七
碧梧桐君と二人で仙台の第二高等学校を退学して上京してからは二人とも暫時の間根岸の子規居士の家に居た。そのうち碧梧桐君は居士の家に止まり余は小石川武島町に新世帯を持っている新海非風君の家に同居することになった。
この間も発句を作る位の外あまり勉強もしなかった。初め別居したのは、別居していくらか勉強もするつもりであったのだが、事実はそうもいかなかった。そうして余が碧梧桐君を訪わねば碧梧桐君が余を訪うて二人でよくぶらぶらと東京市中を歩き廻った。
ある時子規居士は余の不勉強の主因を非風君の家に同居しているのに在るとして、
「家がも少し広ければお前も一緒に居てもいいけれど、秉公一人だけでも母なんか大分急がしそうだから二人はむずかしかろう。下宿でもして見てはどうかな。」と勧めた。余も遂にその気になって本郷台町の柴山という下宿に卜居することにした。居士は早速その家へ訪ねて来て、
「これは以前に夏目漱石の居た家じゃ。それでお前何でもええから自分の好きな事を遣って御覧や。」そんな事を言って帰った。
この宿に碧梧桐君が来たかどうかという事を覚えて居ぬ。ただやや静かな心持で余は書物に親しんで居ったように記憶して居る。そうしてある哲学めいた一文章を認めて居士に送った。居士はその後間もなく再び下宿を訪うて居士自身の哲学観を陳べた一篇を渡した。この一篇は今も獺祭書屋の居士の文稿のうちに残って居る。
居士はそんな事をして余らを激励する事を怠らなかった。
日清戦争はますます酣となって『日本新聞』からは沢山の記者が既に従軍したが、なお一人を要するという時に居士は進んでこれに当ることになった。余らは居士の病躯で思いもよらぬ事だと思ったが、しかし余らのいう事はもとより容れなかった。居士は平生、
「お前は人に相談という事をおしんからいかん。自分で思い立つと矢も楯もたまらなく遣っておしまいるものだから後でお困りるのよ。」とよく余に忠告したがしかしそれには余は服さなかった。如何となれば居士もまた同じような人であったからである。ただ晩年になっては些細の私事までも人に相談せねば断行せぬような傾きのあったのは一つは病重く自分の体でありながら思うままにならぬ所もあり、二つには自重して軽挙しなかったところもあろうが、三つにはまたよく前途を明察して後に発する言なればその言うところ必ず行われざるなく、いわば他人を悦服せしむるためにただそれだけのステップを踏んだというのに過ぎなかった。その自我心の強く一旦思い立った事を容易に撤回するような人でなかった事は事実が一々これを証明する。この従軍志望の如きはその著しきものの一つである。晩年に在っても興津移転問題の如きはその最も露骨なるものであって、もし居士の体が今少し自由が利いたなら居士は何人の言をも排して断行したに相違なかった。もっとも居士は軽挙はしなかった。けれども居士の口より何故に人に相談せぬかとの非難を受くることは余の甘受し難きところのものであった。
居士は一夕碧梧桐君と余とを携えてそこに別離を叙し別るるに臨んで一封の書物を余らに渡した。それは余らを訓戒するというよりも寧ろ居士自身の抱懐を述ぶる処のものであった。居士はこの従軍を以て二個の目的を達するの機運とした。その一は純文学上の述作、その二はこの事もし能わずともこれによって何らか文学上の大事業を為し得可しというに在った。
旧暦の雛の節句前後居士は広島の大本営に向って出発した。余はどういうものだかその新橋出発当時の光景を記憶して居らぬ。ただ居士が出発当日の根岸庵の一室を記憶して居る。
居士は新調の洋服を着つつある。その傍には古白君が、
「万歳や黒き手を出し足を出し……。」と何かにこういう居士の句の認めてあるのを見ながら、「近頃の升さんの句のうちでは面白いわい。」と何事にも敬服せない古白君は暗に居士の近来の句にも敬服せぬような口吻を漏らした。居士は例の皮肉な微笑を口許に湛え額のあたりに癇癪らしい稲妻を走らせながら、
「ふうん、そんな句が面白いのかな。それじゃこういうのはどうぞな。……運命や黒き手を出し足を出し……その方が一層面白かあないかな。ははははは。」
それは古白君は今の抱月、宙外諸君と共に早稲田の専門学校に在って頻りに「運命」とか「人生」とかいう事を口にしていたので、元来それが余り気に入らなかった居士は一矢を酬いたのである。古白君も仕方なしに笑う……こんな光景がちぎれた画のように残っている。
しかもこれが互に負け嫌いな居士と古白君との永久の別離であったのである。