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徳田秋声
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Terang
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Sepia
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Terjemahan Pagera AI
Asli Public Domain
Chapter 8 of 8

八

お絹がだいぶ前から苦にしていた大掃除の日が来た。頼んでおいた若い稼ぎ人が来て、道太の陣取っている離れの方から手をつけはじめて、午後には下の部屋へ及んできた。お絹たちは単衣の上っ張りを著て、手拭を姐さん冠りにして働いていた。「さあ京ちゃんところへ行こう」老母はそう言って、孫といっしょに道太を促したてた。

お京の家はつい近くの屋敷町の方にあった。その辺も道太が十三四のころに住まったことのあるところで、川添いの閑静なところにあったそのころの家も、今はある料亭の別宅になっていたけれど、築地の外まで枝を蔓らしている三抱えもあるような梅の老木は、昔と少しも変わらなかった。

お京はちょうど来客があって、下座敷で話していた。いつでも脅かしに男下駄を玄関に出しておくのが、お京の習慣で、その日も薩摩下駄が一足出ていた。米材を使ってはあったけれど住み心地よくできていた。

不幸なお婆さんが、一人そこにいた。お絹の家の本家で、お絹たちの母の従姉にあたる女であったが、ほかに身寄りがないので、お京のところで何かの用を達していた。おばあさんは幾年ぶりかで見る道太を懐かしがって、同じ学校友だちで、夭折したその一粒種の子供の写真などを持ってきて、二階に寝ころんでいる道太に見せたりして、道太の家と自分の家の古い姻戚関係などに遡って、懐かしい昔の追憶を繰り返していた。

「和田さんの家は器量統で、その人も美しかったという話や。お士から町家へお嫁づきなすった」

とかく道太と、そして道太と同じ腹から生まれた姉妹とは、その系統はずれであった。

「しかしいくつです」

「もう七十四です。このお婆さんより二つ上です。少い時分私がこの人を始終お負ぶしてね」

道太はそんながりがりした老婆をかつて見たことがなかった。

「奥さんのお墓参りなさいましたか」

「いずれ帰るまでには……」道太は笑っていた。

「私も一遍おまいりしたいと思うて」

道太はお絹の母である方のお婆さんにも、たびたびそれを言われていた。

そのお婆さんは、自分で手拍子を取りながら、唄を謳って、四つの孫に「春雨」を踊らせていた。子供は扇子を持って、くるくる踊っていたが、角々がきちんと極まっていた。

「お絹ばあちゃがお弟子にお稽古をつけているのを、このちびさんが門前の小僧で覚えてしまうて……」祖母は気だるそうに笑っていた。

それがすむと、また二つばかり踊ってみせた。御褒美にバナナを貰って、いつか下へおりていった。

「ここでも書きものができましょうがね」老母はそう言って、目の先きに木の生い茂っている山を見上げながら、

「山の青々したものはいいもんや」

するうち二人とも横になって、いい心持にうとうとしていた。

辰之助が来たのは、山の上に見えた日影が、もうだいぶうすれたころであった。

「大掃除はどうかね」

「やがて片づくでしょうが、今東京から電報が来まして、りいちゃんが病気だそうだ」辰之助は緊張した表情でそう言って、電報を道太に渡した。

道太はまたかと思って、胸がにわかに騒いだ。

電文は三音信ばかりあった。「リツコジウビヨウビヨウメイミテイダイガクヘニウインシタアトフミ」そういう文言であった。

道太はひどく狼狽したが、かろうじて支えていた。

「こっちへ来ると、何かあるのも変だな」道太は呟いたが、何か東京の方へ通信があって、それで呼び返すための電報じゃないかと、ちょっとそういう疑いも起こった。ここへ来てから、彼は東京へ一度しか音信をしていなかった。しかしその疑いは何の理由のないことは自分も承知していた。

「いったい何時だろう」

「四時です」

断定的に帰宅を促した電文が、それから間もなく辰之助の家からお絹の家へ届いて、道太はにわかに出立を急ぐことになった。

支度をしに二階へあがると、お絹もついてきて、荷造りをしてくれた。

「こんなものはバスケットがいいんでしょう」お絹はそこにあった空気枕や膝掛けや、そうした手廻りのものを、手ばしこく纏めていた。

下へおりると、おひろが知らしたとみえて、森さんももうやってきて、別製の蓮羊羹なぞをおびただしく届けさせてきた。

「先生、これはちょいといいもんです。おひろ一本切ってきてごらん」

道太は二三日前に、芝居のお礼か何か知らんが、辰之助といっしょに、ある閑寂な貸席で、宗匠の御馳走になっていた。宗匠はそこで涼の会や虫の会を開いて町の茶人だちと、趣向を競った話や、京都で多勢の数寄者の中で手前を見せた時のことなどを、座興的に話して、世間のお茶人たちと、やや毛色を異にしていることを、道太に頷かせた。

「こんな物でもお気に入ったら」おひろはそう言って、例の智慧くらべを出してくれた。

荷物を森宗匠に頼んで、道太が辰之助とそこを出たのは、もう六時少し過ぎたころであった。

「わたしは皆さんがおいでると悪いさかえ、お見送りはしません」お絹は幾折かの菓子を風呂敷に包みながら断わった。

「何だかまだ忘れものがあるような気がしてならない」道太は立ちがけに、わざと繰り返した。

兄のところへ行くと、姉が悦び迎えて、

「じつはお出でを願おうかと思っておりました。看護婦がちょっと粗匆をしましたので、あれほど信用しておいでたのに、たいそう腹を立てて薬もいっさい飲まんと言っておいでるので……」

看護婦が傍に泣いて詫びていた。

道太はやがて、兄の枕頭に行ってみた。兄は少しいらだっていたが、少し話をすると、じきに頷いてくれた。

「それから私もちょっと用事ができて、きゅうにいったんかえることになりましたので」道太は話しだした。

「どうもありがとう。わしはまあこれで心配はないから」兄はそう言って、道太が思ったよりさっぱりしていた。

道太はやっと安心して、病室を出ることができたが、しかし次の部屋まで来ると、にわかに兄の歔欷が聞こえたので、彼は思わず足が竦んでしまった。

それから兄の傍を離れるのに、また少し時間がかかった。そして子供のない兄の病床の寂しさを思いながら、辰之助と連れ立ってそこを辞した。

ステイションへは多勢来ていた。二人の姉もふみ江も来ていた。宗匠もおひろも見えたが、道太はそれでもお絹が来ておりはしないかと、乗ってからもあたりに目を配っていた。

すると間もなく、お絹がにわかにそこへ姿を現わした。皆んなは目をそばめた。お絹はちょっと躊躇していたが、やがて窓ぎわへ寄ってきて、

「はいお弁当」と、立つとき言っていた弁当を、手を延ばして道太に渡した。

「それからこれシャボンと歯磨」

「それあ、どうも……」道太はそれを受け取って、ちょっとお辞儀をした。

汽車が出てしまった。いくら心配しても、それだけの時間は、飛躍を許さないので、道太は朝まではどうかして工合よく眠ろうと思って、寝る用意にかかったが、まだ宵の口なので、ボーイは容易に仕度をしてくれそうになかった。

道太は少しずつ落ち著いてくると同時に、気持がくすぐったくなってきた。二十日ばかりのお絹との接触点を振り返えると、今でもやっぱり彼女は謎であった。

●図書カード

Chapter 8 of 8
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