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俳句とはどんなものか
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俳句とはどんなものか
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Chapter 4 of 5

第三章 切字

この小講義には少し長過ぎるほど季題のことをお話いたしました。それは俳句には季題ほど大事なものはないからでありました。もし俳句から季題を取り去ったらそれは俳句そのものでなくなるのであります。ちょうど砂糖から甘味を取り去ってしまったら砂糖そのものがなくなってしまうのとおなじことであります。

その季題に次いで大切なことは何でありましょう。やはり古人も申した通りそれは切字であると私はお答えをいたします。

切字のことをいうとすぐ俳句の文法と言いたがる人がありましょう。切字を説くならなんでその根本に遡って俳句の文法を説かぬかというでしょう。私は(21)においてすでに大体の意見を申し述べた通りそういうことをいう人は形式上の完備を必要とする人で実際には甚だ迂遠な人だと考えます。

私は俳句の文法というようなものはどこまでも軽蔑します。そうして(九)および(21)でも申した通り、俳句の文法を検べたければまず普通に話す我等の言葉の文法からしてお検べなさいと申し上げたいのであります。文法は軽蔑しませんが特に俳句の文法といってことごとしく論をやる人を軽蔑するのであります。そうして俳句として文字の駆使の上にやや特別な切字のことをこの章においてお話し申し上げようと思うのであります。

さて切字とはどんなものでありましょう。その主要なものを一、二あげてみますれば、「けり」「なり」「あり」「たり」「れり」「や」「かな」などの類であります。まずこれらの切字を実例について検べていってみようと思います。

菊を切る跡まばらにもなかりけり  其角

其角は前にも度々出たことのある人であります。

この句の場合「けり」を切字と申します。すなわちこの「けり」という文字によって一句の意味が切れる――終末を告げる――というところから切字という名前が起こったものと思います。

庭に菊畑がある、その菊を自分の家の花生に生けるためにか、もしくは人にやるためにかとにかく三本なり五本なりを切った、何だか庭の花の多くの部分を切り取ってしまったかのような心持がするのであるが、さて振り返って眺めてみると依然として菊花壇は菊花壇で、別にあとがまばらになったようにも見えないとこういう句意であってこれを俗語に訳してみると「……跡が格別まばらでもありませんでした」というくらいの意味であります。そうすると「けり」という文語体の切字は極めて卑近な「でした」という口語体の助辞ということにすぎないのであります。

次に、

鉢たゝき来ぬ夜となれば朧なり  去来

去来も其角同様もはや読者諸君の旧知のはずであります。

この句の場合「なり」を切字と申します。この「なり」という文字によって一句の意味が切れることは前句の「けり」と同様であります。

鉢たたきというのは京都にあるもので、旧暦の十一月十三日から四十八夜の間瓢箪をたたき空也念仏を唱えて歩くもので、極めて卑近な行をして俗衆を教化しようとした空也上人の衣鉢を伝えたものであります。その鉢たたきが来ぬようになるともういつの間にか春らしくなっていて夜の景色が朧である、というのであります。切字「なり」も俗語に訳してみると、「である」という極めて普通の助辞ということにすぎないのであります。

次に、

梅咲いて人の怒の悔もあり  露沾

この作者は初めて諸君の眼に触れたことと思います。

「あり」が切字であることは「けり」「なり」の類と同様であります。あるいは「もあり」を切字とみてもさしつかえありません。

あることについて非常に腹をたてた。が、ふと梅の咲いているのを見ると、その腹をたてたということが後悔されるようになったというのであります。まだ冬の寒さのまったくとりきれない春先にあって、枯木の梢に清香馥郁たる白い花をつける、痩せて気高い聖賢に接するような様を見ると、つまらぬことに腹をたてたのが恥ずかしくなる、というのであります。自分の悔いる心持をいったのでありますが、それを一般の人に当てはめて、梅の咲いたにつけてそこにいろいろのことがあるが、そのうちに人の怒りを後悔するということもあると、わざとよそよそしく言ったのであります。「もあり」もこう話して言ってみると何でもなくやはり「もあります」という普通の用語ということに帰着するのであります。

