凡例
一本書の題号に就ては、茲に一言せざる可からず。「比較神話学」の文字は、聊か語弊あり、稍もすれば、既に廃れたる、旧時の或一派の学説を、聯想せしむの嫌なきに非ず。何れの人文科学に於ても、比較研究の必要なきは、殆んど之なきも、其の必要を感ずることの大なる、神話学の如きは罕なり。十八世紀以前の神話学は、云うに足らず。十九世紀に於て、一個の科学としての神話学の起りしは、起りしは比較研究の賜なり。不幸にして、当時の学者は、多くは其の眼界狭少にして、屡ば誤謬の学説を立てたり。シュワルツ、クーンよりマックス、ミュラーに至る系統をば、神話学史上にて、之を「比較神話学」と云う。故に「比較神話学」と云うときは、彼等の誤れる天然神話説もしくは、後者の言語学的神話学説を聯想せしむること多し。此等の学説の根本的誤謬は、既に十分に証明せられたり。されば、ラングの如きは、世人の誤解を避けんが為めに、自己の学説を名づけて「人類学的神話学」といい、その著作の新しき者に題して、「近世神話学」と云えり。然れども、「比較神話学」の名称の好ましからざるは、決して其名称其ものの、宜しからざるに非ず。未だ神話学に関する一個の著書をも有せざる、明治の学界に於ては、此名称は必しも之を避くるを要せざる可し。著者は敢て、新しき意義に於て、この正しき名称を復活せしめんと欲す。これ著者が、ラングに倣わずして、此書に題して「比較神話学」とせし所以なり。一、「太陽神話」の名目も亦た、印度日耳曼神話以外に出ずる能わざりし、かの一派の神話学者の立てし者にして、其学説の誤まれる基礎の上に立ちしによりて、かの名目もまた、従て濫用せられたり。神話学史上「太陽神話説」と云うときは、直ちに言語学派の誤れる学説を連想せしむ。印度日耳曼神話学界に於ける、此学説の誤謬は、既に十分に証明せられたり。然れども、学説の誤謬は、必しも名称其ものの正しからざるを、意味するものに非ず。著者は印度日耳曼神話以外に於て、「太陽神話」と名づく可き、数個の神話を発見せしが故に、敢てかの名目を復活せしめ、新しき研究によりて、其必しも排斥す可きに非ざることを証明せんと欲す。これ本書に於て、殊に「太陽神話」の一節を置きし所以なり。一、本書の体裁に就て、尚一言す可きことあり。本書の目的は、神話学の一般概念と、此学に関する一般の智識とを与えんことを、欲するに在り。此の如き目的は、理論の叙説によりて、達せらるること、甚だ少くして、実例の説明によりて達せらるる場合却て多し。特に、神話学に関する著述に於て、然りとす。本書が第一章総説の部に於て、全紙面の三の一を費したるは、決して著者の本意には非ず。唯、事情止むを得ずして、茲に至りしのみ。未だ神話学に関する一個の著述をも有せざる明治の学界に於て、神話学に就て、一般の智識を与えんと欲す、先ず、神話学とは、如何なる学なるやを、説かざる可からず。其由来と起源とに関して、其歴史の大体に関して、云う所なかる可からず。近世の神話学の勃興以来、日尚浅くして、神話学の学説に関する学者の意見、区々として、未だ一定すること能わず。此の如き状態の下に、本書を公にす、勢い、従来の学説の変遷を叙し、最近のそれに及び、諸説の長短優劣を批較評隲して、将来の方針を示し、以て著者の立脚地を明かにせざる可からず。之が為めに、多大の紙面を費せしは誠に止むを得ざりしに出ず。一、学説の叙述評隲は、稍もすれば、読者をして厭嫌せしむ。著者は成る可く、此弊を避けんが為めに、個々の条下に、多くの実例を挙げ、学説の叙述と実例の説明と、互に相交替して、単調の弊に陥らざらんことを勉め、成る可く具躰的の智識を与えんことを勉めたり。