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卑弥呼考
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卑弥呼考
内藤湖南
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Terang
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Terjemahan Pagera AI
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Chapter 5 of 7

四、本文の考證

本文は上に掲げたれば、此には主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。猶ほ事の次でに述ぶべきは、前號の發刊後、友人稻葉岩吉氏が宮内省圖書寮に藏せらるゝ宋槧本三國志を以て、余が録せる本文を校正し、其の異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の舊藏にして、經籍訪古誌にも出でたる者なり。其異同は各々其字句の下に擧ぐべし。

帶方  漢末公孫氏が遼東に據りたる時、置きたる郡名にして、魏が公孫氏を亡ぼせる後も、之に因りたり。本と樂浪郡の縣名なりしを陞せて郡としたるにて、樂浪の南、即ち今の韓國の忠清、全羅二道の間に當るべし。松下見林が帶方會稽郡名。今八地方といへるは妄なり。舊百餘國。漢時有二朝見者一。今使譯所レ通三十國。  舊時を説くは前漢地理志に據り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。史通に魏時京兆魚豢私撰二魏略一。事止二明帝一。とあれども、三國志に引く所の魏略の文は、正始嘉平の際に及ぶ者あれば、其の記する所、齊王芳の世を包括せること明らかなり。されば此に今といへるも、齊王芳の世を指せるか。菅氏が之を以て陳壽が自ら其時を指すとせるは、高句麗傳等の例を察せざる誤なり。到二其北岸狗邪韓國一  同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。日本紀にありては南加羅に當るべし。こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり。後漢書に樂浪郡徼去二其國一萬二千里。去二其西北界拘邪韓國一七千餘里といへるも、二の其字は皆倭國を指せり。然るに菅政友氏は誤りて之を韓國を指せるものとして北岸といへるを疑へり。此誤は蓋し當時狗邪韓が已に倭國に服屬せることを思はざるに出づ。魏志の韓傳に云く、韓在二帶方之南一。東西以レ海爲レ限。南與レ倭接と、又弁辰傳に其涜盧國與レ倭接レ界といへり。弁辰涜盧國は吉田氏之を今の陝川郡に當てたるはよし、然るに其の倭と接界すとあるをば、涜盧津として、別に東莱府多太浦に當て、二つの涜盧あるが如く説きしは牽強なり。涜盧は唯一にして古の大良州郡、日本紀の多羅なること疑ひなし。若し韓國内に倭の領土なくば東西南並に海に限らるべき理にして、又其内地の涜盧國が倭と接界すべき理なし。此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る。對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、  對馬は宋本に對海に作れるは誤なり。一大國は本居氏が北史に據りて、一支國と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壹岐なり。末盧を肥前の松浦とし、伊都を筑前の怡土とし、奴を儺縣、又那津、不彌國を應神天皇の誕生地たる宇瀰に當つることは本居氏以來、別に有力なる異説もあらざればすべて之に從ふ。南至二投馬國一。水行二十日。  之には數説あり、本居氏は日向國兒湯郡に都萬神社有て、續日本後記、三代實録、延喜式などに見ゆ、此所にてもあらんかといへり。鶴峰氏は和名鈔に筑後國上妻郡、加牟豆萬、下妻郡、准上とある妻なるべしといへり。但し其の水行二十日を投馬より邪馬臺に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説を擧げ、一は鶴峰説に同じく、二は投を殺の譌りと見て、薩摩國とし、三は和名鈔、薩摩國麑島郡に都萬郷ありて、聲近しとし、更らに投を敏の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をも擧げたるが何れも穩當ならずといへり。國史眼は設馬の譌りとして、即ち薩摩なりとし、吉田氏は之を取りて、更に和名鈔の高城郡托摩郷をも擧げ、菅氏は本居氏に從へり。之を要するに皆邪馬臺を筑紫に求むる先入の見に出で、南至といへる方向に拘束せられたり。然れども支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる處にして周防の一宮と稱せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に當れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に據有せられて、五萬餘戸の聚落を爲せしことも想像し得べし。