二
南をうけた小さい入江にそって、村道が海と陸とのへだてとなって東西へのび、段々畑の連なった広い丘を背負って四、五十軒の家が海にむかって並んでいる。健のおばあさん家はこの村の真中どころにあり、切手やはがきなどを売っていた。門のそばの板壁には赤い四角な郵便箱がかかっている。毎日お昼すぎごろになると郵便屋がその箱をあけにきた。健がおばあさんの家へ来てから、もうかれこれひと月になる。健はときどきお母さんの手紙を持ってきてくれる郵便屋さんが大好きで、今日もその姿を見ると、一人で縁に寝ころんで絵本を見ていたのが急に起きあがって、かけだして行った。郵便屋さんは大きな鍵をガチャガチャさせて箱の横腹をあけた。口がちょうど健の目の上の高さなので、背のびをすると箱の中がよく見える。いつも手紙やはがきが重なりあっていた。
「郵便さん、健に手紙来とるか。」
健はきまって、そうきくのであった。
「来とらんがいの。」
「ほうよ、そんな仰山、みなよその手紙か。」
「はあ、よそのてまぎじゃ。」
郵便さんは健の口まねで答え、箱の中からつかみ出した手紙やはがきを手のひらの上でそろえて黒い鞄の中にしまい、箱の中に細い紐で結えてぶら下がっている判こを帳面に押して、ぱたんと蓋をしめた。
「さよなら健ちゃん。」
郵便さんは自転車に乗って走っていった。だんだん遠ざかっていく黒いうしろ姿が村はずれの藪のかげにかくれて見えなくなると、健はくるりと左をむいた。道路にむかって開けはなしの門までのあいだを、つま先に踵をつけて小きざみに足をかわした。今朝おろし立ての鼻緒に赤い紙をないこんである藁草履がうれしかった。
鬼ごとするもんようって来い!
鬼ごとするもんようって来い!
裏の荒神様の森で、つれをよび集める子供の声がする。珍しく家で遊んでいた太郎と秀子が、そろいの藁草履をつっかけて土間から裏口へかけだして行った。健も急いであとを追っかけた。よくふとって顔は一つ年上の太郎より大きいのに、背は一つ年下の秀子と同じくらいよりなかった。大きい頭をふりながら走ると、よたよたしていつでも秀子にさえまけた。健はゆっくりと荒神様の石段を上がっていった。そこは秀吉の朝鮮征伐のときに、人夫としてこの村からかり立てられて行った人たちが朝鮮から持って帰って植えたものだといい伝えられている、三本のバベの木でこんもりとした森をつくり、空をおおって大きくひろがった枝の下に荒神様の社があった。三本の親木は、そのどれもみな健たちが五人手をつないでやっと抱えられるほどの大木であった。社の前の空地で、五、六人の子供がじゃんけんをしていた。つかまえ鬼である。健ははじめてなので、じゃんけんなしで仲間入りをしたが、すぐ鬼になった。おもしろくて、はあはあ笑いながら追いまわした。つかまえようとすると、くるりとはずされた。こんどこそやっとつかまえたと思うと、取ってがえしにやられて、また鬼である。松の根方や、大小のバベの木を縫って、石の鳥居や燈籠をぐるぐるめぐって追っかけた。くりくりした丸い胴体に、ちょこんとのっかった、並はずれの大きな頭をふりふり駆けた。健より足のおそいものは誰もない。健はいつまでたっても鬼よりほかになれなかった。胸がどきどきしてきた。顔をしかめ、立ちどまってフウフウ肩で息をした。鬼が立ちどまると、みんなも立ちどまった。
鬼が来んまに豆煎って噛あまそ
鬼が来んまに豆煎って噛あまそ
みんな健の間近へよって来て、思い思いに鬼をとりまいてしゃがみ、てんでに地べたをかきまぜて豆を煎った。鬼が身をかまえると、さっと腰を浮かしてわあっと逃げだす。健は真顔になって追っかけた。真赤に上気して、ころびころび駆けた。紺の毛糸のズボンがずれて足にからまった。とうとう泣きそうな顔でバベの木に胸をつけてもたれこんでしまった。
