一
中込礼子様。
私の身体にも、全身に黴菌が、付着しているだろうと思われます。この手紙はお読みになる前に、どうか厳重に消毒して下さい。
長い前置きを、書くことができません。余計な文字を弄んでいる余裕が、まったくありませんから、切迫詰まった書き方になって、読みにくいでしょうが勘弁して下さい。
せめて仏蘭西の任期が終って、日本へ帰るまで待って下さいと、お頼みしていた言葉を快くお聞き容れ下さって、妹さんたちがそれぞれ楽しい家庭を営んでいられるにもかかわらず、じっと私の帰りを待っていて下さったことに対して、なんとお礼の申上げようもありません。そして、貴方がお待ちになり私の待ち切っていた、帰国の今日こういう手紙を書かなければならなくなったことを、なんと説明したらいいかわかりません。
お父様お母様には、到底私から書く言葉がありませんから、どうぞこの手紙を御覧に入れて、貴方からくれぐれもお詫びを、仰言って下さい。
十二月四日付で、本省から帰朝の内命に、接しました。本省欧米局の、第一課長になるようにとの、電報でした。それで十二月九日、巴里オルリー空港を発って、エール・フランス機で、帰国の途に就きました。
多勢の人々に見送られて、口々に祝詞を浴びせられて、私はまことにうれしかった。久々で日本へ帰れることもうれしかったが、それよりももっと心が躍ったのは、日本に貴方が待っていて下さるということと、その貴方ともいよいよ結婚が、できるということだったのです。
結婚式にはまず第一に、母に来てもらって喜んでもらおうと、長い間私は夢を見ていましたが、その私の夢は、一年も前から跡方もなく崩れ去っていました。昨年の十月、母が腎臓病で亡なったという知らせを、兄から受け取っていたからです。
母は山深い故郷で、一生を送って一度も東京へ、出たことがありません。貴方と結婚して、東京の郊外へでも家を持ったら、母を呼んで一緒に暮したら、どんなに母が喜んでくれるだろうと、それがいつも私の懐いていた長い間の、夢だったのです。
ですから、母が亡なったという知らせを受取った時、私は胸に大きな空洞が、できたような気がしてぼんやりしました。早く結婚してくれという、口癖のような母の頼みを斥けて、せめて内地勤務になるまでもう少し独身で勉強していたいと私が我を張っていたばっかりに母の生前、なんの喜びも与えずに死なせてしまったかと思うと、それが悔まれてなりませんでした。
仏蘭西へ来る前に、倫敦に三年、ジュネーヴに一年、長い海外生活で、母とろくろく家庭の団欒さえ味わっていないことを考えると、それが拭い去ることのできぬ、悲しみになっていましたが、それでも貴方のことを考えて、まだ悲しみを慰めることができました。
飛行機では、本省情報文化局長に就任のため、帰朝される倫敦駐箚の城田前公使と、一緒でした。
「おい、未来の大使!」
と笑いながら公使が、背後から肩を叩かれました。
「三十になるやならずで、欧米一課長には抜かれるし、中込氏の令嬢は射落とすし、地位と美人と財力と……果報者! 日本へ着いたら一体、何を振舞ってくれるんだね?」
公使に冷やかされるまでもなく、私もそうだと感じました。母の亡なったことだけは、淋しい限りですが、私のような農家の次男に生れてこの幸福は、まったく身に余る仕合せだと思いました。
貴方と結婚することが私に財力なぞを与えることには少しもなりませんが、この時だけはこの公使の言葉さえも、一層私の幸福感を、増大させました。男と生れたからには、私も一度は政治家として、大臣くらいにはなってみたいと思ったからなのです。
政治家になって政党を操縦するのには、何千万何億という資金を、必要とするでしょう。外務省の官吏なぞを何十年勤めたからとて、そんな大金なぞのできようはずは、ありません。ですからその時は、貴方のお兄様に頼んでお父様にでも、軍資金を出して戴いて……なぞと、考えたからなのです。
が、別段政治家になりたいと、真剣に考えていたわけでもありません。ただ、取り留めもない夢のような空想を、描いていたに過ぎないのです。久々で帰る故国への途……その故国には懐かしい貴方の顔が見え……兄の顔、嫂の顔が泛び……友達たちの顔……その懐かしい故国への途々、埃及阿剌比亜あたりの沙漠や、ペルシャ湾印度洋の白波を、雲海遥かの下に俯瞰しながら、そうした取り留めもない空想に耽っていたことは、どんなに楽しい夢だったか知れません。