第一章最後の一節に於ても亦た、同一の方針に従い、方法の叙述に次ぎて、神話の分類名目を掲げ、多く実例によりて、之を説明したり。一、第二章以下の五章に於ては、比較神話学上の重なる問題にして、必ず日本神話に関係ある者を撰択して之を論じたり。これ決して、著者の好む所に偏せしに非ずして、比較神話上の重大問題の多くは、日本神話に関係を有するによるなり。此の如くして、一般神話学の智識を与うると同時に、日本神話に関しても亦た、多く有益なる智識を与えんと欲せしなり。同一の問題に関して、多くの例証を挙ぐる場合に於て、外国の神話よりの例証の簡にして、日本神話よりのそれの、比較的に精なるも、著者の微意の存する所なり。一、比較神話学上の或問題を論ずるに際して、個々の神話もしくは説話の内容を示さんが為めには、多くの源泉中よりその記事を引用せざる可からず。之が為めに、多くの紙面を費すは、紙数限有ある本書の如きに向ては、決して適当なることには非ず。然れども、これまた実に止むを得ざるなり。欧羅巴の神話学者は、例えば希臘の神話を、論ずるに当りて、個々の神話の大体に関して、読者の智識を予想するを得可く、独逸に於て、日耳曼説話を論ずる者も亦た等しく、其対象たる個々の神話に関して、同じことを予想するを得可し。唯、現今の日本に於ては、事情全く之と異るものあり。普通教育の十数年は、外国の事物に関して、多くの智識を与うることを知るも、祖国の神話に関しては、殆んど何等の智識をも、与うること能わず。読書界の趣味甚だ多面的ならず、神話学に関して、未だ一個の著書なき今日に於て、本書の著者は、かの欧羅巴の神話学者の如く、かの智識を予想すること能わず。一個の問題に逢う毎に、一個の神話種類の現わるる毎に、先ず個々の神話の内容を示さざる可からず。之が為めに、多くの源泉より、その文章を引用せざる可からず。此の如くして、はじめて、説明の筆を採るを得、議論の筆を進むるを得るなり。之が為めに、少からざる紙面を費すは、実に止むを得ざるに出ず。一、新しき科学は、新しき概念の必要を生じ、新しき概念は、また之を表現せんが為めに、新しき術語を要す。本書に用うる所の、神話学上の用語中には、既に数年以前より、二三の雑誌に於て用いられて、読書界の或部分に知られしもの、固より之無きに非ざるも、其多くは著者の構成に係る。著者は新たに、此等の用語を構成するに際して、意を用いて、可成理解し易からんことを勉めたれば、之が為めに、読者に困難を与うるが如きことは、恐らく之無かる可きを信ず。偶々之あるも、実例と説明とは、容易にこの困難を排除し得可し。一、印度日耳曼神話学の研究は欧羅巴に於て、最も久しき歴史を有す。其他の文化民族並びに多くの未開民族の神話説話の研究も亦た、少からざる永き歴史を有す。本書は、此等の民族の神話説話に関しては、其材料を悉く欧羅巴の著書に求め、神話学上の問題に関しても亦た、多く欧羅巴の学者の意見を参考したり。参考せし著述の、最重なるものの二三を挙ぐれば、プレルレルの希臘神話学、マクドネルの吠神話学、ゴルテルの日耳曼神話学、モックの日耳曼神話学、マックス、ミュラー及びラングの神話学的著述、マイエルの比較説話学的論文、ギルの南太平洋神話、バーリング、ゲールトの中世説話の研究、デーンハルトの民間天然科学的説話、ゼーンスの植物説話、フィスクの神話学、ゴールド、チーヘルの希伯来神話、デンニスの支那民間説話等なり。「アイヌ」神話に関しては、チェンバーレン並びにバチェラー二氏の著より、その材料を取れり。日本支那の神話説話に関しては、外国人の研究殆んど云うに足らず。本書中、日本支那の神話説話に関する部分は、凡て著者の創見なり。
以上