日向薩摩の如き僻陬とも異り、又筑後の如く、路程の合ひ難き地にもあらず、此れ余がかく定めたる理由なり。南至二邪馬壹國一。水行十日。陸行一月。  邪馬壹は邪馬臺の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。本居氏は明らかに其地を指定せざれども、日向大隅地方と看做したるべし。鶴峯氏は邪馬臺は襲人の僭稱にて、おのれがをる處を皇都大和に擬して呼しものなり、今も琉球人は薩摩をさしてやまとゝいふなり、琉球の童謠にりゆうきうとやまとが地つるぎならば云々(地つるぎは地續をよこなまれるなり)水行十日は、十日の上に二字を脱せるなりといへり。菅氏吉田氏の説も略之に同じくして詳なるを加へ、大隅國噌唹郡の中なる國府郷小川村の隼人城、清水郷姫木村姫木城あたりに擬し、星野恆氏、久米氏は之を筑紫國山門郡にあてたり。其陸行一月とあるを一日と改め讀むことは諸説皆一致せり。然るに此の陸行一月の字は魏略及び三國志より出でたる梁書、北史を始め、太平御覽、册府元龜、通志、文獻通考等、一も一日に作れる者なければ輕々しく古書を改めんことは從ひ難き所なり。鶴峰氏の水行十日を二十日とするは更に據なし。本居氏の説の如く、いつはりて魏の使を受つるなどは、菅氏も兒戲に等しとし、たとひ邊裔なればとて、有るべくも思はれずといへり。菅氏は當時、漢國にて倭と指しゝは、筑紫九國の地なれば、其を領きて威權ありし者を倭王とは稱へしなり、大和に天皇の坐しますことはもとより知らざりしさまなりといへり。然るに此説は邪馬臺が筑紫に在りしを證するには不十分なり。且つ日本紀によれば、意富加羅國王の子、都怒我阿羅斯等が日本國に聖皇ありと聞きて、歸化して穴門に到りし時、其國人伊都都比古、吾は是國の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と爲りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、後世に於ても、明の太祖が僧祖闡等を日本に遣はせし時、征西將軍に抑留せられたれども、猶ほ京都に持明天皇あることを知れるなどより推すに、魏國の使が親しく筑紫に來りて其の内亂にまで遭遇しながら、大和の皇室あることを耳にだもせざるは有り得べき事とも思はれず。琉球にてやまとゝいへる語も、大和朝廷の威力が九州に及びし後に交通して得たる者ならば、據るに足らず。隋書及び北史に倭國都二於邪摩堆一、則魏志所レ謂邪馬臺者也といへり。是れ隋の時には大和を以て邪馬臺と看做したる證なり。東晉より宋、齊、梁の代に亙りて倭王讚珍濟興武等が朝貢の記事は宋梁各書に見えたるが、之を以て大和朝廷の正使にあらずして邊將の私使なりとするの説あるも、其の上表文によれば、大和朝廷の名を以て交通したる者なるは明白なり。されば梁代に當りて、大和朝廷の存在は明らかに彼國人に知られたるは勿論なるが、梁書は當時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。かくの如く支那の記録より視たる邪馬臺國は、之を大和朝廷の所在地に擬する外、異見を出すべき餘地なし。其投馬國より水行十日陸行一月といへる距離も、奴國あたりより投馬までの距離を水行二十日と算するに比しては、無理なりとせず。又當時七萬餘戸を有する程の大國は、之を邊陲の筑紫に求めんよりも、之を王畿の大和に求めん方穩當なるに似たり。此れ余が邪馬臺國を以て、舊説の大和に復すべしと思へる理由なり。尤も邪馬臺と呼べる土地の限界は、恐らくは今の大和國よりは廣大にして、當時の朝廷が直轄したまへる地方を包括するならん。斯馬國  本居氏は筑前國志摩郡か或は大隅國噌唹郡志摩郷かなるべしといひ、吉田氏も亦以て櫻島とす。余は之を志摩國とす。附て云く、余が地名を考定する方針は和名鈔の郡郷等につきて聲音の類せる者を彙集し、其中に就きて地望に準じて然るべき者を擇び取るに在れど、こゝには唯だ其の擇び取れる結果を示すのみ。以下皆此に倣ふ。已百支國  吉田氏は之を伊爾敷と訓み、薩摩國麑島郡伊敷村に當てたり。余は之を石城と訓む。栗田寛氏の古風土記逸文に伊勢國石城の條に日本書紀私見聞を引て云く、伊勢國風土記云。伊勢云者伊賀事志社坐神。出雲ノ神ノ子出雲建子命。又名伊勢都彦命又名天櫛玉命。此神昔石造レ城坐二於此一。於是阿倍志彦神來集不レ勝而還却。因以爲レ名也云々と、則ち此の石城なり。伊邪國  吉田氏は薩摩國南北伊作二郡とす。余は志摩國答志郡なる伊雜宮所在地とす。即ち天照大神遙宮と延暦儀式帳、延喜式神名帳等にいへる者なり。又伊勢國度會郡にも伊蘇郷あり、伊蘇宮、伊蘇國は並びに倭姫命世記に出でたり。郡支國  明南監本、乾隆殿板本は並びに都支に作れども、宋元本に從て郡支に作るべし。吉田氏は串伎、即ち今の大隅國姶羅郡加治木郷なりとす。余は之を伊勢國度會郡棒原神社の所在地にあてんとす。谷川士清の和訓栞「くぬぎ」の條に云く、神名式伊勢國度會郡に棒原神社見ゆ、こは棒ノ字字書の義に違ひたれば欅原にて訓もぬをすに誤りたる也社地今田ノ邊郷淺管村に在り萬葉集に

