21 いちどでいいんだ きみのそばにいく チャンスをくれないか
〈ビコーズ〉
デイヴ・クラーク・ファイヴ
また圧倒的な緑の季節がやってきて、今年最初の中間試験も終わり、もう緑の濃さに目も慣れてしまった。
「滝口。ちょっと、ファズを貸してくれないか」
シールドのジャックをアンプに差しこみながら、広岡がいった。アンプがハムを起こし、すぐにいつものノイズにもどる。
「いいけどさ、やさしく踏んであげてよ。ちょっと接触がおかしいんだ」
慶一がファズ・ボックスと、黒いストレート・コードを広岡にわたした。奴の髪も、慶一ほどではないにしても、かなり伸びている。
「〈サティスファクション〉でも、やるわけ?」
「いや、ベースにつないでみようと思ってよ」
「へえ、やってみよう。どんな音になるのかな」
慶一は、広岡からファズをとりもどして、アンプにつないだ。
広岡がじぶんのギターを教壇に寝かせ、ヤマハのセミアコ・ベースをファズにつなぎ、テニスシューズでフット・スウィッチをゆっくりと踏み、四本の開放弦を鳴らした。なんだか、わけのわからない音だ。
「単音で弾いてみろよ」
奴は左利きなので、右用のベースをひっくりかえして、〈カム・ホーム〉のベースラインを弾きはじめた。
こいつは、きっと、頭のなかもひっくりかえっているにちがいない、と慶一は思っている。
じぶんのギターは、弦をさかさまに張り替えて使っているが、右用のギターでも、そのままひっくりかえしてコードを弾ける。いつだか、リード・ギターは無理だけど、コードなら、逆のほうが弾きやすいのもある、といっていた。どうなってんだ。
それにしても、面白くもなんともない音だ。ギターにファズをかけたのと大差のない音だし、へたをすると、音がブチブチ途切れたりする。慶一は、ファズのアジャストメントを動かしてみる。
「だめだ、こりゃ。ギターに使っても、伸びが悪いんだよ、これ」
「ま、いいや。とにかく、貸しといてくれよ」
広岡はベースからシールドを抜き、じぶんのギターにつないだ。そのたびに、アンプがいやな音をたてる。
「だれか、ガキにとどけさせて。二一二だからね」
「了解。うちの役者にもっていかせるから、なんか芸をさせてみろよ」
「芸って?」
「とにかく、おかしなガキだからよ。遊べるぜ、あいつは」
ビニールレザーのギター・ケースを肩にかけ、慶一は柾生たちをうながした。慶一たちの練習はこれで終わりで、これから、佐藤や広岡たちの番になる。
ファズを手にした人間は、どうしても〈サティスファクション〉のリフを弾かずにはいられない。ノブをつかんだとき、思ったとおり、広岡がそのリフを弾きはじめたので、慶一はクスクス笑った。
だが、廊下に足を踏みだしたとたん、じぶんの見たものに驚いて、慶一はその場に凍りついてしまった。
両手を腰のところに組み、廊下の壁に背をもたせて、令子が待っていた。そのままのかっこうで首をかしげ、令子は慶一にほほえみかけた。
うしろからきた服部が急ブレーキをかけ、そのうしろのほうが混乱したらしく、ハードケースが壁にぶつかる音がした。
「最後にやっていた曲、なんていうんですか」
慶一に二、三歩近づきながら、令子がいった。
「〈イエス・アイ・ウィル〉っていうの」
と、服部が慶一のせりふを横どりしてしまった。
「聴いてたの?」
といってから、慶一は令子が高志の妹なのを思いだした。だが、令子は黙ってうなずいた。
「なーんだ。あれ、きょうはじめたばかりで、まだ、ぜんぜんサマんなってないんだよ」
「そんなことないって。おれの歌、もうバッチリ。おまえらバックが、全然なってないだけ」
うしろからきた柾生が、そういいはる。まあ、たしかに、それはウソではない。この曲は、柾生のきれいなファルセットを生かすために選んだものだ。
ホリーズの曲というのは、ギターはあまりむずかしくないが、ヴォーカルには往生する。いちおう、野瀬とふたりでバックコーラスをやってみたが、話にならなかった。