鬼が来んまに豆煎って噛あまそ もう健は見むきもしなかった。バベの木の小枝にもぶれついている青黒い葉っぱや、黒いざらざらした木肌のところどころに、もやしのようにひょろひょろと伸びた薄赤い新芽を手あたりしだいにむしっては捨てた。山茶花のような艶のある小さい葉が足下に落ちて、たまっていった。やがて、健はしょぼしょぼと鳥居の方へ歩きだした。
「健ちゃん、もうせんのか、え。」
「健ちゃん、鬼んなってやるせに来い。」
口々に呼びかける。それでも健はとうとう敵に背をむけて荒神様の石段をおりかけた。ずっこけたズボンを胸までこきあげて、一段一段を念入りにおりて行った。
鬼んなってつらかってえ
大根の葉あがからかってえ
みんなのなぶる声が追っかけてきた。石段をおり、細い小路を横切るとすぐ家の空地であった。右の納屋の前の大きな柿の木の下でおばあさんが豚の飯米をつくっていた。健はそのそばへよって行って、だまってしゃがみこんだ。
大根の葉あがからかってえ からかう声がまだ聞こえる。おばあさんは菜っ葉をきざむ手を休めずに、一人で帰ってきた健に笑いかけた。
「健、どうしたん。」
健は眉をよせ、上唇をせりあげるようにしてかたく口をつぐんでいた。
「なあ、荒神様で遊んでこい。仰山つれがおろがいや、太郎もおろがいや。」
おばあさんは荒神様の方をふりむいていった。
「ほたって、みんなが大根の葉あがからかって、いうんじゃもん。」
「そうか、そりゃ困ったなあ。大根の葉あがからかったんかいや。」
笑いながらおばあさんは菜っ葉をきざんでしまい、大きな板を柿の木に立てかけておいて流し場の方へ行った。米のとぎ汁や残飯の入っている桶を持ってきてそれを豚桶に移したり、醤油工場からもらってきた大豆の煮汁をそれにまぜ合わせたりした。健はつきまわっておばあさんが立つたびに立ち、しゃがむたびにしゃがんだ。
「おばあさん、豚ん家い健も行こうか。」
「そうよなあ、大根の葉あがからかったんなら仕方がない。豚ん家いでも行きましょうかいな。」
「みんなに黙って行こうか。」
健はうれしくて、声をひそめた。おばあさんはしゃがんで、豚桶にわたした担い棒を肩にのせ、右手で柿の木につかまって、よいこらしょ、と立ちあがった。二つの豚桶が前とうしろでドボドボと音を立てて少しずつ中のものがこぼれた。
豚小屋は裏の段々畑の丘の中ほどにあった。荒神様の横を通りすぎて上をむくと、藁葺の小屋がこちらをむいて立っているのが見える。畑と畑とにはさまれたなだらかな坂道を、おばあさんは健の首までもある大きな豚桶をになって、えっちらおっちら上がって行く。その後から健もえっちら、おっちらとついて行った。道は、真中の人の踏むところだけ残して、枯れた芝草の中から蓬や嫁菜の青い葉が雑草といっしょに萌えだしていた。坂が急なところへくると、おばあさんは蟹のように横むけになって足をかわした。よいこら、よいこら、とかけ声をかけた。
「おばあさん、豚桶、重たい重たいか。」
「重たい、重たい、と。」
おばあさんの返事はかけ声であった。
「帰にしなには軽い軽いか?」
「かるい、かるい、と。」
「ほんなら帰にしなに健の手々ひいておくれよ。」
「よし、よし、と。」
おばあさんの鼻の上にも健の鼻の上にも、ブツブツ汗が浮いていた。だいぶ傾いた日が豚桶をかついだおばあさんと健の影法師を、細長くななめに地に映して、その影法師もえっちら、おっちらと動いた。
「おばあさん、影がおもしろい、おもしろいな。」
石垣があったり、道が曲ったりするたびに影法師はかがんだり伸びたりした。おばあさんといってもまだ白髪もなく、腰もしゃんとした大柄なからだのおばあさんにくっついていると、健は赤ん坊のように小さく見えた。だいぶくたびれて、健は両手を膝の上にあてて腰をかがめ、力いっぱいの大またに足をかわした。