次に、

秋の空澄たるまゝに日暮たり  亜満

「たり」が切字であります。

秋の空は春や夏にくらべるといかにも心地よく澄みきっているものであります。冬も澄んではいるが、しかし冬になると寒さが強くって、また水気がなくなりすぎて、草木の枯れたのと同じように、大空もからび果てたような気がする、秋はそれに反し気候もよくことに春夏のよどんでいたあとをうけて初めて清透に澄み渡るので、澄むという心持が冬よりも強い、これが特に秋の空の澄み渡るのを賞翫するのであります。

ちょっと途中ですが、ここで一言しておきたいのは前にも(11)でことわっておきましたように、俳句の季題には事実ということよりもむしろ感じということを主としてきめたものが多うございます。すなわち事実からいうと一番日が長くって夜の短いのは夏でありますから「日永」「短夜」共に夏の季題とすべきでありますが、その「日永」の方は春の季題になっています。というのはだんだんと日の永くなってくる時の方が日の永くなった頂上よりもかえって「日永」という感じを強く受けるし、その上夏は暑さに苦しんでその日永の心持を味わういとまがないのに反し、春は長閑に快適にその心持を味わうことができるところから自然春季のものとなっているのであります。これは何も俳句が特にこうきめたというわけでなく、人間の感情が自然自然こういうふうに天然の興味を受け入れるのであります。夜長の方も同じことですでに「短日」を冬とする以上「夜長」も冬であるべきであるが、夜長の感じはかえって秋において強いのであります。

いま一、二の例をあげてこの心持をもっと明瞭に説明しておこうと思います。

たとえば藤の花と牡丹のごときはほとんど同時に咲きます。東京の電車の中の広告を見ましても亀戸の藤の案内と四ッ目の牡丹の案内とは同時に出ます。それにかかわらず俳句では藤の花を春季とし牡丹の花を夏季とします。いずれも晩春初夏にわたるものでありまして、甲を春とし乙を夏とすることはあまり片寄りすぎた定めのように思われますが、しかしその花の性質からして、淋しい紫や白の房の長く垂れている藤の花の趣は春季の感じ、濃艶な花弁を豁然と開いている牡丹の花の趣は夏季の感じとこうおのずから区分されるのでありまして、必ずしも某々二、三俳人が合議の上で無理にこう定めたものでなく、自然の感じがおのずからこの分類を作るのであります。

俳句においてはまた瓜類の花を夏季とし実を秋としているのであります。実際において花も実も夏季においてすでに見ることができ、秋になってもまた同様盛んに見ることができるのであるのになぜに特に花を夏季として実を秋季と定むるか、試みにこういう質問を提出した場合、花まず開いて後に結実するからだと答えるばかりではまだ十分を尽くしたものとは申されません。これは私が鎌倉に移住して後実際の南瓜や瓜を作ってみていちじるしく感じたことでありますが、夏季に至っては瓜や南瓜は黄色い大きい鮮やかな花がまず我等の眼に染みるがごとく映じ、たとい葉隠れにたくさんの瓜や南瓜がなっていてもその方はあまり人の心をひかないのであります。ところがいったんそれが秋に入ると、花は夏よりも一層盛んに咲くにかかわらず、もうその花はあまり強く人の眼を刺激せず、むしろ末枯れそめた葉蔭に露わに姿を現わしている瓜や南瓜の方が多く心にとまるようになるのであります。もし歳時記――俳句の季題を集めた書物――を見たばかりで瓜類は夏に花が咲き秋になって初めて結実するものだなどと考えている人がありましたらそれは大変な間違いと申さなければなりません。

