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クロイツェル・ソナタ 01 クロイツェル・ソナタ
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クロイツェル・ソナタ 01 クロイツェル・ソナタ
トルストイレオ
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Chapter 2 of 30

一

早春のことであった。わたしたちはもう二昼夜も旅行をつづけていた。短距離旅行の人は、汽車を出たり入ったりしていたが、わたしのように汽車の出たところから乗り通しているものは、三人しかなかった。それは、半ば男物めいた外套を着て小さな帽子を被り、疲れきったような顔をして、煙草をぷか/\吹かす、あまり美しくない相応な年配の婦人と、きちんとした真新しい身の廻りのものを持った、四十恰好の話ずきなその道づれと、ただ一人孤独を守っている背の高くない紳士であった。この紳士はものごしが妙に突発的で、まだそう年寄りでもないらしいのに、房々と渦巻いた髪の毛には早くも白髪が見えはじめ、異様に輝く眼はものからものへと素ばやく走っていた。

彼は一流の仕立屋の作ったらしい、アストラカン皮の襟をつけた古い外套を着、同じくアストラカン皮の背の高い帽子を被っていた。ボタンを外したとき、その外套の下から、袖無外套と刺繍のあるロシヤ式のルバーシカが見えていた。この人の変ったところは、時々咳払いともつかず、またちょっと出しかけてすぐ途切れた笑いともつかぬ、奇妙な音を発することであった。

この紳士は旅行の間じゅう、つとめてほかの乗客の仲間に入ったり、近づきになったりするのを避けるようにしていた。隣席の人が話しかけると、手短かにぶっきら棒の返事をしたり、本を読んだり、窓の外を見ながら煙草を吹かしたり、古い袋の中から食いものを取り出して、茶を飲んだり何か食べたりしていた。

わたしは、この人が自分で自分の孤独に苦しんでいるように思われたので、幾度か話しかけようとしたが、いつも両方から視線が出会う度に(わたしたちは斜かいに向き合って坐っていたので、そういう機会は度々あった)、彼は眼をそらして本を読み始めるか、または窓の外を眺めるかするのであった。

二日目の晩、ある大きな駅に汽車が停ったとき、この神経質な紳士は熱い湯を汲みに行き、自分で茶を淹れ始めた。きちんとした身廻りの品を持った紳士は(後で弁護士だと知れた)、道づれの男物めいた外套を着た煙草好きの婦人と一緒に、停車場へ茶を飲みに出かけた。

この紳士と婦人のいない留守に、四五人の人が車中へはいって来た。その中には、皺の深い顔を綺麗に剃った、背の高い商人らしい老人が交っていた。彼は高価なアメリカ貂の外套を着て、大きな眼庇のついたラシャの帽子を被っていた。商人は婦人と弁護士の真向いに腰を下ろし、同じくこの駅で乗り込んだ手代らしい若者と、すぐに話を始めた。

わたしはその筋向うに腰かけていた。まだ汽車はじっとしているし、それに人も傍を通らないので、二人の話を切れ切れに聞くことが出来た。商人はまず冒頭に、自分は僅か一停車場しか隔てていない、我が領地へ出かけるのだといいだした。それから、いつものお決りで物価のことや、商売のことや、モスクワの景気がどうだこうだ、という話をはじめた。やがて、ニジニ・ノヴゴロッドの市の話も出た。手代は二人とも知合いのさる豪商が、その市で大散財をやったことを喋りだしたが、老人はそれをしまいまでいい終らせないで、昔クナヴィンでやった豪遊の話をはじめた。それには彼自身も加わっていたというのである。見受けたところ、それがご自慢らしく、自分がこの知合いの豪商と一緒に、大きな声では話せないようなことを、そのクナヴィンでし出かした顛末を、さも嬉しそうに物語りだした。すると手代は、汽車じゅうへ響き渡るような声でから/\と笑いだした。すると、老人も黄色い歯を二本剥き出して、同じように笑いだした。

わたしは大して面白い話もなかろうと見切りをつけて、汽車の出るまでプラットフォームを散歩しようと立ちあがった。すると、戸口のところで、何やら生き生きした調子で歩きながら話し合っている弁護士と婦人に行きあった。

『もう間に合いませんよ。』と気さくな弁護士は私に向ってこういった。『もうすぐ二度目のベルが鳴りますよ。』(ロシヤの汽車は第三鈴と同時に出発する)

果して、わたしがまだ列車のはずれまで到着しないうちに、ベルの音が響き渡った。帰って見ると、婦人と弁護士との間で話がはずんでいた。老商人は厳つい眼つきで前を見つめながら無言のまま二人の向いに坐って、ときどき不賛成らしく口をもぐ/\させていた。

