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倭女王卑弥呼考
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倭女王卑弥呼考
白鳥庫吉
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Chapter 2 of 6

2

本居氏が卑彌呼を以て熊襲に擬したるは更なり、その行路局部の解釋に於ても、余輩悉くは之に贊成すること能はざれども、女王の住地を九州に當てたる大體の論に至りては、實に敬服の外なく、蓋し當時に於ける卓見と稱すべし。本居氏の此論文によりて、當時の學者は殆ど女王卑彌呼を熊襲の類と見做すに一定せしが、さて『魏志』の不彌國より邪馬臺國に至る行路につきては、大體二説に分かれたるが如し。一は本居氏自身の唱へ出でたるが如く、不彌國より九州の東海岸に出で、これを南方に航行して、熊襲の國に至れりとなす説、又一は不彌國即ち太宰府の附近より筑後に下り、有明の内海を南方に航行して、熊襲に至れりとなす説即ち是なり。鶴峯戊申は其著『襲國僞僭考』に於いて、『魏志』上文の百里を不彌國より投馬國に至る里程と誤解して曰く

投馬は和名鈔筑後郡名上妻加牟豆萬、下妻ノ郡ハ准レ上、とある妻なるべし。兵部式諸國驛傳馬に、筑後國傳馬、御井上妻狩道各五疋とあり。此處より水行二十日にして、大隅國囎唹郡に至るべし。今上妻下妻の間に矢部川あり。即チ柳川の川上なり。此川を下りてまた内海に浮び南方に到るべし。

と。蓋し氏は九州西岸航行説を主唱せられしなり。又近藤芳樹氏は倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば、鶴峯氏の如くまた西岸航行説を執れる論者の一人なりしなり。菅政友氏は「漢籍倭人考」投馬國の條に

不彌國ヨリ南ニ向ヒテ進ミ行クコト二十日ノ後ニ、投馬國ニハイタルトノ義ナレバ、必ズ内海ニハアラズ、豐前豐後ノ東洋ヲ經テ、日向アタリ所レ謂投馬國ナラント覺シケレバ、本居翁ノ説オホカタハ違ハサルベシ。

と云ひ、又邪馬臺國の條に

水行十日陸行一月トイヘルニツキテ思フニ、兒湯郡アタリヨリ贈於郡ニ至ランニ、海陸トモニサバカリ多クノ月日ヲ經ベキニモアラネバ、本居翁ノ考ノ如ク、月ハ日ノ誤リニテ、此ハ船路ヨリ直チニ今ノ大隅國佐多岬ヲリテ鹿兒島灣ニ入リタルモノト覺シク、水行ハ十日ニテ陸行一日トアランニハ、サモコソト思ヒナサルヽナリ。

と説かれたれば、氏は本居氏の説を祖述せし東海航行論者なりしなり。修史局の編纂に係る『國史眼』には、『魏志』の行程を明瞭に記述せざれども、投馬の名を設馬の誤となし、之を薩摩に當てたるによりて之を推すに、不彌國より以下邪馬臺に至る行路は、九州の西海岸を經由せしものと考察せしなり。また史局の説を繼承して而も之を一層發達せしめたるものを『日韓古史斷』となす。同書筑紫の章に曰く

從來不彌以上はほゞ定説あり。其の設馬は今史局薩摩に擬す。其の邪馬臺はなほ異説多し、蓋熊襲の都噌唹城のみ。魏志の行程設馬に至るの路間、若干の陸行を脱し、其の水行二十日は筑後河の舟筏と、不知火の内浦航路にして、設馬は五萬餘戸、今の薩摩の全境にして、阿久根以南を云ふ。故に水行十月、陸行一月は既に隼人海峽黒迫門を踰え薩摩潟を渉り噌唹に着する者とす。然るに水行十日せば開聞の海角を迂囘するも、ほゞ櫻嶋の内灣に達し得べく、また別に陸行一月の長程を要せざるなり。因て疑ふ月は皆日のあやまれるにや。當に水行十日、陸行一日と爲すべきなり。又按ずるに、舟にて加世田港まで來り、陸に上り谿山に至り、一日にして又舟にて噌唹の大津に達せしにや。

と。那珂氏は菅氏の説に對しては

筑前博多ヨリ贈於郡ニ至ルニ、豐前豐後日向ノ東ニ沿ヒテ、佐多岬ヲリテハ、イカニ地理ニ暗キ古代トハ云ヘド、餘リノ迂ナレバ、信ゼラレズ。

と云ひて之を排斥し、又『古史斷』の説に對しては菅氏などの説に愈れるに似たりとのみ云ひて、明に自説を發表せられざりき。

以上述べ來れる所によりて知らるるが如く、本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致したるに、獨り三宅博士と星野博士とは時流と異れる見解を有せり。三宅氏は「漢委奴國王印考」(『史學雜誌』第三編第三七號)に於て

