Kembali
Masquerade
Table of Contents
Masquerade
徳田秋声
Reading Settings
Ukuran font
18px
Tema
Terang
Gelap
Sepia
Pelindung mata
Spasi baris
Mode baca
Terjemahan Pagera AI
Asli Public Domain
Chapter 2 of 30

二

葉子は何か意気な縞柄のお召の中古の羽織に、鈍い青緑と黝い紫との鱗形の銘仙の不断着で、いつもりゅうッとした身装を崩さない、いなせなオールバック頭の、大抵ロイド眼鏡をかけている一色と一緒に、寂しい夜の書斎に独りぽつねんとしている庸三をよく訪れたものだったが、そのころにはいつまでも床の前に飾ってあった亡妻の位牌も仏壇に納められて、一時衰弱していた躯もいくらかよくなっていた。妻の突然の死で、彼は凭れていた柱が不意に倒れたような感じだった。加世子は自分が生き残るつもりで庸三の死んだ後のことばかり心配していたのだったが、庸三も健康に自信がもてないので、大体そのつもりでいたが、無計画に初まったこの家庭生活はどこまでも無成算で、不安な心と心とが寄り合ってどうにかその日その日を生きていたものであった。最近少し余裕が出来たので、音楽好きの子供にねだられて、やっとセロを一梃買ってやった妻に、彼はあまり好い顔をしなかった。ラブレタアが投函されていたことを、何かのおりに感づいて、背広を着て銀座の喫茶店へなぞも入るらしい子供がいつの間にか父に叛逆的な態度を示すのに神経を痛めている折なので彼はむきになった。しかし加世子は怒りっぽい庸三を、子供に直面させることを怖れて、いつも庸三を抑制した。今は父子のあいだの緩衝地帯も撤廃されたわけだった。日蔭もののように暮らして来た庸三の視界がにわかに開けていた。風呂へ入るとか、食膳に向かうとかいう場合に、どこにも妻の声も聞こえず、姿も見えないので、彼はふと片手がげたような心細さを感ずるのだったが、一方また思いがけなく若い時分の自由を取り戻したような気持にもなれた。彼は再婚を堅く否定していたので、さっそく何か世話しようと気を揉んでいる人の友情に、何の感じも起こらなかったが見知らぬ世間の女性を心ひそかに物色してもいた。女性の前に今まで膝も崩さなかった儀容と隔心とが、自然に撤廃されそうであった。

葉子は下宿へ逢いに来る一色と対で二三度庸三の書斎に姿を現わしたが、ある晩到頭一人でやって来て机の前にいる彼に近づいた。

「私先生のところへ来て、家事のお助けしたいと思うんですけどどう?」

葉子は無造作に切り出した。庸三はその言葉が本当には耳へ入らなかった。

「あんたに家庭がやれますか。」

「私家庭が大好きなんですの。」

「それあ刺繍や編物はお得意だろうが、僕の家庭と来たら…………。」

「あら、そんな! 私台所だってお料理だってできますの。子供さんのお相手だって。」

「そうかしら。」

葉子は少し乗り出した。

「先生の今までの御家庭の型や何かは、そっくりそのまま少しも崩さずに、先生や子供さんのために、一生懸命働いてみたいんですのよ。それで先生の生きておいでになる間、お側にお仕えして、お亡くなりになったら、その時は子供さんたちの御迷惑にならないように、潔く身を退きます。」

「貴女はどうするんですか。」

「私ですの? 私母からもらう財産がいくらかございますの。先生のお宅にいることになれば、着物や何かも仕送ってくれますの。今度来る時、母にもその話をしましたの。無論母も同意ですの。」

「さあ。何しろ僕は家内が死んで間もないことだし、ゆっくり考えてみましょう。そう軽率に決めるべきことでもないんですから。」

庸三も彼女も固くなってしまったところで、葉子を照れさせないために彼は蓄音機を聴きに、裏にある子供の家へ案内した。地続きにあるその古家は、二つに仕切って一方には震災のとき避難して来て、そのままになっている弁護士T氏の家族が住まい、三間ばかりの一方に庸三の上の子供たちが寝起きしていた。庭を横截って二人で上がって行くと、書棚や椅子や額や、雑書雑誌などの雑然と積み重ねられたなかで、子供の庸太郎が、喫茶台の上と下に積んであるレコオドのなかから、彼女に向きそうなチャイコフスキイのアンダンテカンタビレイをかけてくれた。音楽のわからない父にも、それがエルマンの絃であることくらい解ることは庸太郎も知っていた。葉子は足を崩し細長い片手を畳みに突いて、しめやかな旋律を聴いていたが、庸三はこういう場合いつも庸太郎を仲間に引き入れる癖をもっていた。次ぎにファラアのジュエルソング――それからシュウマンハインクのウェルケニヒというふうに択んだのであったが、庸三は庸太郎に恥ずかしいような気がしていたし、庸太郎は庸太郎で夜なかに葉子と二人で来た父に何の意味があるかも解らなかったし、葉子も若いもの同志親しい口を利きたいような気持を、妙に堅苦しい庸三の態度に気兼ねして、わざと慎しみぶかくしているので、あたかも三竦みといった形で照れてしまった。間もなく書斎へ引き揚げた。庸三は一枚あけて行った雨戸を締めながら、暗い空を覗いていたが、