『それからね、その女はいきなりご亭主をつかまえて、』ちょうどわたしが傍を通り過ぎたとき、弁護士は微笑を含みながらいっていた。『わたしはあなたと一緒に暮らすことは出来ません、また暮らしたいとも思いません、なぜって‥‥』

それから彼はさきを話しつづけたが、わたしはもう聞き分けることができなかった。わたしのうしろからほかの乗客たちが通り過ぎるし、車掌がやって来るし、労働組合の荷運び人夫が駈け込むしして、ややしばらく騒ぎがつづいたために、話が聞えなかったのである。やがてあたりも静まって、弁護士の声が再びわたしの耳に入った時には、会話は個人的の場合から転じて、もはや一般的な考察に移っていた。

弁護士は、目下離婚問題がヨーロッパ全体の輿論を喚起して、ロシヤでもそうした場合が次第に頻繁に生じつつある、という話をしていた。弁護士は自分の声ばかりが聞えているのに気づき、話を打ち切って、老人の方へ振り返った。

『昔はそんなことはなかったでしょうね?』と彼は気持のいい微笑を浮べて訊ねた。

老人は何やら答えようとしたが、ちょうどおりふし汽車が動きだしたので、彼は帽子を取って十字を切り、小声で祈祷を唱えはじめた。弁護士はそっぽへ眼をそらせて、礼儀をただして待っていた。祈祷が済んで三度十字を切ると、老人は帽子を真直に眼深に被り、居住いを正しながらいいだした。

『以前にもあるにゃありましたが、少のうございましたよ、あなた。』と彼はいうのであった。『今のご時世じゃ、そういうことが起らずにはいませんさ。あまり教育が進み過ぎましたでな。』

汽車は次第に速力を早めながら、レールの継ぎ目でがたん/\音を立てるので、どうも話が聞き取りにくかった。しかし、これは面白いと思ったので、わたしは近くへ席を変えた。わたしの隣にいる眼の鋭い神経質な人も、やはり興味を覚えたと見えて、席から起ちはしなかったが、じっと耳を傾けていた。

『一体どうして教育が悪いんですの?』ほんの心もち微笑を浮べながら、婦人はいった。『では、花嫁花聟が、お互に相手を見たこともないのに結婚していた、あの昔の風がいいとおっしゃるんですか?』と彼女はつづけたが、それは多くの婦人によくある癖で、相手の言葉に答えたのでなく、相手のいいそうなと思われる言葉に答えたのである。

『二人が愛し合っているか、それとも愛し合うようになるかさえも分らないのに、行き当りばったりの人と結婚して、そして一生苦しんだものです。それをあなたはいいとおっしゃるんですの?』明かにわたしと弁護士に話を向けながら、かんじんの話相手たる老人にはほとんど注意を払わないで、彼女はこういった。

『どうもあまり教育が進み過ぎましたよ。』軽蔑したように婦人を見つめながら、その問には答えず商人は繰り返した。

『あなたは夫婦間の不和と教育との関係を、どういう風に説明なさいますかね?』ほんの心もち微笑を浮べながら、弁護士は訊ねた。

商人は何かいおうとしたが、婦人がそれを遮り、

『いいえ、そういう時代は過ぎ去りました。』といった。けれど、弁護士はそれを押し留めて、

『いや、あの方に一つ意見をはかせて上げて下さい。』

『教育の結果は馬鹿げたことばかりですよ。』と老人はきっぱりいいきった。

『お互に愛してもいないものを一緒にして、そのあとで仲が悪いといって驚くんですからね。』弁護士やわたしや、手代の方まで振り向きながら、婦人はせき込んでそういった。手代は席を立って、椅子の背に肘をもたせながら、にこ/\して会話に耳を傾けていた。

『主人の考え通りに番わせることが出来るのは、動物だけですわ。人間はそれ/″\自分のすき好みがありますからね。』と、明かに商人を皮肉るつもりらしく、婦人はこういった。

『奥さん、そんなことをおっしゃるもんじゃありません。』と老人は言葉を返した。『動物は畜生ですが、人間には掟が授けられていますでな。』

『じゃ、愛のない人間とどうして暮らすことが出来ます?』相も変らず婦人は自分の意見を発表しようとあせっていた。恐らく彼女は、それを非常に新しい説だと思っていたのだろう。

『もとはそういうことを詮索しなかったものですて。』と諭すような調子で老人はいった。『それはついこの頃になって始まったことですよ。ちょっとでもどうかすると、女房はすぐ「わたしあなたのところを出て行きます」といいだす。百姓など、そんなことをする柄でもないくせに、近頃そういうことが田舎でも流行り出しましたよ。「さあ、これがお前のシャツと股引だよ。わたしはシカと一緒に行くんだ。あの人の頭髪の方が、お前よりよっぽど房々しているんだもの」まあ、こういう有様ですよ。しかし、女には何より一番におそれがなくちゃならんて。』