あまり長くなりますがいま一つ申そうなら、かの時雨と紅葉とでありますが、和歌をみますると大概時雨が降ったために木の葉が染まって赤くなる、という意味になっています。たとえば、

白雪も時雨もいたくもる山は下葉のこらず紅葉しにけり

足曳の山かきくらし時雨るれど紅葉はなほぞ照りまさりける

とある類であります。また事実から申しても時雨の降るころに山々の紅葉はだんだんと染まるのであります。蕪村の句に「時雨るゝや用意かしこき傘二本」という句がありますが、一本には「紅葉見や用意かしこき傘二本」となっています。これらも「用意かしこき傘二本」という事柄を共通に考えた点において時雨と紅葉とを切り離し得ない蕪村の感情を説明しています。ところが俳句にあっては截然その間に区別をおいて――そうしてむしろ時雨をあととし紅葉を先として――紅葉を秋季、時雨を冬季としています。しかしこれもまた事実いかんは問わずにおのずからこう定められるようになった人間の感情の強い支配があることを忘れることはできません。というのは、紅葉は木の葉の凋落する前の一現象であって、やがてそれは枯葉となってからからにからびて地上を転げるものでありますが、その赤くなったり黄色くなったりして山々を染めている景色は燈明の消えんとする前に明るい光を放つのと同じように、いかにも花やかに――淋しい心持がつきまといながらも――美くしい光景である、それはからびた白い冬の感じというよりもやはり稲の黄熟などと相似た――黄色をもってその感じを抽象せしめる――秋のものとする方がふさわしいことになるのであります。同時にまた時雨の方は、その油気の抜けたからびた心持のする、たちまち降ってはたちまち晴れるというような倏忽の感じなどが、秋よりもむしろ冬のものとして格別の興味のあるところから、歌などに用いられたものと多少の意味の転化をさえとげて俳句においては冬のものとして用いられるようになっているのであります。これも俳人の勝手な定めとして非難するよりも、むしろ天然物――天然の現象――について俳句は和歌よりも一歩深いところに足を踏み入れているものと考えなければなりません。

以上二、三の例のように俳句は必ずしも事実ということに重きをおかず、感じということに重きをおいてその趣味を歌うことが多うございます。これも囚われ過ぎるようになると随分弊害が多うございますが、しかし文学と科学との相違もここにあるのであって、事実にのみ支配されず人間の感情を尊重するところに詩としての価値もあるのであります。

思わぬ枝道に長くはいりましたが、(11)で約束しておいたことでもあり、この機会をもって申し上げておく次第であります。

天然の現象について実際の研究を積んでいくということはだんだん季題の感じを精密にしていっていよいよ分科を多くしていくであろうと思います。(25)

季題趣味を軽視するということはこの点からいっても俳句を賊するものであることを忘れることはできません。

もとに戻って秋の空の句意の説明を続けましょう。

前申した通り秋の空は一年中でことに澄んだ感じのするものでありますが、この句意は、その秋の空が澄みきったままで昼から夜に移って行ったというのであります。いわゆる黄昏の空はまだ太陽の光はどことなくとどめているのにはや闌干たる宵の明星は光を放っているというような、昼間の澄んだ空のそのまま夜に移ってゆくその黄昏の光景がこの句によってよく想像されるのであります。

「日暮たり」も口語訳にすれば「日が暮れました」になります。これも切字といったところで、特別に変わった言葉でもないのであります。

次に、

見えそめて今宵になれり天の河  鷺喬

「れり」が切字であります。

天の河はもう夏から空に見えている、それがだんだんと月日がたっていよいよ七夕の夜になった、すなわち天の河は特に今宵のものであると定まっているその夜になった、というのであります。