慶一は、とりあえずじぶんの音程の悪さを棚にあげて、野瀬のせいだと考えている。それは、すくなくとも二分の一の真実ではある。
「慶一さん、ちょっとお話があるんです」
ふたりがならぶと、令子がささやいた。部室から聴こえてくる、〈シークレット・エイジェント・マン〉のイントロのリフに、その声はかき消されそうになる。
「きいたあ? 慶一さん、ちょっと、お話があるんです、だってよ」
服部が人間アンプとなって、令子のささやきを増幅した。
ギターを肩にかけていることも忘れて、慶一は服部にヘッドロックをかけた。
「うるせえな、失礼だろ」
「わかった、わかった。まいった、降参」
と、服部が笑う。
「わるいけど、さきに帰ってくれよ」
服部をおさえこんだまま、慶一が柾生にいう。
「はいはい。ハーモニーの練習は、どうするんですかねえ」
と、柾生がニヤニヤと笑った。
「夕食後にしよう」
「へーい。いつものところね」
それは、西棟四階の非常口のことだ。新しい寮に移って、念願の最上階で練習できるようになり、慶一はアンプなしの練習が苦にならなくなった。
「じゃ、悪さしないように。ふたりで遅れて食堂に入ってきたりしたら、そこらじゅうから口笛もんだよ」
といって、柾生は服部や野瀬と、〈アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア〉を歌いながら、非常口から消えた。当てつけなのは、たぶんまちがいない。
「あの――」
令子が口を開きかけると、部室から〈トゥイスト&シャウト〉の3コードのイントロが流れてきた。チューニングが合っていない。
「待った。うるさくて話にならないから、どっか、いこうよ」
と怒鳴ってから、慶一は頭をフル回転させた。
落ちつけて、めだたず、邪魔が入らず、わざとらしくない場所。そんなところ、あるかな。
「庭園じゃ、どう?」
ちょっとわざとらしい、いや、ひどくわざとらしいが、ほかの条件は満たしている。
「ええ」
すこしためらって、令子は同意した。
このまま一階の廊下を突っきって、反対端の非常口から出るのと、中央の正面玄関から出て、外をいくのと、どちらが目だたないだろうか。これはむずかしい問題だ。
階上のヴェランダにいるだれかに、知らないあいだに目撃されるよりは、だれに見られたかを確認できるほうがマシだろう、と結論をだし、廊下を歩きはじめた。オーディオ部が、すでにこのフロアから四階に引っ越していたことも、慶一の判断を左右した。
「きょうは、クラブは?」
「先生がお休みなんで、みんな、じぶんでしてるんです」
「華道部だよね?」
どうも、バカげたせりふが多いなと、慶一はすこし焦りを感じはじめた。
「高志にさ、きみをKWTSに入れろって、一所懸命いったんだけど……」
中央階段に近づくと、ブラスバンドの音が大きくなった。練習台を叩く音もまじっている。ヘタな奴がいるので、なにがなんだか、わからないリズムに聴こえる。高橋路子先生もたいへんだ。
「高志兄さん、わたしがここに入ることも、反対だったんです」
中央の正面口から射しこむ西陽が、ビニールタイルの床で反射して、慶一の右側を歩きながら、こちらを見た令子の顔を、やわらかい光でつつみこんだ。
「そうだってね、なんでなのかな」
令子はなにもこたえない。化学実験室にさしかかったところで、ようやく、口を開いた。
「たぶん、妹がいたりすると、いろいろ冷やかされると思ったんじゃないかしら」
「そうかもね。KWTSに入れなかったのも、そういうことかな」
化学部って、なにをするのかな。十数人の部員がいるはずなのに、なにも声がきこえないなんて、不気味じゃないか。『ジキルとハイド』が頭をかすめる。
北端の非常口にたどりついた。
だれにも会わなかったなんて、拍子抜けだ。口笛を吹くような礼儀知らずでさえなければ、二、三人でくわしておいたほうが、既得権の誇示になっただろうに。すくなくとも、そう見せかけることはできたはずだ。
ふたりが、非常口から数歩外に出ると、
「はい、三組め!」
という声が、頭上から降ってきた。
