コンミッション排斥
書生上がりのパン屋というので当時は多少珍しかったものか、婦女通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、書生パン屋と題して大いに社会に紹介された。
この記事が出ると、今まで知らずにいた人も『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
そんな関係からだんだん学生さんに馴染が出来て、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋へ註文があり、私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。
ある日その一高の学生さんが見えて、一人五銭ずつ八百人分の註文があった。ところがその後へ小使いが来て『今日寄宿舎に入る四十円の一割を小使部屋へ渡してもらいたい、八人で分ける』という。私は、学生さんから直接の註文であること、また学生さんのことなのですでに特別の勉強をしてあることを話し、小使いの要求に応じる筋はないと言って断った。
すると彼は意外な面持で『他の店ではどこでも一割出す習慣になっている、それをこの店だけが出さぬとあれば、容器などはどんな扱いをするか保証出来ないが』そこで私は『それも宜かろう、君らは学校から俸給を貰っていて学生の世話が出来ないというのであれば、君らの希望通り、明日から学生の世話をしなくともよいように取り計って上げよう』早速学校の当局に出向いていまの言葉をそのままに話して来ようと強硬な態度を見せたところ、その小使いは驚いて逃げて帰った。あらたまって飛んで来たのが小使頭で、彼は前の小使いの失言を詫び入り、どうぞ内聞に願いたいと頼むのであった。私も気の毒になって、それではと菓子一袋ずつを与えて帰した。昔の一高の小使いなどというものは、出入り商人に対してこの通り威張ってコンミッションを取ったもので、今日から見ればまさに隔世の感がある。
コンミッションの問題はほかにもあった。中村屋も最初のうちは卸売りをした。本郷から麹町隼町、青山六丁目辺りまで、毎日小僧が卸しにまわる。そのうち大手町の印刷局へ新たに納入することになったので、その届け役を私が引き受けた。雨の日雪の朝、一日も欠かさず、本郷から神田を通って丸の内まで、前垂掛けで大きな箱車を曳いて、毎朝九時には印刷局の門をくぐった。
それが約一年ほどつづいたが、もうその頃かつての早稲田の学友の中には、官吏の肩書を聳やかしているものもあり、その他の知人間でも私のことはだいぶ問題になって『奴も物好きな奴さ』と嘲笑して終るのもあれば、『何だ貴様は小僧のようなことをして、我々卒業生の面汚しじゃないか』などと、途中出会って面詰するのもある。むろん私としては、別にきまりがわるいとも辛いとも思うことではなく、むしろ友人には解らぬ快味があったのである。
とにかくそうして私は印刷局通いをしたが、その最初の日のことであった。『オイオイ、出門の空車は必ず我々の検査を受ける規則になっている、無断の通行はならんよ』そう言って私を呼び止めた門番氏は、次には声をやわらげて愛想笑いさえ見せて『どうだね、中村屋は有名だから、職工らも今日から良いパンを食べられて喜ぶだろうな。ところで君の店には鷲印ミルクはあるかネ、明朝一ダースだけ頼む、家内がお産をして乳不足で困っているから、忘れずに』
私は門番氏の月給はいくらか知らなかったが、鷲印ミルクとはちょっと解し難いことであった。当時鷲印ミルクは舶来の最上品であって一個三十銭(今日の一円二十銭見当)の高価で、なかなか贅沢品と見られていたものである。
翌朝、私は試みに一缶だけ持参すると、彼はすこぶる不興気に声をあららげて『君、一ダースの註文だよ、たった一缶とは不都合じゃないか』私もそこで当意即妙に、『私は毎日来るのだから、新しいの新しいのと届ける方がよいでしょう。ところで代価ですが、私の方は現金主義ですから三十銭頂戴しましょう』