この「今宵になれり」も「今宵になりました」の意味でやはり従前の切字同様に変わった言葉でもないのであります。

こういってくると読者諸君は定めて切字は季題趣味に次いで大切なものであるといった私の言葉を不審とされるであろうと思います。「おまえの説明し来ったところでみると切字というものは少しも普通の文章や会話の用語と変わったところはないではないか、俳句の文法が普通の文法と変わらぬといったくらいならなぜ俳句の切字も普通の言葉と変わらぬとはいわぬのか。」と必ずこう非難されるだろうと思います。そうして私はそれに対してこう答えようと思います。

おおせの通りであります。切字と申したところで何も特別な語法があると申すのではありません。(26)

我々が日常話しする時に必ず「です」とか「ました」とか語尾に助字をつける文章でも「なり」とか「たり」とか必ず語尾に助字をつける、そうしてそれで一語なり一句なりの調子ならびに意味に段落をつける、それと少しも相違はないのであります。以上あげたものはほんの一部分の例証でありまして、これらの「けり」「なり」「あり」「たり」「れり」が主要な切字というわけでなくその他にこの種類のものはいくらでもあるのであります。言をかえてこれをいえば普通に文章や会話で使う段落の文字は皆切字になるのであります。たとえば、

貴人と知らで参らす雪の宿  之兮

冬籠燈光虱の眼を射る  蕪村

夏の暮煙草の虫の咄し聞く  重厚

星合のそれにはあらじ夜這星  左綱

のごとく、文法でいうところの直説法の動詞止めもあり、

凍やしぬ人転びつる夜の音  鷺喬

のごとく疑問体で止めもあり、

去年より又淋しいぞ秋の暮  蕪村

飛ぶ蛍蠅につけても可愛けれ  移竹

唐辛子つれなき人に参らせん  百池

のごとく感嘆詞めいた言葉もあり、

巻葉より浮葉にこぼせ蓮の雨  杉月

辻君に衣借られな鉢叩  旧国

夙く起よ花の君子を訪ふ日なら  召波

うき我に砧うて今は又止みね  蕪村

のごとく命令体のもあります。「うき我」の句は「うて」という命令詞と「止みね」という命令詞とがともに切字になっているのでこういうのを、

二段切と申します。(27)

前掲の諸句は一々句意を説明することはあまり煩雑にわたるから略するとしてこの句だけを解釈してみますれば、前半は憂いを抱いている自分にどうか砧を打ってくれ、淋しい砧の音を聞いて思いっきり淋しさを味わってみよう、とこういうので、憂いを抱く身に悲しい芝居を見て泣きたいだけ泣くと心が慰むというのと同じ心持をいったのであります。ところがさて実際砧を聞いていると、心を慰むどころか憂いに堪えぬ、今はもう止めてくれ、というのが後半であります。「打ってくれ」というのと「止めてくれ」というのとは正しく意味が二度に終止しているのであります。二段切といってたいそうな議論をする俳人がありますが、つまり一句のうちに二度終止言があるというのに過ぎないのであります。

以上の例によってこういう断定を下し得るのであります。

十 俳句の切字というものは意味かつ調子の段落となすものであります。

私は第一章で簡単に切字のお話をした時に、

朝顔に釣瓶取られて貰ひ水  千代

を切字のない句としてだしておきました。これに似た句はたくさんあります。

蓮に誰小舟漕来るけふも又  如菊

小車の花立伸て秋曇  東壺

夏の月平陽の妓の水衣  召波

谷紅葉夕日をわたる寺の犬  烏西

等がその例であります。しかしながらこれらは切字がないといってもよくまたあるといってもいいのであります。まず第一の句は、

蓮に誰(ぞや)小舟漕来る今日も又

という意味になるので、近頃の文章で「誰?」と西洋のマークのついているものにちょうど相当しているのであります。すなわちこの句では「誰」という字が切字の働きをもしている、ともみることができるのであります。

第二の句は、

小車の花立伸て(あり)秋曇

もしくは、

小車の花立伸て秋曇(かな)

