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再び「科学の歴史的社会的制約」に就いて ――岡邦雄氏に答える――
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再び「科学の歴史的社会的制約」に就いて ――岡邦雄氏に答える――
戸坂潤
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Chapter 3 of 5

二

岡氏は「自然科学に特有な二重性」、それに於ける自然と歴史(社会)との特有な対立、を承認しない。その理由は、「社会科学と雖も社会的存在ではありながら自然の裡に自然物として生きる人間を、その人間の実践を、対象とする」、からである。

先ず始めにこの理由を見ると、人間の実践とは、「自然物として生きる人間」の行う仕事であるように見える。処が「人間は、一面に於て動物(自然)としての人間として」社会の内に「入り込んでいる」が、かかる動物としての、人間の一面としての、人間が、「自然物として生きる人間」という言葉の意味に相違ない。そこで動物としての、人間の一面としての、人間が行う実践とは、恐らく行動を意味するのであろう。併しながら私は恰も「論理の政治的性格」に於て、実践の概念が決して単に行動の概念に止ってはならないと云った筈である。実践とは政治的なるものをも意味しなければ完全な概念とはならないと私は其処で云った。実践のこの政治的形態は恐らく、人間としての「動物としての」に対して、人間のもう一つの一面としての、人間が行う処と云うべきであろう。人間が実践的なるものとして把握されるとは、一面に於て単なる行動の主体としてであるが、併し、それがやがて一続きに、政治的行動の主体として、その両面の連続に於て把握される、ということである。であるから社会科学は「自然の裡に自然物として生きる人間」を対象とするには違いないが、もしこのことが充分な意味で「人間の実践を対象とする」ことを意味するならば、社会科学に於ける人間は、「動物」であると共に又同時に特に人間であるものとして、取り扱われねばならぬわけである。今問題になっているのは、社会人である人間が、「動物としての人間」であるかないかではなくて、「動物としての人間」が同時に単なる動物ではないものとしての人間であるか否かである。社会科学は人間を、或る意味に於ける生物学的動物として見るばかりではなく、正にそれと同時に、政治的動物であるものとして見なければならない。或る意味での生物学的動物である人間が、如何にして同時に政治的動物であるかこそ、恰も唯物論的な社会科学の教えようとする処である。経済学は単なる自然の研究ではなくして正にそれに基く歴史の研究であり、それであればこそ経済学はやがて政治学にまで行かねば完結しないと考えられるのである。このような条件の上でこそ初めて、「自然」は人間的「実践」の対象界と考えられ得るのである。併し茲に於ては自然は直ちに実践に、即ち歴史に(歴史の性格は、その実践性にあった)、連続する。社会の自然史という概念も茲で初めてその意味を有つのである。自然と歴史とは対立するが、両者は直ちに連続している。或はより正確に云うならば、社会科学は両者を初めから連続したものとして対立せしめる。岡氏が「交錯」を口にする所以である。

自然科学に於ては然るに、自然と考えられる事物と、それの歴史的(社会的)存在との間には間隙が見出されるであろう。そこでは或る意味に於ける生物学的人間はあくまで生物学的に止るのであって政治的ではない。少くとも生物学にとっては、生物学的人間が同時に政治的でなければならないということは問題にはならない。生物学は政治学にまで連続しなければ完結しないのではない。(之が連続したものはスペンサー流の社会学ででもあろうか。)かくて社会科学に於ては自然と歴史とが連続の上で対立しなければならず、之に反して自然科学に於ては、両者が非連続の上で対立しても結構なのである。私が「対立」を口にする所以である。両者に於ける対立・二重性は異る。――自然科学に特有な二重性は、以上のようにしても再び見出されるであろう。自然科学がそれ自身歴史的所産であるに拘らず、恰も夫が歴史的存在をではなくして、之に対立する自然的存在を対象とする、という事実に基く処の、自然科学に特有な二重性を私は前に指摘したが、この特有な二重性を人々は今、上のような形態の下にも重ねて意識することが出来る筈である。

それが自然科学であろうと、歴史的諸科学であろうと、苟も科学である以上同一の性質を有つと考えねばならぬ、という心の動き方は、何らか一元的な徹底を意味するかのようである。だが、もしこの主張に止るならば、こう主張しっ放しにするならば、それは全く抽象的な同一哲学的主張であり、正に具象的な弁証法の断念である。かかる同一性にも拘らず、その内に人々は事実上の相違を決定して行かねば分析ではない。尤も又、ただ単に相違の指摘に止るならば、区別しっ放しであるならば、それは二元論となる。実際には区別された二つのものは一つのものに媒介されねばならない。同一物の内部に於ける対立――それが二重性なのである――を見失うことは許されない。科学に就いてのかかる二重性として吾々は自然科学と歴史的諸科学との対立を挙げることが出来、この対立が夫々の科学に於ける自然と歴史との対立の仕方自身の対立を結果する。自然科学に特有な自然と歴史との二重性が存する所以である。――吾々はただかくの如き二重性を、又は二重性の在り方の二重性を、科学の階級性にもあて嵌めれば好い。第三・第四の階級性の対立・二重性はそこに結果する。

Chapter 3 of 5
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