろ聞いています。こないだは、あいにく学校の用件で出張していたものですから、お会い出来なくて残念でした。これから僕も出来るだけお相手をしてみたいと思っています。中学校の入学試験も、もう間もなくですが、それがすみましたら、ひとつ山登りにでもおつれしましょうかね。」
彼は俊亮に酒をすすめながら、しきりに次郎のことを話題にした。
俊亮もつい気持よく盃を重ねて、九時近くに大巻の家を辞した。彼は自転車で寒い風を切りながら、きょうの訪問が決して無駄ではなかったと思い、重荷をひとつおろしたような気がした。が、また、一方では、何ひとついい条件なしにお芳を迎えなければならない家庭の事情を思って、いよいよ気が重くなるのであった。