手代はやっとのことで微笑を抑えながら、弁護士と、婦人と、それからわたしの顔を見やった。そして、一座の形勢いかんによって、当人の言葉を冷笑するなり、賛成するなり出来るように心構えをしていた。

『おそれとはなんですの?』と婦人は訊ねた。

『なんでもない、自分の夫を恐れなけりゃならん! つまり、そのおそれなんですて。』

『まあ、お爺さん、そんな時代は過ぎてしまいましたよ。』いくぶん憤怒の色さえ浮べながら、婦人はこういった。

『いいや奥さん、この時代は過ぎ去るわけにゆきませんて。女が、イヴが男の肋骨で創られてからこのかた、世の終りまで永劫そのままで通すんですよ。』と老人はいかにも厳かな調子でいい、勝ち誇ったように首を振ったので、手代は途端に、勝利は老人の方へ落ちたと決めてしまって、大きな声で笑いだした。

『ええ、それは男の方はみんなそういう風に論じなさいますよ。』と婦人は屈する色なく、わたしたちを見廻しながらいった。『自分では自由を握りながら、女は家の中へ押し籠めておこうとなさるんですわ。多分ご自分たちにすべてを許していらっしゃるんでしょうよ。』

『許しなどは誰も与えるものはありません。しかし、男の放埓は何も好くない結果をわが家に持ち込みはしないが、女はまるで脆い器みたいなもんだでなあ。』と商人は説きつづけた。胸に浸み込むような商人の語調は、明かに聴手を征服したのである。わけても、婦人はすっかり圧倒されたような気がしたが、それでもまだ降参しなかった。

『そりゃそうですわ。でも、まあ、考えてごらんなさい。女だって人間ですから、男の人と同じように、感情というものを持っていますわ。もし夫を愛していなかったら、その女は一体どうしたらいいんでしょう?』

『愛していないんですと?』と商人は眉や脣を動かしながら、厳しい声で繰り返した。『多分愛するようになるでしょうよ!』この意想外な論法は、殊のほか手代の気に入ってしまったので、彼は賛意を表わすために妙な響をたてた。

『いいえ、愛するようになりゃしません。』と婦人はいった。『もし愛がなかったら、無理じいをするわけにはゆきませんからねえ。』

『では、もし妻が夫に背いたら、その時はどうしますか?』と弁護士が訊ねた。

『そういうことはあるまじきことですよ。』と老人はいった。『そういうことは、よく監督しなきゃなりませんて。』

『でも、ひょっとそういうことになったらどうします? 実際よくあるやつですからね。』

『どこかよそではあるかも知れませんが、わしらの仲間では決してありません。』と老人は答えた。

一同は口をつぐんだ。手代はちょっと身動きして、また少しそばへ寄り、ほかのものに負けたくないらしい様子で、にた/\笑いをしながら口をきった。

『さよう、わっしたちの仲間の若い男のところでも、一つ外聞の悪いことがおこりましたよ。やっぱしはっきり筋道を立てるのはむずかしゅうござんすが、こいつもある女に引っかかったんです。女房に貰って見たところ、それが淫乱なやつでしてね、早速いたずらを始めたんですよ。ところで、その男は中々しっかりした、頭のいい若い衆でした。女のやつ、はじめは店のものとくっつき合ったのです。亭主は理を尽していい聞かせたが、中々きこうとはしないで、ありったけの馬鹿を尽すじゃありませんか。しまいには、亭主の金まで盗み出すようになりました。で、男は女房を撲りなどしましたが、どうでしょう、女はだんだん悪くなる一方です。失礼なお話ですが、とうとう邪教のユダヤ人と乳繰り合ったのです。一体男の方じゃどうすればいいんでしょう? とどのつまり、女を棄ててしまって、そのまま独身で暮らしています。女の方は諸所方々うろつき廻っていますがね。』

『だから、その男は馬鹿なんだ。』と老人はいった。『もしはなから、女に勝手な真似をさせないで、うんと腹にしみるように懲らしめておいたら、女房もひきつづき無事に暮らしていたろうに、はじめから気ままをさせちゃいけない。野良の馬と家の中の女房に心を許すなでな。』

このとき車掌がやって来て、次の停車場の切符を請求した。老人は自分の切符を渡した。

『さよう、女というものは、手遅れにならんうちに懲らしめておかんと、すっかり滅茶々々になってしまいますて。』

『そうですね、しかしあなたは先ほど自分で、妻のある男がクナヴィンの市場で大騒ぎした話をなすったが、あれは一体どういうんです?』とわたしは我慢しきれないで問いかけた。

『それはまた話が別でさあ。』といって、老人は黙り込んでしまった。

汽笛の音が響きわたったとき、商人は腰掛の下から袋を取り出し、外套の前を掻き合せた後、ちょっと帽子をもちあげて、車掌台の方へ出て行った。

Chapter 2 of 30
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