上の方から鍬をかついだよそのおっさんがおりて来た。
「ほう、あっちの孫さんかいな、お父さんによう似とらや。」
おっさんは片足を畑に入れておばあさんに道をゆずりながら、挨拶がわりに健の顔をのぞきこんで行った。
「おばあさん、あれだれぞいの?」
「あれかいや、あれはのう、太郎んどんのおっさんじゃ。」
「たどんろんおっさんか――孫さんかいのう、よう似とらあ、いうたのう、おばあさん。」
健はおっさんの口調をまねた。
「おばあさん、孫さんいうたら何?」
「孫さんいうたら健のことじゃがい。」
おばあさんはふり向かずに答えた。
「ええい、健、孫さんちがうがい、健やがい。」
もうだいぶ丈がのびて、穂をふくんだ麦畑の中から、とつぜん大きな笑い声がおこった。健はびっくりしてその方をむくと、石垣で道よりも一段高くなっている畑の青い麦の中から、背戸のばあやんの手拭をかぶった頭が出てきた。ばあやんは草取り籠をかかえ、麦をかき分けて近づいてきた。腰のぐるりにたくさんはせている鬼穂が麦とすれ合ってサラサラと音を立てて、青い麦が波のようにゆらいだ。ばあやんは石垣のはなに立ち、健たちが通りすぎるのを待って、雑草のいっぱいつまっている籠を道にぶちまけた。腰の鬼穂もとり捨て、かぶっている手拭をはずして額をふきふき話した。
「孫さんじゃない健さんかいの、健さんは今日もおばあさんのお供かいの。」
「へえ、もういつまでたっても連れとよう遊ばいでなあ、何じゃろと、こうやってお婆のあとにばっかりつきまとうんじゃぞな。」
おばあさんが黙っている健にかわって答えた。背戸のばあやんはまた手拭をかぶって、麦の中にその姿をかくした。こんどはうしろから上がってきた人が、健に追いついて並んだ。豚小屋と隣りあっている、みかん畑のうちのばあやんであった。からっぽの目籠を背負っていた。
「ご精が出ますなあ。」
おばあさんの背中へ挨拶をしておいて、ばあやんは健の頭を軽く押さえた。
「健ちゃん、お父さんは。」
「東京にいる。」
「ふーん、東京にいるん。東京で何しよん?」
「手紙書きよん。」
健はばあやんを見あげた。ばあやんは白い歯を見せて、はっはと笑った。
「てまぎ書きよんか。てまぎどういうてくる?」
「イシダケンサマ、いうてくる。」
ばあやんはまた笑った。そして健の頭をなでた。
「ほんなお母さんは?」
健は急に親しみをこめた目つきをしてばあやんに向かい、だいぶよごれの目立つ毛糸の上着やパンツを引っぱって、
「これのう、健のお母さんが編いたんで。ジバンも、パンツも、洋服も、みなお母さんが編いたんで。」
得意になって説明した。ばあやんも調子をあわせて腰をかがめ、健の青っぽい上着にさわったり、袖口を引っぱって見たりした。
「ほんにい、きれいに編んどら。健ちゃんのお母さんは器用もんじゃなあ。」
おばあさんが気をもんで、「さきに行てつかあされ。」といっても、ばあやんは「急ぎゃしません。」と答えて健の手をひいた。健はうれしかった。
「あのの、お母さんはいま克ちゃんと病院行たんで。遠い遠い病院で。克ちゃんに目薬さしたら戻ってくるん。健、泣かんと待っちょるせにバナナも買うてくるんで。バナナ美味いんで。んまい、んまいんで。おもちゃも買うて、えいもんも買うていんま戻ってくるんで。」
手をひろげたり、指を折ってみやげものを数えたりして、急にしゃべりだした健につりこまれて、ばあやんもにこにこした。
「えいもん買うてきたら、ばあやんにもくれるか。」
「ん、あげる。バナナあげる。んまいんで。」
健は唾をのみ、へえ、と下唇をひろげ、甘ったれた口をして笑った。
ばあやんは、おばあさんに話しかけた。
「何かな、おばさん、ねんねさんは目が快うなって戻りますんかな。」
「どんなことやらなあ。」
おばあさんはゆっくりと立ちどまって息を入れ、担い棒の肩をかえた。
