中野重治と北陸を旅する記――夏の紀行
中野重治君と一緒に上野を発ったのは、今月の一日の夜である。翌朝の七時前後に富山に来た時、朝飯が食べたくなり、高岡まで何分かかるかと中野君に尋ねたら、一時間だというので駅弁を買ったのだが、食べ始めない内に高岡駅へ着いて了った。十五分程しか間がなかったのである。富山が高岡よりも先だと思って富山までの切符を買ったような中野君に、相談したのは僕の失敗だった。そのため吾々二人は、嵩の高い駅弁を大事そうに擁しながら、出迎えの高岡市の文化人諸氏に初対面することとなった。その弁当には遂に手をつける機会がなく、そのくせ終日胸にモテた。旅館に訪ねて来たお客さんたちと話をしながらも、床の間においてあるそいつに気が取られて話しに身が這入らなかった始末である。この気のおちつかない処を、氷見の海岸へ案内された。講演の仕度が出来ていないので、唐島という離れ島に涼しくなるまで遊んでいることが出来なかったのが残念である。旅館に帰って講演の準備なるものを大いにやろうとしていると、富山県庁から吾々両人に敬意を表すべく警部さんが訪ねて来た。歓談数分に亘った後、後会を約して別れたが、そのおかげで講演準備は台なしとなり、中野君は宿屋のキングを読み、僕は座布団を枕にしてウツラウツラして了った。何でも、この様子では、聴衆はよくて百人、悪ければ五十人位ということだ。
会場は高岡商工会議所で、申し分のない処だが、その暑さは天下一品で蚊の数も人数よりは多かったらしい。それでも入場者は百五六十名以上はあったろう。汗の落ちるのを抑え抑え、中野君はこの頃の新日本派の文学の批判をやり、僕は科学的精神の話をした。あとの座談会も三十名以上の出席者があったから、この講演会はまず成功だったろう。
翌三日の夜は富山市で講演会の予定の処、之は座談会に変更するように指令が来た。入場者も五十名を限るというのである。前売切符の人は皆入れたらしいので、七十名位にはなった。併し前日中野君にこの日の会場を熱心に尋ねていた美しい女詩人?が遂に姿を見せなかったのは中野君のために遺憾である。初めに各々三十分位ずつ吾々が座ったまま話しをして、それから質問に移った。これは相当新しい形式で、対談も成功の方だったが、県当局も、まけてはいず会場の写真を幾枚も撮るという独創的な形式を用いたものだ。その晩は友人の富山の永崎君の処に一泊、翌四日の夕刻から福野という人口五六千の町の座談会だが、之は人員二十名に制限されて了った。その上、座談の初めに当っては五分以上の話を試みてはならず、そればかりではなく、出征兵士の員数其の他や、風俗壊乱に亘ることはいけない、という念の入った達しなので、吾々一同大変恐縮して了った次第である。富山県下では文化講演会の類は極めて前例に乏しく、この町などでは座談会という形式も物珍らしいとかいうことだったがどうもあまり調子よくは行かなかったようだ。
段々尻つぼまりとなる吾々のプログラムは、五日の金沢に於ける講演の取りやめによって、あえなく終りを告げた。無念と云えば無念である。東道の主たる巌木君など柄になく心臓を弱らし、注射を打たなければならなかった程だ。
私もアイスクリームの食べすぎで下痢を始め、田甫の真中の巌木君の家で、丸一日の静養を必要とした。中野君はプロ文学の愛読者である厳父の下に走ったが、僕は悄然として、七日の早朝、上野のホームに下り立ったわけである。
富山県の文化人諸君に会って土地の文化状勢を聞くことの出来たのは、かけがえのない利益であった。聞けばその後同人雑誌のプランも熟したとかいう。この地方を開拓(?)したことは、何と云っても愉快な記憶として残る。(一九三七・八)(七七号、一九三七・八・一五)