5
次男の修二は、夙くから実業に志し、これは万事好都合に運んで、今は神戸の街にかなりの店を開いてそこの主人として相当に活動している。こんな訳で今更ら、こんな所へ来てこんな家の相続をするなどは思いも寄らぬ事であった。その次ぎがこの庸介であるが、この問題はそこまで行く前に律子の上に向けられた。彼女は豊夫が、家出をする一年前に持った唯一の子供であったので、それに養子婿をさせて……という事に親族会議でほぼ定められてあるのであった。
「養子と云ったところで、立派な教育のしてある者は、なかなか、手離そうという親もなし、それに本人にしても、そんな事はあまり望むものでもなしさ。……それだから、性質の良さそうなものを今のうち貰い受けて、こっちの手で教育しようかと思うているのだよ。……この隣り村に一人気に入った子供があるのだが、両親が承知してくれれば良いがと思うているのだ。」こんなふうに云い出すのであった。
「やはり医者がよかろうと思うのだ。とにかく、こうしてこれまでやって来たのだし、このままあとを絶やすのも惜しいと思ってね。それに、そうなれば私もいっしょにやる人ができてどんなに好都合だか知れやしないしね。」
「は。」
「あの子も、来年はもう十三歳になるんだ。あと二年で女学校へ入るだろうし、それから四年するともう卒業するのだ。月日の経つのはほんとに早いものさ。そういうている内についそんな時がやって来るのだ。」
「は。」
庸介は、父の考え方と自分の考とがひどく違っていることを思うた。ある時、彼は、
「養子なんてことは、大体があまり結構なものではありませんね。」こんな事を云った。
こんな話しの出る席には、彼の母も加っているのが常であった。庸介のこの言葉は彼の母の心をぎゅっと荒らく掴んだ。彼女はすぐに、
「なぜだい。しかし、やむを得ない時にはね。」と云わないではいられなかった。
続いて父が問うた。
「ほかに何か名案でもあるというのかい。」
「しかし、そんな不自然な事をしたって、結局、いたずらに複雑と面倒臭さとが殖えるばかりじゃありませんか。」庸介は何の気もなくこんなふうに答えるのであった。
「と云って、この先、それではこの家はどうなって行くのだい。」父が重ねて問うた。
「その時には、またその時にする事があるでしょう。」
「と、いうと?」
「さあ。」
黙って考に沈んでいた母が、この時、悲しそうな顔をして、
「つまり、お前のような事を云えば、この屋敷はしまいには畑になって行ってもかまわないと云うようなものではないかね。」と云った。
「そうかも知れませんね。……しかし、どんな事があろうとも、あなた方の生きておいでの間はそんな事をしない方がいいでしょう。」
「馬鹿な! 誰がそんな事をするものか。」父は云った。
「何だか、わたし、いやだね。」母が云った。
「庸介の云うようでは、まるで無責任きわまった話しだ。まったくさ。先祖代々の屋敷を畑にして良い位なら、何で私達がこれまでこんな苦労をして来たであろう。」たまりかねたようにして父が云った。
「しかし、私共がまたどこかで新らしい先祖となって行ったら、それで同じことではありませんか。――私などの考ではこういう事はできるだけ自由な、どうでもいいような気持ちでいられるのが一番幸福だと思うんですがね。」
「あゝ、厭だ。もう、そんな話しは止しにしよう。……そんな事を考えるとほんとに心細くなってしようがないから。……だから妾はいつもそう思っているんですよ。どうかして妾は誰よりも先きに死んでゆけばいいとね。……あとに一人ぼっちで残されたりしたら妾、ほんとにどうしよう。……」
母が、こう云い出したので庸介は、自分が今何を云っているかという事に初めて気が附いた。「何という事だ。俺は実に何という馬鹿者なのだ。何の益にもならない、下らない事をしゃべり散らして、それがために父や母はどんなにか心を傷めておいでの事だか……」こう思うて急に口を噤んだ。自分の無分別がたまらなく口惜しかった。で、彼は、まるでお詫びでも申上げるように、