「まだ誕生やそこらの子を、手術じゃとやら何とやらいうて、生きた目をつつき回すんじゃそうなが、そんなことしてえいことかなあ。たいがい、いまどきの若いもんは気が強いぞなあ、一ぺんでげんが見えにゃ二へんでも三べんでも仕直しするんじゃいいますがいな。ほんまに恐ろしやの、目の子の玉に針さしたりして、えい目もつぶれろぞ思いますけんど、何せ日本でも名高い医者のいうことじゃというし。――昔からそこひは直らんといわれとるせに、何かしらん直るいうのが嘘のような気がして、あれが町の医者にだまされとんじゃないかと気がもめますがいな。」
「ほんになあ、そんな生まれ子にまでそこひじゃこというたりして、かわいそうに、嫁さんも苦労しましょし、えらい金入りでござんしょうぞなあ。」
「へいな、銭のある衆はよろしいけんど、うちらのような貧乏人にゃ、たまらんぞな。」
「ま、何をおっしゃる、おばさんのような。」
ばあやんが急に笑うと、おばあさんはよけいまじめな声になった。そして押さえつけるような声で、
「いいええ、ほんまのとこたまりゃしませんぞな。貧乏人のするこっちゃないぞな――ちっとは信心でもすりゃよろしいけんどな。第一あれに信心ごころが一つもないんじゃせに、しょうがない。信心にゃ金はかからんせにいうても、ただに医者医者いうてな。きも玉が大けいいうたら、今日びは金さえかけりゃめくらでも直る世の中じゃ、借金してでも手術してやるというてな、あんじょうもう気負いこんで行とりますじゃが……」
除虫菊のきつい匂いがただよってきた。ばあやんの家のみかん畑が近くなり、青黒く繁った葉っぱに見えかくれて黄色い夏みかんがなっている。からたちの垣根をすかして、ところどころ真白に除虫菊の花が咲いている。ごめんなれ、といいながらばあやんは畑の中へはいって行った。
豚小屋へ来た。おばあさんは待ちかねたように畑のとっつきで荷をおろした。そして桶から担い棒をはずしてそれを立て、両手ですがりつくようにして腰をのばした。そして、やれ、やれ、と太息をついた。健もならんで同じように、やれ、やれ、と肩で息をした。すうっとかすかな風が通って、汗ばんだ肌に気持よくしみた。二人とも赤い顔をしていた。健はさっと両手をひろげ、くるくると舞いながら空にむかって大きな声で叫んだ。
鳶、とんび、舞い舞いせえ
ほうらく割ったら買うてやろ
だが鳶も舞わず空は薄藍色にひろがっていた。豚が見つけて騒ぎだした。小屋の板がこいにとびついて前足をかけ、よごれた顔を出してぐうぐう呼びかけている。狭い板敷の小屋の中をどさどさ駆けまわって喜んでいるのもある。健は一ばん端っこの子豚のいるところへ走った。かこい板は健の頭より高いのでしゃがみこんで下からのぞいた。豚どもは健には見向きもせずに、おばあさんの方へしきりに鼻を鳴らした。
「おばあさん、早よ豚に飯やりいの、豚がぐうぐういいよるがい。早よ飯くれ、早よ飯くれ、いいよるがい。」
健はおばあさんのそばへ来て、前かけを引っぱり、背の高いおばあさんを見あげた。
「そうあわてなっちゃ、まだ日は高いんじゃ。」
やっぱり担い棒にすがりついたまま、おばあさんは豚小屋に背を向けて海の方を眺めながら落ちつきはらっている。目の下には同じような構えで家々の黒い屋根瓦がむらがっている。そのところどころをかき分けてすももの白い花や、杏の大きく枝を張った赤い花が咲いている。これらの一かたまりの人家を抱えこむようにして、左右にのびている岬のかげには小さい漁舟が浮かんで、凪いだ海面は湖のように静かであった。遠い四国地の方はふんわりとした靄に包まれて陸も空もぼかされたようにかすんで見える。
健はまたおばあさんの前かけを引っぱった。
「おばあさん、何見よんどいの、早よ豚に飯やらんかいの。」
「よし、よし、せわしのういうなっちゃ。」