というふうに切字が略されているものとみることができ、従って「立伸て」「秋曇」等が切字の働きをもしていると言ってよいのであります。

第三、第四の二句もこれと同様に、

夏の月(や)平陽の妓の水衣

谷紅葉(や)夕日を渡る寺の犬

もしくは、

夏の月平陽の妓の水衣(かな)

谷紅葉夕日を渡る寺の犬(かな)

というふうに切字が省略されているものと見、従って「月」「水衣」「紅葉」「犬」等が切字の働きをもなしていると言ってよいのであります。

ここにおいてか、人によると、

俳句には必ず切字がある、とこういう断定を下す人もあるのでありますが――ちょうど人間の談話には必ず調子及び意味の段落があるというのと同じ意味で――しかし前掲の「誰」「立伸て」「秋曇」「月」「紅葉」「水衣」「寺の犬」の類は切字同様の働きをなすことはなすが、しかしそれ自身が切字ではない、とみる方が穏当でありますから、やはり第一章の(五)において申し上げたように、

「俳句には多くの場合切字を必要とします」という方が適切だと考えるのであります。(28)

ただ、

その切字のない俳句にも名詞その他によって自然に調子及び意味の段落はある。(29)

ということをわきまえておく必要はあります。実際の会話の場合においても「立派な花」「困った人」というように「です」という助字をはぶいて十分に意味を通ずることができる、それとおなじことなのであります。

さて私は前に切字として「や」「かな」の二つをあげておきながらまだその説明をしませんでした。この「や」「かな」の二つは切字中においてもっとも普通にまたもっとも広い意味に用いられるものでありまして、

俳句の切字として特に論ずべきものは「や」「かな」の二つのみといってよいくらいであります。(30)

これから例を挙げて解釈に移ろうと思います。

もっともそうは申すもののその「や」「かな」を極めて難解な意味あるもののごとく論じて、平易な俳句をかえって晦渋ならしめるような議論は私の取らざるところで、意味を解釈する上においては決してそう難しくはないのであります。そうすると特に論ずる価値があるというのはどういうことかというと、それは切字としてのその自由なる働きの上にあります。

出替や幼ごころに物あはれ  嵐雪

句意は下部なり下女なり、いずれにせよ召使っているものが期限がきて出がわりをする、何もわきまえぬ子ども心にも多年召使っていたものの去る、それがもの哀れに感じられるというのであります。

この場合「や」の字の働きはどうかというとそれは別に「や」に感嘆とか嗟嘆とか疑問とかいう意味があるわけでなく、「出かはり」というある事柄のその観念を極めて強く人の頭に印象せしめる働きを持っているのであります。試みにこの「や」の字によって与えられる強さを説明してみると、「出かはりは幼心にもの哀れ」といっただけではただ出かわりが文章の主格となるだけでありまして「出かわりというものは」というくらいの意味になるのでありますが、それがこの句の場合は、「出かわりというものがあります、その出かわりは」とでもいったくらいの強さを持っているのであります。なお私は進んで説明を試みてみましょう。ここに一人の政治家があって演壇に立って政府の横暴を鳴らそうとしてまず現政府という感じを強く読者の頭に呼び起こそうとする時分に、その政治家は、「諸君。現政府は……」といったままで、呼吸をつめて聴衆を睨みながら二、三分間黙っていたとしたらどうでしょう。それは「現政府は人民に対して……」とか何とかすらすらと弁じ立てるよりも遥かに強く現政府というものについての意識を聴衆の頭に呼び起こします。もし聴衆の方にも現政府に向かって十分の不平がこみ上げてくるような場合であったならば、かえってそのさきに無用の文句を並べるより、ただこういったままではらはらと涙でも流して団洲式の思い入れでもした方が聴衆は湧きたつかもしれないのであります。前の説明の「ここに出かわりというものがあります。その出かわりは――」というよりもなおこの政治家の演説のごとく「出かわり」といったばかりでしばらく黙っていて、それで出かわりについていろいろの感想をまず読者の頭に呼び起こすといった方が「や」の字の働きを説明する上において比較的要領を得るかもしれません。