不彌(不詳)千餘家、投馬(備後備中ノ内ナルベシ)可四萬餘戸、邪馬臺(大和)可七萬餘戸。

と云はれたれば、博士は『魏志』の邪馬臺を五畿内の大和と見做し、卑彌呼を神功皇后に擬したるなり。果して然りとせば、博士は卑彌呼問題を『書紀』編纂時代の舊説に飜したるものと謂ふべし。又星野博士は『史學雜誌』に於て、神功紀に「轉至二山門縣一、則誅二土蜘蛛田油津媛一」とある山門縣、即ち筑後の山門ノ郡を以て邪馬臺國と考定せり。那珂氏が博士の説に對して

此ノ山門ノ郡ハ、筑前ナル國々ト相近クシテ、魏志ノ行程ニ合ハザルコトハ、近藤氏ノ山門ノ郷ヨリモ甚シ。博士ハ魏志ノ文ヲ引クニ、伊都ノ國ヨリ邪馬臺マデノ行程ヲバ略カレタレドモ、コレラノ行程ハ、國々ノ位置ヲ求ムルニ必要ナル者ナレバ、多少ノ誤謬ハ免レズトモ、全クハ棄ツベキ者ニアラズ。今其ノ略カレタル行程ヲ算スルニ、東南百里、東行百里、水行二十日、及十日、陸行一日ニシテ、少クトモ水陸三十餘日ハ費シタルニ、怡土郡ヨリイカニ迂シテモ、陸行四五日ニ過ギザル山門ノ郡ヲ以テ之ニ當ツルハ、地理甚違ヘリ。

と論難せられたるは尤も余輩の意を得たるものなり。

以上從來提出せられたる主要の諸説を列擧し盡したれば、此より卑見を開陳する順序となれり。余輩の考ふる所に據れば、卑彌呼問題をして此の如く解決に困難ならしめたる原因の一は『魏志』倭人傳に記されたる里數の標準が概して短少にして、支那國に行はれたる古今の尺度に合せざるに在るが如し。例へば帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。故に此間の三十五里は我が一里に當る。又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。故に此間の五十里は我が一里に當る。又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。大谷文學士の調査によれば(『東洋時報』第一二二號)、漢時代の一里は官尺にて我が三丁五十五間、後漢建武銅尺にて三丁五十一間に當り、唐時代の一里は小尺にて我が四丁四十二間、大尺にて四丁五十一間に當る。而して現時の一清里は我が五丁十七間なり。然るに『魏志』記す所に據れば、長里を取るも其の一里は我が一丁三十四間に過ぎざれば、漢魏時代の標準は『魏志』里の約二倍半に當る。然れば帶方郡より不彌國に至る一萬七百餘里とあるは、一見甚だ大數の如くなれども、其實我が二百九十餘里の短距離を言へるにて、之を魏時代の標準里に換算するときは、大約二千七百餘里に過ぎず。因て思ふに、『書紀』の編者をはじめとして松下等の學者が、邪馬臺國を大和と考定して怪まざりしは、畢竟『魏志』に一萬二千餘里とある里數の大なるに眩惑して、その示す實際の距離を考慮せざりしにも因るべし。『魏志』の示す所によりて之を推すときは、邪馬臺國は不彌國より一千三百餘里に當れば、女王國が大和にあらずして、九州の地域にあるべきは、亦論を待たず。然れども『魏志』に載する所里程の標準一定せず。今假に上の一千三百餘里を此書示す所の長里にて算すれば、大約我が五十七里となり、また短里にて算すれば、大約我が二十六里となる。此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。然し不彌國より邪馬臺に至る行程には日數を擧げたれば、此日數に據りて女王國の位置を探らんか。即ち不彌國より邪馬臺國に至るに水行三十日陸行一日總て三十一日を要せり。今假に魏の使者は一日七里の行程を以て前進したりとせんか、三十一日にして二百十七里を行くべし。不彌國即ち博多附近より南に於いて此里程に當る地點を求むれば、琉球諸島の中大島あたりに落つべし。然れども此くては實際に合はざることとなれば、日數を楯に取りて女王國の位置を正確に推測すること、亦不可能の事たり。

それ既に里數を以て之を測るも、又日數を以て之を稽ふるも、女王國の位置を的確に知ること能はずとせば、果して如何なる事實をか捉へて此問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通讀玩索し、而して後漸く爰に確乎動かすべからざる三箇の目標を認め得たり。然らば則ち所謂三箇の目標とは何ぞや。曰く邪馬臺國は不彌國より南方に位すること、曰く不彌國より女王國に至るには有明の内海を航行せしこと、曰く女王國の南に狗奴國と稱する大國の存在せしこと即ち是なり。さて此の中第一、第二の二點は『魏志』の文面を精讀して、忽ち了解せらるるのみならず、先輩已に之を説明したれば、姑く之を措かん。然れども第三點に至りては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにも拘らず、余輩が日本學會に於て之を述べたる時までは、何人も嘗てこゝに思ひ至らざりしが故に、又此點は本論起草の主眼なるが故に、余輩は狗奴國の所在を以て、此問題解決の端緒を開かんとす。