「お母さん、これはみんな、いつもの私の出鱈目なんですよ……馬鹿な、そんな事を云い出しっこはなしにしましょう。ね、みんなじょうだんなんですよ。……それに私のような者が何を云ったって、どうなるもんでもありゃしないじゃありませんか。」と云った。
何もかもこの一言で、今まで云った事をすっかり烟にして掻き消したいものだと願った。
八
太陽が地平線へ沈んだあとのしばしが間の野のながめ、その美しさ、その静けさはまた何に譬えよう。……畑中の並木が紫に烟り、昼間は藍色に見えていた遠くの山々が、今は夕栄えの光りを受けてほとんど淡紅色と云い得るまでに淡く薄い色になってゆく。まるで(色づけられた気体)と云ったように……あたり一面に低く白い雲が下りて来る。野の末は次第に空と溶け合い、そしてそこからやがて静かな重い夜が迫って来る。するとそれを待ちかねていたかのように村々の寺からつき出す鐘の音が、一時に長く鳴り出す。平安の夕べを讃美するように、またこの平安の耕原を祝福するかのように、あとを曳いて遠く物静かに響きわたる。……
「俺は、もう何にも云うまい。」こう、庸介は心に深くきめた。
「俺が、彼等に何をしてやる事ができるのだ、彼等は俺に何も望んでいるのではない。そしてまた、自分から云ってみても、彼等をみだりに乱したりする必要が何であろう。……飛ぶ鳥をして飛ぶ鳥の歌を唄わしめるがいい、野の草をして野の花を咲かしめるがいいのだ。何者がそれを妨げたり、それに手入を加えたりする事がいろう。……俺が今、どのような思想を持ち、どのような人生観を抱いていたからと云って、それはみんな俺一人のことだ。むろん、俺はそれを何者からも自由にさして置いて貰いたい。その代り、俺もまた、俺の思想、人生観のために他人をとやこうしようとはしまい。通じ合い、融け合うものなら、おのずからにして通じ、おのずからにして融け合うであろう。我々はそれを待つほかないのだ。そうだ。自分が偉大になり、自分が成就するのゆえをもって他を騒がし、他をそこねたくはないものだ。――例えば善悪のような場合にしても、悪を滅さなければ善がなり立たないように考えるのは誤ではあるまいか。善の生長、善の存立のために強ちに悪を圧し、悪と戦わねばならぬような善なら、そんな善なら俺は賛成できない。……泥海の底で、真珠が自分の光を放っていたってそれでもいい訳ではないか。」こう思うのであった。
その日は、初秋の風が朝から家のぐるりをさらさらと廻っていた。家の前の大きな竹林が、ちょうど、寄せてはかえす海の波のような音を立ててざわめいていた。何となく遠い事がそこはかとなく忍び出されるような夜であった。この六年の間、いろいろに結びつき、また離れ合った彼、彼女、彼等、彼女等――都恋しい思いがたまらなく彼の胸に迫って来るのであった。
彼は押入れの戸をあけて、一本の葡萄酒の瓶をとり出した。そして、それを台のついた小さなグラスに汲んでちびりちびりとやり初めた。酔が快く廻って行った。
母屋の方はもうすっかり燈火が消えて、家の人達は誰もかも深い睡りに入っていた。屋外には冷やかな夜が、空にきらめく数限りもない星々を静かにはぐくんでいた。
「何という淋しい酔であろう。」
と、彼は口に出して自分自身に云った。しかし、何故かもっと深く酔って行ってみたかった。そこで、彼は再び立ち上って戸棚の中から、今度はウイスキーの四角な瓶をとり出して来た。肴は? と思ったが何もあるはずがないので、机の上に置いてあった干葡萄の皿を引きよせて、それを摘んでぽつりぽつりやり出した。
おいおいに目がちらついて来た。ランプの光線の赤いのが、たちまちにいっそう際立って来たように感じた。障子の桟が不規則に幽かに揺ぎ出した。これ等はすべて彼には愉快であった。……と彼の目の前に女の顔が一つぷいと浮び出して来た。「房子だ。」と思う、とすぐにまたぷいと消えて行った。と思うとまた現われて来た。「おや、お志保だ。」かと思う間に今度はそれが母の顔に変った。そんな事を幾度か繰り返した。と、最後に現れたお志保の顔が、彼の目をじーっと視詰めてにっこり笑った。それを見ると、庸介もおもわず同じようににっこりとした。そして、