おばあさんはやっと動きだした。にない棒を豚小屋の軒に立てかけ、豚桶を一つ一つさげてきた。細長い小屋は四つにくぎられて、その一つ一つの入口に、外側から与えられるようにこしらえてある長方形の食物桶の中へ、おばあさんは汚れた柄杓をもって、順々にかいこんでやった。豚は先をあらそって悲鳴をあげながら気狂いのように食べた。顔中を桶の中へつっこんで、泥芋のようによごし、夢中であった。子を産んでいる親豚には醤油粕や残飯ではなく、とくべつに麦飯を炊いてやるのであった。親豚は、子牛ほどもあった。子豚が乳房にぶら下がって離れないのを、がむしゃらにふりほどいても、ふりほどいても子豚はキュウキュウ鼻を鳴らして、また、乳房に吸いついて行った。桃色にすきとおった、ころころしたからだを銀色の産毛に包まれた子豚は、親豚に似つかぬきれいな、まるでびろうどのおもちゃが生きて動いているようであった。親豚は五つの子豚を乳房にぶら下げたまま、麦飯をうまそうに食べている。健はしゃがんで板と板とのすきまから眺め入った。天井向きになって乳房に吸いついている子豚が、かわいくてたまらなかった。健は目を細くして、声をかわいくした。
「おばあさん、ねんねの豚は歯がないせに乳のむんのう。」
「そうとも、そうとも。健じゃって歯がないときは乳のみよったんじゃ。」
豚からは目離さず、健は自分の口に指を入れ、試すように歯にさわって見た。前歯で指をかんでみた。
「おばあさん、豚大けになっても歯はえなんだら?」
健はおばあさんをふり向き、大発見のように大鼻をひろげてきいた。
「大けになったら歯ははえる。」
おばあさんの答えは簡単であった。食物を分けてしまって、おばあさんも健のそばへ来て小屋板に片手をかけ、板がこいの上からのぞいた。
「おばあさん、ねんねの豚、大けになったらどうするん。」
健はまた小鼻をひろげ、おばあさんの顔を下から見あげた。
「大けになったらまた銭もうけてくれるん。――健も大けになったら偉ろなってな、銭もうけてくれよ。」
「ん、健大けになったら兄やんになって学校い行くんで。――おばあさん、豚大けになっても、どして学校行かんの。」
健は立ちあがっておばあさんの答えをまった。
「ええ、豚がかいや、学校いかいや、やれまあきょうとやの、きょうとやのう。――健のお父さんはな、小んまいとき学校が偉ろてな、大学校まで行たんじゃけんど、今じゃ職がのうて、職がのうて、銭もうけがでけんがいや、え、健よ、お前もお父さん見たよになるなえ。豚はな、学校に行かいでもちゃんと銭もうけてくれるわいや。」
おばあさんは豚を見い見いしゃがんだ。健はおばあさんの肩に手をかけて、ん、ん、とうなずいていた。
「おばあさん、犬も大けになったら銭もうけるんよ。」
「いいや、犬は糞にもならんわいや、鶏ごろねんがけたりしてな。」
「ふーん、ほんな犬は馬鹿やのう。――ほんな猫は、銭もうけるんよ。」
「猫かいや、猫はもうけんけんど、ネズミ取ってくれる。」
「ほんなかしこいのう。――ほんならあ、うさぎは?」
健はうさぎのように両肘を小脇にあてて、手首をちょんと前に出し、もう豚に横を向けておばあさんと向かいあっていた。しゃがんでいるおばあさんと、立っている健の顔は並んで一尺と離れていない。健は真剣な顔つきで偉いものと、馬鹿なものの区別をした。おばあさんは、むずかしそうに首をかしげて考え考え答えた。
「うさぎか――ええと、そうじゃなあ。うさぎと。うさぎやどうやらもうけてくれるげな。」
「ほんなかしこい。ほんなあ、亀は。」
「こんどは亀か。ええと、亀はあ、――ん。亀はぐずまじゃ、健のようにぐずまじゃ。」
健はびっくりした。口をとがらせた。
「ええい、健ぐずまちがう、ほんな駆けってみようか。」