狗奴國に就きては、『外交繹史』に

菅氏云、大隅ヨリ南ニハ、種子屋久ナドイフサヽヤカナル島々ハアレド、共ニ攻撃スル程ノ國無ケレバ、此ノ狗奴國ハ、モト下ノ「女王國ノ東、渡レ海千餘里、復有レ國、皆倭種」トアル地ノ内ナルヲ、陳壽ガ、東ヲ南ト誤リタルナラン。サレバ後漢書ニハ、之ヲアハセテ「自二女王國一、東渡レ海千餘里、至二狗奴國一、雖二皆倭種一、而不レ屬二女王一」ト改メタリ。其ノ狗奴國ハ、馭戎慨言ニ「伊豫ノ國風早ノ郡に河野ノ郷あれば、それなどをいへるか、魏志に狗奴國の男王といへるも、すなはち此河野のわたりをうしはきゐたりしものをいふなるべし」トアリ。日韓古史斷ハ、更ニ進ミテ、狗奴ハ河野ニシテ、其官有二狗古智卑狗一ハ、河野氏ノ遠祖子致彦ヲ云フト云ヘリ。其ハ國造本紀ニ「小市(伊豫國越智郡)國造、輕島ノ豐明ノ朝ノ御世、物部ノ連ノ同祖大新河ノ命ノ孫子致ノ命ヲ定二賜國造ニ一。」氏族志神別越智氏ノ條ニ「大新河孫子致命、應神帝時爲國造、舊事本紀、云々、文武帝時、有越智玉興者、爲伊豫大領本書不言何郡、盖越智郡也玉興弟玉澄居河野、其後爲河野氏、云々。河野系圖、豫章記、越智氏累世居伊豫、支族蕃滋云々、而河野氏尤著河野系圖」トアルニ由リテ、ソノ子致ノ命ヲ子致彦トシテ、狗古智卑狗ニ附會シタルナリ。又國造本紀ニ「久努ノ(遠江ノ國山名ノ郡久努ノ郷)國造、筑紫ノ香椎ノ朝ノ代、以二物部ノ連ノ祖伊香色男ノ命ノ孫、印播ノ足尼一定二賜國造ニ一」トアルニ由リテ、「河野は初め久努に作る。久努ノ國ノ造は即越智氏同族にして、伊豫より出でたり。すべて越智の一族、東國に遷れる者、三河遠江伊豆駿河に蕃息し、三島を氏神として尊崇するは、伊豫なる大三島ノ神の氏子たる明證なり。」又「越智(小市)風早(風速)の二國造、應神の朝に定め賜へりと(國造本紀ニ)云へれども、是の時初めて入國せりと思ふべからず。從來早く土著したりしならん。越智は物部氏と同祖なれば、自ら別系なり。越智の祖伊香色男は、蓋孝元帝の時の人なり。其の子は大新河にして、又其の子は十千根なり。十千根は、垂仁帝の時、物部ノ連の尸を賜はりて、物部氏の祖となれり。されば孝元垂仁の間に、伊豫に越智氏の領國すでに定まれるなるべし」ト云ヘリ。又「男子爲レ王」ハ、下文ニ、男王卑彌弓呼トアルニ由リテ、日韓古史斷ハ、卑彌弓ヲ日子ト讀ミテ、「伊豫國造の皇別より出でゝ、當時來りて其の國を鎭めたまへるを謂ふに似たり。越智氏、武臣として、世々王子王孫を奉戴して、地方を綏撫せしものと思はる」ト云ヘリ。伊豫ノ國ノ造ハ、古事記ニ「神八井耳ノ命者、伊余ノ國ノ造等之祖也」、國造本紀ニ「伊余ノ國ノ造、志賀ノ高穴穗ノ朝ノ御世ニ、印幡ノ國ノ造ノ祖敷桁彦ノ命男速後上ノ命ヲ定二賜國造ニ一」トアル者ニテ、古史斷ニハ、栗田寛氏ノ考ヲ引キテ「この國造は、成務帝ノ時に定まれるにあらず、早く崇神帝の朝に賜はりしならん」ト云ヘリ。此等ノ説、イト巧ニハ辨ゼラレタレドモ、想像ニ成レル事多クテ、確證少ケレバ、慥ナル事ハ知リ難シ。

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