十
おくみはお安さんからはがきが来た翌々日、青木さんにさう言つて、少し早午を戴いて、坊ちやんを伴れて一寸店へやらせて貰つた。
別にこれといふ用事があるのでもないけれど、一度行かないと何だか変なやうな気がするからであつた。行けばもう一つの行李から出して来たいものもあつた。
「まあ、すつかりハイカラにおなりなすつたわね。家では毎日お噂をしてたんですよ。――おかみさんは今一寸お湯。もう直き帰つて入らつしやるでせうよ。」
お安さんはもう一人の女中さんと二人でぐるりの腰板を拭いてゐるところであつた。
「こなひだから一寸上りたいと思つても、一人ですから容易に出られないんでせう。――どうぞ序でに片づけて下さいな。」
「もう済んだんです。綺麗になつたでせう。さつからそこいらの抽斗の金具からすつかり磨いちやつたところ。」
坊ちやんは喉が乾いてか、水が飲みたいと仰る。
「ぢや待つてらつしやいましよ。――帽子の紐が取れたんでございますか。――お姐ちやんが附けて上げますつて。どうもすみません。」
おくみはかう言ひながら、コップを持つて奥へ白い砂糖を取りに上つた。
「何ですか、家でもよく水を召上るんですよ。習慣になつて入らつしやるから別にどうもないやうですけれど。」
おくみはお安さんと話しながら、テイブルの上の水の水を小さいコップへ半分注いだ。
「もう途中に氷店が一寸/\出て居りますね。」
「えゝ/\もう疾つからでございますよ。」と、もう一人の女中さんは鏡の前で汚れた手を洗つた。
おくみは椅子の肩をハンケチで軽く押へながら、お安さんとあちらの容子なぞを話したりしてゐた。
その内におかみさんが石鹸入れを手拭に包んで、下のお子さんをつれてお湯から帰つて入らつした。
「おや、久男さんは靴を履いて入らつしたの? そしていゝ提げ袋をかけて。――さうですか? お姐ちやんに編んで戴いたんですか?」
坊ちやんはおかみさんには馴れてゐられるので、坊ちやん相応の色んな事を機嫌よくお話しになる。
「さ、お姐ちやんはこちらへお上んなさいよ。今日は夕方まで悠つくり遊んで行つてもいゝんでせう?」
お安さんはそこらの事をしながら坊ちやんとお家の三郎さんとの相手になつてくれてゐる。おかみさんは、その後の事を聞いて下さつた。
「もう、あのモデルの方をお使ひになつた画は二枚ともお仕上げになつたやうでございます。女の人は一昨日からもう入らつしやいません。」
青木さんのお仕事の話に移つたとき、おくみはかう言つた。
「こなひだ一人、この裏の方にゐる四十くらゐの行きもどりの女で、さういふところへなら早速行きたいと言ふのがあつたのよ。」と、おかみさんは鬢を直した鏡台を片づけて、手拭を外の掛竿へかけて来られた。
「裏の家主さんでさう言つて下すつたんだけど、お安が言ふんでは、よくそこいらへ出てべちや/\下らない事を喋つたりしてゐるといふから、そんな女では困ると思つてね。――探す段になると一寸ないものよ。滅多なものはお世話は出来ないしね。その前にも私は一軒心当りのところへ行つて見たんだけど。」
「おかみさん、私にならどうぞ何にもお構ひなさらないで下さいまし。只今御飯を戴いてまゐつたばかりでございますから。」
「拙らないものがあるのよ。一寸鉄瓶のお湯を見て頂戴。懐中汁粉を他家から貰つたから。――坊ちやんには何を上げようね。」
おかみさんはどうかして早く代りの人が出来ればと言つて気にして下すつた。
「私は人さまの事だから、くみちやんにはまだ何にも言はなかつたけれど、婆やから何か青木さんの奥さんの事を聞いて?」
おかみさんはやがて、話の続きからかう言はれた。
「いゝえ、別に何にも……たゞ、いつも坊ちやんの事を大変気にして入らつしやるといふ事だけ婆やさんから一寸聞きました。」
おくみはかう言つて、婆やがこなひだ奥さんに会ひに行つた事や、着物を二枚托づかつて来た事なぞは、口止めをされてゐるので少く黙つてゐたが、何だかそれではおかみさんの前を偽つてゐるやうで変であつた。
「婆やさんは、奥さんの事は何でも青木さんには隠してゐるやうでございますね。」と、半ばはその言訳のやうにおくみは言つた。
「あの婆やもよくないのよ。一寸/\青木さんに内証で奥さんに会ひに行くんださうだからね。だから青木さんは、一方から言へば、あの婆やが行つて了つたのを却つて喜んで入らつしやるのよ。――少し詳しい訳を話さないと解らないけどね。」
おかみさんはかう言つて、長火鉢に炭をお継ぎになる。
「それはだれよりも青木さんが一番お気の毒なのよ。」
やがて三郎さんが、店で遊ぶにも飽きたやうに、浮かない顔をしてこちらへ上つて来られた。坊ちやんも来たさうにして覗かれた。
「もう三時を少し過ぎましてございますね。私はそろ/\おいとまをいたしませう。あき子さんは今日はまだ学校からお帰りにならないのでございますか。――坊ちやん、待つて入らつしやいましよ。もう直帰りますからね。」
おくみはそれから尚三十分ばかり青木さんの方のいろんなお話しを聞いた後、そこ/\においとまをした。
電車は両方で四十分と見れば沢山だから、もう少し遊んで行つたらと言つて止めて下さつたけれど、電車を下りてから、坊ちやんがよちよちお歩きになるのにも手間取るし、ほつといて来たお家の事も気になつた。来がけには少し坊ちやんを負つて上げたけれど、随分重くつて困つた。
「それぢや左様なら。何だか飽気ないやうね。今度は朝から入らつしやいよ。青木さんには少しくらゐ留守をして戴いたつていゝわ。お午の代りにお蕎麦でもさう言つといて出て来れば。」
おかみさんは出口まで送つて来てかう言はれた。お安さんには、不断の浴衣の縫ひ直しを一枚仕立てて小包で送つて上げる約束をして、戸棚の中の自分の行李から出した悪い帯の表と一緒に風呂敷に包んで抱へた。
「今度は私面白い手紙を上げますから返事を下さいな。」と濃く白粉をつけたお安さんは、なすび歯を見せて笑ひながら外に立つてゐた。
おくみはそれから少し歩いて賑やかな通りへ出て、勝手で使ふ胡椒や、自分の白粉下のクリームや、針や絹糸なぞの買物をして、序に一寸先まで行つて乗換へのない電車に乗つた。
坊ちやんには白い糸のついた風船玉が持たせてあつた。おかみさんのところで戴いたお菓子の包はおくみが預つてゐた。
そこから終点まではかなりある。おくみは、まだ何をか買ひ落したやうな気がするのを考へ出さうとするやうな心持をして、向う側の窓の外などを見てゐた。
山の手線の駅で電車を待つてゐるとき、おくみには、さつきはじめておかみさんから聞いた青木さんのお家の事情が、自分の事のやうにうら寂しく心に繰り返されてゐた。