くるりと向きなおって、走りだした。ちんちくりんの丸い体をふり立てて、とっとと走った。茄子や胡瓜や唐きびの苗床が麦藁をかぶせてある、その上をかまわずどんどん走りまわった。おばあさんは豚が小屋を破ってとび出したときのようにあわてた。追っかけたが、苗床を踏みつけまいと、よけて走るのでなかなかつかまらない。
「こら、健よ、こらえてくれっちゃ、健はぐずまじゃない。こらえてくれ、こらえてくれ。」
おばあさんは地べたを見い見い、着物をはしょって追っかけた。健は鬼ごとをしているようにいい気持で走った。おもしろくてたまらない。おばあさんの鬼は健よりも弱い。
鬼が来んまに豆煎ってかーまそ 健はしゃがんで土をかきまぜ、きゃっきゃっ笑いながらそこらじゅうをとびまわった。そのうち、一段高く土をもり上げた苗床につまずいて、とうとうころんでしまった。しめった土に顔をしたたかぶっつけて急に起きられなかった。やっとおばあさんが来て抱き起した。顔じゅう土だらけになって目も鼻もない。ペッ、ペッ、と唾を吐いた。
「ほら見い、ほら見い。走りよったら危ないんじゃ。泣くなよ、泣くなよ、目々あけなよ。」
おばあさんは片手で健を引っかかえて頭を支え、もうたけて花のついたしゅん菊をむしりとっては口や鼻をぬぐった。しゅん菊の高い香りが健の鼻の奥へつき通るようにしみこんできた。健は土だらけの手を払いのけようとした。
「くさいがい、くさい菜好かんがい。健、くさい菜ほん好かんがい。」
「おおそうかそうか、ちょっと待てえよ。」
おばあさんは健を抱いたまま歩き、今度はほうれん草をちぎってふいてやった。
ぶううん――と、尾を切ったような汽笛がひびいてきた。汽船が健の村の港を出たのであった。
「ほら、ほら、蒸汽が来るぞ、いんま見えるぞ。」
おばあさんはパタパタと健の上着をはらい、パンツをはらった。健も手のひらの土をパチパチはらった。そしておばあさんと同じように額に手をかざして沖を眺めた。岬の鼻から汽船はしずかに姿を現わした。
夕日が映えて海は金色に輝いてまぶしかった。きらきら光る波の上を船はだんだん速力をまして、潮を切ってまっすぐに西へ西へと進んでいった。
「おばあさん、あの船でお母さんは戻らんかいなあ。」
「さあ、戻らんかいなあ。何しよんじゃあろになあ。」
おばあさんはそれをしおに豚小屋をしまいはじめた。低い軒にたくし上げてある莚ごもをおろして小屋をかこっていた。
「お母さあん、早よ戻りい、――健がここにいるぞお――。」
だんだん小さくなっていく船にむかって、健はとんきょうな声をはりあげた。おばあさんも驚き、豚もびっくりして、ガサガサと敷藁をけとばして小屋の中をとびまわった。
「お母さあん、早よ戻ってこーい。」
腰を曲げ、ほんとうに腹の底からしぼり出すような恰好で、顔をしかめて、声をかぎり大きく呼びかけた。声は近くの山にこだましてかえってきた。おばあさんは手早く小屋をかこい終ると、健のそばに来て頭を撫でた。
「健よ、あの蒸汽はなあ、高松い行く船じゃせにお母さんは乗っとらんので。お母さんが乗っとったら、もう今ごろは船から降りて健を迎えに来よるやらしれん。そうじゃ、さあ早よ帰なんか、早よ帰なんか。」
おばあさんは健の肩を引っぱってかけだすような恰好をした。
二人は手をつないで歩いた。
「早よ帰なんかあ、早よ帰なんか。」
おばあさんが歩きながらいうと、健もそれについで、
「早よ帰なんかあ、早よ帰なんか。」
一ぺんがわりに、歌うように調子をとって、それに合わせて道をおりて行った。おばあさんのかついだからっぽの桶がふらりふらりと動いた。
「おしまいなさったかな。」
「へい、お帰り。」
畑帰りの人たちが声をかけながら二人を追いこしてだんだん帰っていった。
早よ帰なんかあ、早よ帰なんか
早よ帰なんかあ、早よ帰なんか
健もおばあさんもやっぱり歌いながら、ゆっくりと石ころ道をおりていった。