いま一つ例句をあげましょう。

春風や殿待うくる船かざり  太祇

句意は、まず下十二字は、殿様のお乗りになる舟というのでいろいろと美しく飾りたてて、その御乗船を待受けている、というのであります。さて上五字はどうかというと、ここにも「や」の字があるために春風というものに付随するあらゆる感じをまず読者の頭に呼び起こしておいて、さて下五字の景色をその中に浮かび出さしめるのであります。これを「春風の吹いている日に」とか「春風の吹きみちている中に」とかいっただけではまだ十分にこの「や」の字の働きを説明したものとはいうことができません。そういう限られた意味でなく、春風について起こし得るあらゆる感じを呼び起こすところに「や」の働きはあるのであります。

次に「かな」の方に移りますが、これもほとんど「や」と同様の説明になるのであります。

呼かへす鮒売見えぬあられかな  凡兆

句意は、まず上十二字は、鮒売が表を通った、一度買う談判をしたが値ができなかったとか何とかいうことでその鮒売はもう行ってしまった。あとからいま一度表に出て呼びかえしてみたが、その鮒売はもうみえなかった、とこういうのであります。さて下五字はというと、これも「霰が降っている」とか、「霰が降っていて寒い日である」とか、もしくはその「鮒売を降りかくす程たくさんの霰が降っていた」とかいうのではまだ十分に意味をつくしたとは申されません。やはり「かな」という字によってその時の光景を極めて自由にかつ十分に読者に連想せしめようとするのであります。すなわち「霰の降っている寒い日である」とか、「霰のために鮒売が見えぬ」とかいうのは読者の方がめいめい勝手に連想をめぐらしているのであって、「かな」という字は一向それらに頓着なく、突き棄てた梵鐘の余韻のようにただ長く長く響きを伝えているばかりであります。

いま一つ。

はし近く涅槃かけたる野寺かな  樹鳳

お釈迦様の死んだ日には涅槃像といって釈迦の死んだ周囲にさまざまの鳥獣までが集まって涙を流している図をかけて参詣の人に見せるのでありますが、その涅槃像を端近くかけている、その野寺……とこういうのであります。大きな寺なれば奥深くもかけていましょうが、百姓家かお寺かも判らぬというような野中の小寺のことでありますから端近くかけているのでありましょう。この句もその野寺がどうしたというようなことは別にことわらず、ただ野寺といって、例の梵鐘の響きのような響きをただゴーンと伝えているばかりです。この句を誦したあとで読者は野寺というものを左の耳から入れて右の耳にぬかしてしまうようなことなく、じっとその光景を考えてみます。それが「かな」の働きであります。

新しい句を作るのはまずこの「や」「かな」を排斥しなければならぬ、という論者がありますが、私はその説を嗤います。

「や」「かな」は俳句としてもっとも進歩した、この上発達のしようがないまでに広い自由な意味を有するようになった切字でありまして、同時にまた俳句としてもっとも荘重な典雅な調子を有している切字なのであります。(31)

この間ある人がきて「や」「かな」を排斥する論者は言語の退歩を主張する論者である、と申しましたが、私はその議論に賛成します。

十一 「や」「かな」は特別の働きを有する切字であります

「けり」その他の切字も時によれば「や」「かな」に近い働きをすることがあります。「りにけり」というように虚字の長くなった場合は特に「や」「かな」に近い働きをいたします。たとえば、

宿の梅折取るほどになりにけり  蕪村

というような句は「宿の梅折取るほどになり……」という一個の概念をそのあとの虚字によって力強く読者の頭に運ぶのであります。

切字の論はこれで終わりといたします。「や」「かな」あることによって切字論は俳句とはどんなものか、の重要なる一章を占めるのであります。

Chapter 4 of 5
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