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黒髪
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黒髪
近松秋江
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Chapter 3 of 5

3

「京人形、京人形の顔を二年も見なかったので、今そこへ来た時にはほかの人間かと思った」戯弄うようにそういうと、彼女はそれでも微笑もせず、反対に、

「あんたはんかてあんまりやおへんか」

彼女は美しい眉根を神経質に顰めながら、憤るようにいう。私は「えらい済まんこと」くらいはいうであろうと思っていたのに、向うからそんな不足をいうので、何という勝手な女であろうと思って、腹の中で少しむっとなったが、また、そんなぺたつくような調子の好いことをいわぬのがかえって好くも思われる。

「一年と半とし見ないんだよ。そして一体どんな話になるのだい? こんなに長い間顔を見たいのを堪えていたのも、後を楽しみにしているからじゃないか」

そういって、今まで手紙のたびに幾度となく訊ねている彼女の境遇の解放について重ねて訊ねたが、女は、ただ、

「そのことはまた後でいいます」といったきり何にもいおうとしない。

「また後でいいますもないじゃないか。何年それを言っていると思う」

二人はちゃんと坐って向い合いそんな押し問答をしばらく繰り返していたが、彼女は黙って考えていたあげく、謎のように、

「ここではそのことも言えませんから、私、かえります」と、いう。

私は、少し眼の色を変えて、

「妙なことをいう。ここで言えないで、どこでそれを言うの?」

「あんたはんがようおいでやす下河原の家へこれからいて待っとくれやす。そしたら私あとからいきます。ここの家から一緒にゆくのはここの家へ対していけまへんやろ。それから私一遍家へ去んで、あっちゃから往きます」女の持ち前の愛想のない調子でそんなことをいう。

私はまた女のいうことにいくらか不安をも感じたが、本来それほど性情の善くない女とは思っていないので、だんだん疑いも解け、その気になり、

「じゃ、そうするから、きっとあそこへ来なければいけないよ」と、根押しをして、その上もうあまりくどくいわぬようにして、そこの家は体よくして、二人は別々に出て戻った。

それから私はまた、いつかの下河原の家へ行って待っていた。それは日の永い五月の末の、まだ三時ごろであったが、彼女は容易にやって来なかった。悠暢な気の長い女であることはよく知っているので、そのつもりで辛抱して待っていたがしまいには辛抱しきれなくなって、いいようのない不安の思いに悩まされているうちに、高い塀に取り囲まれている静かな栽庭にそろそろ日が影って、植木の隅の方が薄暗くなり、暖かかった陽気が変ってうすら寒く肌に触るようになってきた。それでもまだ女の顔は見られなかった。不安のあとから不安が襲ってきて、いろいろに疑ってみたが、あんなにいっていたからよもや来ないことはあるまい。そんな背を向けて欺き遁げるような質の悪い女ではないはずである。そんなことをする女を、おめおめ四、五年の長い間一途に思いつめ、焦がれ悩んでいたとしたら、自分はどうしても自身の不明を恥じねばならぬ。義理にもそんな薄情な行為を為向けられるようなことを、自分は少しもしていない。……今に来るにちがいない。不安の念を、そう思い消して待っていた。

しかし、それは何ともいえない好い晩春の宵であった。この前の冬の時と同じように女の来るのを待っている心に変りはないが、あの時とちがい今は初夏のころとて、私は湯上りの身体を柔かい褞袍にくるまりながら肱枕をして寝そべり、障子を開放した前栽の方に足を投げ出してじっと心を澄ましていると、塀の外はすぐ円山公園につづく祇園社の入口に接近しているので、暖かい、ゆく春の宵を惜しんで、そぞろ歩きするらしい男女の高い笑い声が、さながら歓楽に溢れたように聞えてくるのである。花の季節はもうとうに過ぎてしまったけれど、新緑の薫りが夕風のそよぎとともにすうっと座敷の中に流れこんで、どこで鳴いているのか雛蛙の鳴く音がもどかしいほど懐かしく聴えてくる。それを聞いていると、

「あの、喰い付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまいには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思いに責め苛まされていなければならぬのであろう。もういつまでもこんな苦しい思いをさせられていないで早く安らかな気持になりたい」