「静かな晩ですね。もう帰ってお寝みなさい。」

「遅くまでお邪魔しまして。では先生もお寝みなさい。」

葉子はそう言って帰って行ったが、庸三は後で何だか好い気持がしなかった。自身が醜いせいか、男女に限らずとかく美貌に憧れがちな彼なので、初めて松川と一対でやって来た時のブルジョア夫人らしい葉子や、小劇場で見た時の浴衣がけの窶れた彼女の姿――特にも頬のあたりの媚めかしい肉の渦など、印象は深かったが、彼女の過去と現在、それに二人の年齢の間隔なぞを考えると、直ちに今夜の彼女を受け容れる気にもなれなかった。

多分葉子に逢っての帰りであろう、翌日一色がふらりとやって来た。庸三は少し中っ腹で昨夜の葉子を非難した。

「山路草葉から僕んとこへまで渡り歩こうという女なんだ。あれが止まなくちゃ文学なんかやったって所詮駄目だぜ。」

「そいつあ困るな。実際悪い癖ですよ。いや、僕からよく言っときましょう。」

一色は自分が叱られでもしたように、あたふたと帰って行った。

それよりも庸三は、寂しい美しさの三須藤子を近づけてみたいような気がしていた。三須は庸三のところへ出入りしていた若い文学者の良人と死に訣れてから、世に出るに至らなかった愛人の志を継ぎたさに、長い間庸三に作品を見てもらっていた。男でも女でも、訪問客と庸三との間を、どうにかこうにか繋いで行くのは、妻の加世子であった。時とすると目障りでもあったが、しかし加世子がいなかったら、神経の疲れがちな庸三は、ぎごちないその態度で、どんなに客を気窮らせたか知れなかった。三須の場合も、お愛相をするのは加世子であった。藤子は入口の襖に、いつも吸いついたように坐っていた。このごろ庸三は彼女に少し寛ぎを見せるようになったが、夭折した彼女の良人三須春洋の幻が、いつも庸三の目にちらついた。その上彼女は同じ肺病同志が結婚したので、痰が胸にごろごろしていた。片身の子供もすでに大きくなっていた。彼女は加世子の生きていたころも今も、同じ距離を庸三との間に置いていた。

それともう一人まるきり未知の女性ではあったが、モデルとしてあまりにも多様の恋愛事件と生活の変化を持っているところから、裏の弁護士に紹介されて、そのころまだ床の前にあった加世子の位牌に線香をあげに来て、三人で彼女の芝の家までドライブして、晩飯を御馳走になって以来、何か心のどこかに引っ繋りをもつようになった狭山小夜子も、そのままに見失いたくはなかった。彼女は七年間同棲していた独逸のある貴族の屋敷を出て、最近芝に世帯をもって何を初めようかと思案していた。

庸三は毛のもじゃもじゃした細い腕、指に光っている素晴らしいダイヤ、大きな珊瑚、真珠など、こてこて箝めた指環、だらしなく締めた派手な帯揚げの中から覗いている、長い火箸のような金庫の二本の鍵、男持の大振りな蟇口――しかし飯を食べながら話していると、次第に昔、左褄を取っていたらしい面影も浮かんで来て、何とも不思議な存在であることに気がついたのであった。彼女は庸三の年齢や家庭の事情などを訊いたが、自身では「そうですね、いろんなこともありましたけれど、とにかくライオンが初めて出来た時、募集に応じて女給になったのが振出しですね」と目を天井へやったきり、何も話さなかった。

田舎ものの庸三はいつかそこで、人を新橋駅に見送った帰りに、妻や子供や親類の暁星の先生などと一緒に、白と桃色のシャベットを食べて、何円か取られて驚いた覚えのある初期のライオンを思い出した。

「あれ三十五くらいでしょう。今五百円のペトロンがつきかけてるそうですが、多分蹴るでしょう。」

帰る途中弁護士は話していた。

庸三はあッとなったものだが、材料払底の折だったので、健康がやや恢復したところで、もう一度同行するように弁護士に当たってみた。しかし何か金銭問題の引っかかりでもあるらしく、「先生一人の方がええですよ」と、彼は辞した。――それきりになっていた。

一日おいて葉子が書斎に現われた。彼女は不意に母に死なれて、手を延ばしてくれさえすれば誰にでも寄りついて行く、やっと九つになったばかりの、庸三の末の娘の咲子を膝にしていた。咲子はいつとなし手触りの好い葉子に懐いていた。葉子はぽたぽた涙を落としながら、自分に誠意があってのことだと訴え、一色から報告された庸三の非難の言葉に怨みを述べ立てた。泣き落しという手のあることも知らないわけではなかったけれど、やっと二十六やそこいらの、お嬢さん育ちの女をそういうふうに見ることも、彼の趣味ではなかった。醜い涙顔に冷やかな目を背向けるとは反対に、彼は瞬間葉子を見直した。彼女は一色に小ッぴどくやっつけられて、出直して来たものらしかったが、何か擽ったいようなその言葉も、大して彼の耳には立たなかった。

「時々来て家を見てくれるくらいは結構です。それ以外のことはいずれゆっくり考えましょう。」

茶の間で子供たちとしばらく遊んでから、葉子は帰って行った。

Chapter 2 of 30
|