「十七だというが、年の割には大人だ。――いや、あれはまだ子供だ。おそらくは何にも知っていはしない。」こんな事を囁いた。
目をつぶって、もう一度お志保の顔を求めた。が、どうしてもそれはもはや見られなかった。グラスを取り上げて一杯のみほして、びりびりする唇をぷーっと吹いた。
「否、俺は遠からず上京するであろう。そしてそれっきり、再びこの土地へは帰って来ないかも知れない。そうだとも、俺は遠からずこの地を出発とう。数週ののち、しからざれば数カ月の後、……そして今度こそは本当に勇敢に餓死と戦うのだ。……万物はみんなそうしているのだ。」かう云って、また盃を重ねて行った。……
夜のしらしらと明ける頃になって、ふと目を覚ました彼は蒲団ものべずに着物を着たままそこに酔いつぶれていた自分を見出した。ウイスキーの瓶が空になって転がっていた。机の上には、点けっぱなしにされていたランプが疲れ果てた、ぼやけた光をあたりに投げていた。酔は気持ちよく醒めかけていた。彼はあたりを取片附けて改めて床の中へ入った。
と、つい先刻見た一つの夢が朧ろげに彼の頭に思い出されて来るのであった。
……はじめ、お志保がそこに坐っていた、何か自分に訴える事でもあるような、憂わしげな顔付をしていた。と、庸介の母がそこへやって来て、何か厳しく彼女を責め初めた。その調子は非常に熱してはいるが、ひどくあたりを憚っているような所が認められた。母の口から時折彼の名前が呼ばれた……やがて、どうしたのか急にお志保はしくしくと泣き出した。と、それに続いて庸介の母も声を出して泣き伏した……
その朝は、庸介はいつもと同じ時刻に起き出で、いつもと同じように家の人達といっしょに朝の食事をした。
九
川原地に繁っている尾花に穂が出た。それを遠くから眺めると、秋の白い光を受けてそれが雲母のように光った。銀色に、淡紅色に、薄紫色にいろいろになって波うった。
十月のある晴れた朝、庸介は、すぐ家の前に近く見えているG山へ登ろうと思って家を出た。二里とは離れていなかった。それは、国境の山々がちょうどもう終ろうとして平原の中へ岬のように突き出している小山脈の一峰で、高さは云うほどの事もなかった。それに頂上まで大幅の立派な道がついていた。松や杉の林に富んだ、美しい愛らしい小山であった。その麓には温泉場などもあり、この地方の農民が春や秋の休み日に、よく三々五々打連れて蕨や栗を採りに登る山であった。
彼はただ何という事もなしに、高い処から遠く眺めてみたいというような願から、ふと思いたったのであった。前の△△川を舟で渡って向う岸につくと、堤防に添うて一つの郡道へと出た。それはそこからかのG山の麓を目がけてそこへ一直線に導いてゆくような道であった。道の右、左には田や畑が限りもなく続いていた。穀物はすでに熟りきって、今にも刈り取られるのを待っているように見えた。田では早稲は刈り終られ、今や中手の刈り入れで百姓は忙しそうに見えた。田の中で鎌の刃を白くきらきらと光らしている人、刈り取られた稲を乾すために畔の並木に懸けている人、それを運ぶ人――年寄も、若者も、女も子供もみんな一生懸命になって、まるで駈け歩くようにして働いている。一方には大豆、黍などが収穫されつつあった。畑の中に長々と両足を投げ出して一休みしている人々もあった。太い煙管ですぱすぱ烟をふいている人などもあった。そうかと思うと、二町ほども距った所から、まるで風のような荒い声で、何か面白そうにその老爺に話しかけている者などもあった。空には赤とんぼの群がちらちら飛んでいた。農夫等の仕事は、彼にはいかにも楽しそうに見られた。そこには適度の暖かさを持った日光と、爽やかな清新な外気とがある。健康な肉体がその中で、その右、左、前、後へと、いとも安々と動いている。いかにも滑らかに。何の滞りもなく。――それは決して労働と呼ぶ事ができないように思われた。と云うよりは、むしろそれは慰みであり、一種の遊び事ででもあるかのようにさえ見做されたのである。