そこへ長い廊下を遠くの方で足音が静かに聴えると思って見ると、やがて女中が襖の外に膝まずきながら、

「えらい遅うおすなあ。お夕飯はどない致しまひょう、もうちょっとお侍ちになりますか」

と訊く。そんなことが二、三度繰り返された後、私はとうとう待ちきれなくなって、腹立ちまぎれに、またいつかの時のように、先きに一人で食べてしまったら、きっと来るだろう、早く顔を見せるまじないに先きに食べてしまおう、と思って、

「持ってきて下さい」と命じた。その自分の心持ちには、ひとりでに眼に涙のにじむような悲しい憤りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業の女にあくまでも愛着している、その感情が十分満足されないというばかりでなく、どうしてこちらのこの熱愛する心持ちが向うに通わぬであろう。こちらの熱烈な愛着の感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝わって、もっと、はきはきしそうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であった。

そこへ女中が膳を運んできた。

「おおきにお待ちどおさん」と、いいつつ餉台のうえに取って並べられる料理の数々。それは今の季節の京都に必ずなくてはならぬ鰉の焼いたの、鮒の子膾、明石鯛のう塩、それから高野豆腐の白醤油煮に、柔かい卵色湯葉と真青な莢豌豆の煮しめというような物であった。

私は、口に合ったそれらの料理を、むらむらと咽へこみ上げてくる涙と一緒に呑み込むようにして食べていた。そうしてもう済みかけているところへ廊下にほかの女中とはちがうらしい足音がして、襖の蔭から女がぬっと立ち顕われた。彼女はさっきとちがい、よそゆきらしい薄い金茶色の絽お召の羽織を着て、いつものとおり薄く化粧をしているのが相変らず美しい。

「今まで待っていたけれどあんまり遅いから食べてしまった。まだ?」

「ええ……」

「じゃ、お今さん、すぐこしらえて下さい。このとおりでいい」女中に命ずると、女は、

「いりません。食べんかてよろしい」

「まあ、そんなことをいわないで一緒に食べよう、待っている」

女は、私の方へは答えず、女中に向って、

「姉さん、どうぞ、ほんまに置いとくれやす」

といって断ったが、ともかくも調えて持って来させた。けれども、彼女は箸も着けようとせず、餉台の向う側に行儀よく坐ったままでいる。そんな近いところから見ていても、ちょうどこんなすがすがしい初夏の宵にふさわしいばらりとした顔であった。匂やかな薄化粧の装いが鮮かで、髪の櫛目が水っぽく電燈の光を反射して輝いている。

女はとうとう並べた物に箸をつけなかった、女中が膳を引いてゆく時、

「姐さん、えらい済んまへんけど苺がおしたら、後で持ってきとくれやす」

自分で注文しておいて、やがて女中が退っていったあとで、女はさっきから黙って考えているような風であったが――もっとも彼女はいつでも、いうべき用のない時は無愛想なくらい口数の少い女であった。自分は、それが好きであった――やがてまた、彼女の癖のように、べちゃべちゃとその理由をいわないで出抜けに、

「あんたはん、私、ちょっと帰ります」と、謎のようなことをいう。

私は思わず胸をはっとさせて、じっと女の顔を見ながら、

「帰りますって、お前、やっと今来たばかりじゃないか。なぜそんなことをいうの。さっきの袖菊へいけば、あそこでは話がしにくい、此家へ行っていてくれと、あんたがいうから、私はここへ来たじゃないか。一体お前の体のことはどうなっているの? 私ももう四年五年君のことを心配しつづけて上げて、今日になっても、五年前と同じように、やっぱりずるずるでは、とても私の力には及ばない。私は、先日うちから幾度も手紙でいっているとおり、今度もあんたと遊ぶためにこうして今日は来たのではない。そのことを訊こうと思って来たのだ。君はいつまで商売をしている気でいるの?」