ふりかえって見あげると、二階のヴェランダから、山崎が身を乗りだしていた。
それだけではない、ほかにも十人近い連中がヴェランダに鈴なりになっている。物理部の連中だ。
「慶一、助かったぜ。おまえのおかげで、五百円のもうけだ」
「なんの話だよ」
「十五分以内に、この道を何組のアベックがとおるか賭けててよ。ぎりぎりでおまえがきてくれたんで、命びろい」
と、山崎が巨体を揺すった。
「アホ!」
「池はやめとけ、もう、ふた組もいったからな」
連中がゲラゲラ笑った。慶一は、なにもいわずに歩きはじめる。どちらにしろ、池にいくつもりはない。あそこは、校舎からは見えないが、それ以外の三方はがら空きだ。
「いまのトボケた奴、山崎っていうの。いちおう、仲間だけど」
「知ってるわ。あの人、めだつから」
そりゃ、そうだろう。もう一八〇まで、あと二、三センチしかない。
ふたりは、県道へむかう坂道からはずれて、石畳の階段をくだりはじめる。階段といっても、一段が二メートル以上あるのだから、段のついた坂道といったほうがいいかもしれない。
両側には赤いツツジがならんでいる。名前を知らない鳥の声が、ふたりに降りそそぐ。
途中で階段をはずれ、稲妻型に配置された石の上を歩いていくと、東屋にたどりつく。
「紫陽花が咲いていると、最高なんだけどね」
東屋をとりかこむ紫陽花は、まだ色づく気配すらもない。
慶一は腰掛けの上に、ギターをそっと寝かせた。
「いつだったか、わたし、高志兄さんに、写真を撮られたことあるんです。『あじさいの歌』って映画をテレビで見て、おまえも芦川いづみみたいに撮ってやるって」
令子が笑いながら、どこに坐ろうか思案しているように、周囲をゆっくりと見わたした。
「ぼくも見たよ。うちの母親が裕次郎のファンでさ。ものすごくむかしで、よく憶えてないけど」
映画のなかで、大坂志郎が芦川いづみの写真をほしがったように、慶一も、紫陽花に囲まれた令子の写真をほしいと思った。
「ここに坐れば?」
と、慶一は、入口以外のすべてをめぐっている腰掛けの、角のあたりをあいまいに指さして、じぶんは角をはさんだ、となりの腰掛けに坐った。
令子が、慶一の指さしたあたりに坐り、東屋の角とふたりの脚が、小さな正方形をつくる。
「ぼくも去年の合宿のとき、高志に写真撮られたよ」
「それ、知ってます。高志兄さんの部屋に飾ってあったから」
令子は、わたしの写真といっしょに、と小さな声でつけたした。
「へえ、そうなんだ。ぼくには、見せてくれなかったな、あの写真」
高志の部屋といわれて、慶一は二〇二を思いうかべたが、すぐに、自宅のことをいっているのだと気づいた。
高志の家はどんなところだろう。急に、それが知りたくなった。もちろん、それは令子の家でもあるわけだが。
きっと、庭に紫陽花があるのだろう。酸性の土壌では青い花、アルカリ性の土壌では赤い花、それとも逆だったっけ。生物はにがてだ。
「なんだか、考えこんでいるみたいな顔してたわ、慶一さん」
そうだった。あれは、あれの話をきかされたときだった。話を変えなきゃ。
「なにか用なの?」
「用っていうほどじゃないんですけど、もう、お兄さんの誕生日がくるでしょう」
「え、そうなの。いつ?」
「知らなかったんですか。来月の十二日」
「じゃ、二週間とちょっとだ」
と口に出してから、慶一は、無意味なことばを慎もう、と反省した。
「そう。それで、今年はプレゼント、どうしようかと思って」
「プレゼントねえ……」
慶一は考えこんでしまった。高志にはいろいろなものをもらったし、あちこちでおごってもらったが、なにもあげていないことに思いあたった。
「高志兄さんて、むずかしいでしょう。もう、わたしにはよくわからなくて」
「なるほどね」
「慶一さんなら、お兄さんと仲がいいから、なにかいい考えはないかと思って」
考えれば考えるほど、むずかしく見えてきた。
「これって、けっこう難問だな。あいつ、なんだってもってるから」
「そうなんです」
「去年は、なにあげたの?」