彼は代価は明日残り十一個分と引換えに渡す、という。私は前の代金を払われぬうちは残りを持参せぬというわけで、次の日から毎日この三十銭を請求した。彼が別の門に出ている日はわざわざそこまで請求に出かけて行った。何でも一月あまり請求しつづけたと思う。これが他の門番はもちろんのこと、その他の間にも評判となって、さすがの彼も兜をぬいで渋々三十銭を払い、『あとはもう要らないよ』と悲鳴をあげたことであった。それ以来他の門番衆も私にだけは決して註文しなかった。彼らは、新しく出入りする商人に対してはきまって何かしら註文し、代を支払った例がない。彼らはこれを役得としているのであった。つい弱気な商人たちはそれと知りつつも煩さいので求められるままに持参し、十人ほどの者から三、四円ずつの損害を蒙らぬものはなかったそうである。もちろん私はそういうことは後で聞いて知ったのだが、どこに行っても万事この通り、私は決して彼らの不正には屈しなかった。
その私の曳いて行く箱車には、もと陸軍御用の文字が入っていた。それは先の中村萬一さんが陸軍に食パンを納めていたからで、御用という字が一種の誇りにもなったのであろう。私は譲り受けるとすぐこの御用の字を塗りつぶしてしまった。私は御用商人が嫌いであった。明治維新以来、政府と御用商人との切っても切れない因縁は、いまさらここに事新しくいうまでもない。今日天下の富豪となり授爵等の恩命に浴した人々も、その源に遡れば多くはこの御用商人として政府の御用を達し、同時に特別の恩寵に浴して今日の大を成したものが多いのである。私は御用商人必ずしも非難すべきものとは言わない。そこには奉公の精神をもって立派にその務めを果たしたものもあろう。しかしとにもかくにも御用商人と特別の恩寵とはつきものであって、御用商人がその恩寵に対して、一種の卑屈と追従に陥るのもまた免れ難いことであると思う。それゆえ私は大きくとも小さくとも御用商になることが嫌いだ。兵営の酒保に堅パンを納入したパン店が、時々当番の下士の小遣いを調達させられたことも耳にしたし、その他大会社に品物を納めるとては、なおいっそうの奉仕を強要されたことも聞いている。一高の小使いの上前取りもそれだし、印刷局の門番の鷲印ミルクもその例に洩れないのである。私はそれらのところへパンを納入しても、あるいは大量註文を受けても、御用商人的な考えは少しも持っていないのであったから、彼の無法な要求には断然従わなかった。またたとえそういうことで得意を失うとしても未練はないと考えていた。爾来我が中村屋は三十余年を通じて、一回たりともコンミッションに悩まされたことはない。すなわち御機嫌取りを必要とする向きにはいっさい眼をくれなかったのである。同時にまた、これが我が中村屋の急速に大を成さなかった所以でもあると考えている。
この問題について人のことながら思わず会心の笑みを洩らしたことがある。ついでに記すが、今から数年前のこと、中村屋を出て大阪に行き、菓子の卸売りをしている者があって、例年の如く東京に見学に来て、昔を忘れず私の所へ寄ってくれた。私は彼が卸売りをしているというので、『大商店や百貨店等に品物を入れるには相当のコンミッションが必要だというがどうだ』と尋ねて見た。すると彼はいささか面目なげにうつむいていたが『旦那様に虚言を申すわけには参りませんからありのままをお話し致しますが、実際上一割ぐらいのコンミッションは、今のところ一般に必要と致します。私も中村屋に居りまして、御主人からあくまで良品を製造して正直な商売をせよと御教訓にあずかっておきながら、これではまことに申し訳ないと存じますが、どうも商売が出来ませんのでやむを得ず眼をつむって習慣に従うて居ります。しかし小林一三さんの阪急百貨店は、一銭のコンミッションも要りません。年末にごく軽少なものを仕入部主任に持参しましてたいへん叱られたことがあります。それで私の方もここだけには正味ですから確かな品を納めることが出来まして、とても愉快に感じて居ります』
私はこの話を聞いて、阪急百貨店の将来を大いに頼母しく思い、仕入部その他多数の使用人に対して、断然袖の下を謝絶させるだけの力のある小林さんは、当代ちょっと他に類なき人物であると考え、それ以来ひそかに畏敬していたことであった。果たせるかな、今日の氏の活躍はあの通りである。
私のところは小林さんなどには比すべくもない小人数だが、それでさえ全くコンミッションの弊風を絶滅するには、かなり長年月の苦心を要した。世間がそんなふうであるから、私のところでも仕入部主任という地位はじつに危ない。他の係では無事に勤められたものが、ここに昇進して来るとたちまちにして過失をする。今はようやく理想的になったが、ここに至るまでに幾人かの犠牲者を出したことは、私にとってもじつに悲しい思い出である。