私は腹を立てたような、彼女のために憂いているような、なんどりした口調で訊ねるのであった。けれど彼女は、口ごもるようにして、それには答えず、

「それはまたあとでわかります」と、困ったようにしかたなく笑っている。

「あとでいいます言いますって、それが、あんたの癖だ。もうそれを言って聴かしてくれてもいい時分じゃないか」私もしかたなく笑いにまぎらしてとい詰める。

「ここではいえまへん」子供かなんぞのように同じことをいう。

「ここでは言えんて、ここで今言えなければ、いう折はないじゃないか。なぜかえるというの?」

そういって、問いつめても、女はろくにわけをもいわずただ頑強に口を噤んでいるばかりである。

明るい電燈の光をあびている彼女の容姿は水際立って、見ていればいるほど綺麗である。そして、ふっと気がついてみると長い間見なかった間にそうして坐っている様子に何となく姉さんらしい落着きが出来て、どこといって口に言えない顔のあたりがさすがに幾らか年を取ったのがわかる。それはそうである。はじめて彼女を知ったのが五年前のちょうど今の時分で、爽やかな初夏の風が柳の新緑を吹いている加茂川ぞいの二階座敷に、幾日もいくかも彼女を傍に置いて時の経つのを惜しんでいた。座敷から見渡すと向うの河原の芝生が真青に萌え出でて、そちらにも小褄などをとった美しい女たちが笑い興じている声が、花やかに聞えてきたりした。彼女はそのころよく地味な黒縮緬のたけの詰った羽織を着て、はっきりした、すこし荒い白い立縞のお召の袷衣を好んで着ていたが、それが一層女のすらりとした姿を引き立たせてみせた。でもそのころは今から見ると女の二十という年からあまり遠ざかっていない若さがあった。私自身にとっても、この女のために……まさしくこの女のためのみに齷齪思っている間に、五年という歳月は昨日今日と流れるごとく過ぎてしまって、彼女は今年もう二十七になるのである。そう思ってまたじっとその顔を見ていると、水浅黄の襦袢の衿の色からどことなく年増らしい、しっかりしたところも見える。

女は、女中が先ほど持ってきた白い西洋皿に盛った真紅な苺の実を銀の匙でつつきながら、おとなしく口に持っていっている。

「今夜ぜひ逢う約束でもしている人があるのか?」私はそういって訊ねた。

「ちがいます」

「逢う約束の人がなければ、ここにいたっていいのじゃないか。手紙でこそ月に幾度となく話はしていたけれども二年近くも逢わなかったのだから私にいろんな話したいことがあるのはあんたもようわかっているはずだ」

「そやから帰ってから、後でいいます」

「あんた、何をいっているのか、私には少しもわからない。かえってから後にいうとは。そんなら今ここでいったらいいじゃないか」

「ほんなら、私帰ってすぐあとで使いに手紙を持ってこさします」

「せっかくここへ来て、すぐまた帰るというのが私にはわからないなあ。あんた、もう私に逢わないつもりなの?」

「ちがいます。私またあとで逢います」

「なあんのことをいっているのだか、私には少しも合点がゆかぬ。しかしまあいい。それじゃお前の好きなようにおしなさい。どんなことをいってくるかあんたの手紙を持ってくるのを待っているから。必ず使いをよこすねえ」

「ええ、これから二時間ほどしてから俥屋をおこします。ほんなら待ってとくれやす」

そういいおいて、彼女は静かに立ち上って廊下の外に消えるように帰ってしまった。私はまた変な不安の念いを抱きながら、あまり執拗に留めるのも大人げないことだと思って女のいうがままにさしておいた。開放した濡縁のそとの、高い土塀で取り囲んだ小庭には、こんもり茂った植込みのまわりに、しっとりとした夜霧が立ち白んだようになって、いくらか薄暖かい空気の中へ爽やかな夜気が絶えず山の方から流れ込んでくる。私は食べ物の香の残っている餉台のところから身体をずらして、そちらの小庭に近い端の方へ行ってまたごろりと横になり、わけもなく懐かしい植物性の香気の立ち薫っているような夜気の流通を呼吸しながら、女の約束していった二時間のちのたよりを、それがどんなものであるかという不安でたまらないうちにもいいがたい楽しみに充ちた期待をもって待つ心でいた。

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