「クツ。黒いウィングチップの。あれを履いているのを見たのは、いちどだけ」
慶一はギョッとした。それはたぶん、じぶんのロッカーに収まっているやつだ。
「きつくなったんじゃないのかな、あいつ、背が伸びたから」
どこかから逃げてきたのか、つがいらしい、二羽のセキセイインコが、むかいの腰掛けの背板にやってきて、すぐにまたどこかへ飛んでいった。瞬間の鮮やかな色彩が、慶一の網膜にとどまる。
天啓がひらめいた。こんなチャンスは、だれだって見のがさないだろう。
「あのさ、ちょっと、考えがあるんだ」
「なあに」
「とにかく、高志がなにかほしがっていないか、注意するよ」
といって、ひと呼吸おいた。令子がうなずく。
「それでさ、ぼくも、なにかプレゼントする。それとも、令子ちゃんとお金を出しあって、すこし高いものを買ってもいいしさ……そこでですね」
慶一の妙な口調に、令子は笑みを泛かべた。
「なんですか」
「こんどの外泊のときに、いっしょに、買いにいかない?」
令子は、困惑したようすで黙りこんだ。
慶一には、ホームラン性の打球を追って、フェンスによじのぼった外野手が見える。ホームランか、スリーアウト、チェンジかの分かれ目だ。
「いいんだよ、忘れてよ」
慶一は、すこし乗りだしていた躰を背板にあずけた。ホームランをキャッチしてしまった外野手が、高だかとグラヴをさしあげる。
「そうじゃないんです。お兄さんにナイショにしておくには、どうすればいいのかと思って」
そういわれれば、そうだ。外泊のときは、さすがの高志も、兄らしく令子をエスコートして帰り、いっしょに寮にもどってくる。
「やっぱり、土曜日はむりみたいですね」
光明が見えた。
「じゃ、日曜の午前中は?」
と、できるだけ意気込まず、さりげなく、ことばをすべり落とした――と思うのだが。
「たぶん、だいじょうぶだと思うけれど……」
グラヴのなかは空だった。線審の右手がまわる。ホームラン!
「やった」
といって躰を動かした瞬間、令子の膝頭に、じぶんの膝頭をぶつけてしまい、慶一はあわてて右脚を引っこめた。おたがいに意識して、沈黙がおとずれる。
「どうしよう。土曜の夜に電話していい?」
令子はまた考えこむ。
「高志が出たりするかな」
「そんなことはないと思うけれど、やっぱり、わたしが電話します。だいじょうぶですか」
「うん」
といってから、母親の顔が浮かんできた。まあ、いいや。
慶一はギター・ケースのところにいき、外側の大きなポケットをあけ、スパイラル・ノートとシャープペンシルをひっぱりだし、令子のそばにもどる。
「それ、譜面?」
「ううん。歌詞とコードネイムだけで、音符は書いてない」
これは、練習中に〈カモン・レッツ・ゴー〉の歌詞カードをやぶいてから、国語と数学の時間をフルに利用して、営々と書き写してきた、だいじな労作だ。
「あれって、いい曲ですね」
慶一は、じぶんの電話番号を書いたページをやぶりとった。
「なに、ああ、〈イエス・アイ・ウィル〉か。ホリーズのちょっとまえの曲。二年ぐらいまえ」
モンキーズもカヴァーしている、という注釈はのみこんで、紙片を令子にわたし、慶一は、それが令子に対する誓いのことばにも受けとれる、などということは意識せずに、
「アイル・ビー・トゥルー・トゥ・ユー、イエス、アイ・ウィル」
と、ファーストラインを口ずさんだ。
「あー、バカみたい。もう、今年の生徒名簿、もらったんだったね」
慶一は苦笑した。名簿には全生徒のアドレスがのっている。
「いいんです、これで」
令子は笑みを泛かべて、その紙をていねいに小さくおりたたみ、トランプをもつように、頭をのぞかせて右手にもった。
校服のスカートには、ポケットがあるはずだ。ブラウスの胸にはポケットはないな、と令子の胸に目をやって、あわてて視線をはずした。愛想のない、白いブラウスの上からでも、ちゃんと存在を示している。
しかし、はずした視線は、こんどは令子のひかえめな膝小僧にぶつかり、またしても、落ち着き場所をもとめて、うろつかなくてはならなかった。