度會の大河のへの若歴木われ久ならば妹戀ひんかも

とあり。神名帳考證にも棒は欅字の誤也、久奴木の略語奴木原也、長谷街道也とあり。和名鈔に又度會郡沼木(奴木)郷あり。

彌奴國  吉田氏は薩摩國日置郡市來郷の湊かといへり。余は之を美濃國とす。好古都國  吉田氏は之を好占都に作り笠沙、即ち今の川邊郡加世田郷とす。余が見たる諸本、一も好占都に作れる者なし。故に舊に從て讀み、美濃國各務郡、若くは方縣郡を當つべし。備前和氣郡に香止(加加止)郷ありて聲音はよく通へども、地勢の連絡なきを奈何せん。

附記、松下見林の異稱日本傳には次有伊邪國より好古都國に至る二十一字を脱したり。本居氏の馭戎慨言にも同數の字を脱したるを見れば、本居氏は異稱日本傳によりて説を爲し、三國志の原本をも檢せざりしことを知るべし、其の力を用ひたる考證にあらざること明かなり。然るに其説のよく後人を動かせしは、一は後人の其名に眩せられ、一は國人の自尊心に投ぜしに由るのみ。

不呼國  吉田氏は薩摩國日置郡日置郷とす。余は伊吹山の邊にある伊吹、即ち和名鈔の美濃國池田郡伊福とす。伊福吉部氏の占據せし地なるべし。姐奴國  本居氏は之を伊豫國周敷郡田野郷とし、吉田氏は訓で谿とし、薩摩國谿山郡とす。是れ皆姐を以て妲と爲せるなり。然るに諸本妲に作る者なし。余は之を近江國高島郡角野郷とす。津野神社あり、川上郷廿餘村の産土神にして、都奴臣の祖、木ノ角ノ宿禰を祀ること、栗田氏の神祇志料に見えたり。對蘇國  本居氏は土佐をいふかといひ、吉田氏は薩摩國阿多郡田布施郷とす。即ち和名鈔の田水郷なり。土佐とよむは、聲音に於て最も適へども、地勢隔離すれば、余は姑らく之を和名鈔の近江國伊香郡遂佐郷に擬すべし。蘇奴國  吉田氏は之を噌唹即ち今の大隅國西噌唹郡とせり。余は之を延暦儀式帳、倭姫命世記に所謂佐奈縣なりとす。伴信友の倭姫命世記考に云く、佐奈縣は古事記上卷に佐奈縣(イセ也)中卷伊邪川宮段に伊勢の佐那造、帳に伊勢國多氣郡佐那神社とあり、佐那は今多氣郡に佐那谷とて一谷の大名にて、村八村ありとぞと。呼邑國  吉田氏は大隅國肝屬郡鹿屋郷とす。余は伊勢國多氣郡麻積(乎宇美)郷とす。中麻積公の祖豐城入彦命を祀れる麻積神社あり。又倭姫命世記に櫛田よりして御船爾乘給弖幸行、其河後江爾到坐、于時魚自然集出天御船爾參乘支、爾時倭姫命見悦給弖、其處爾魚見社定賜支とあり。伴氏の考に魚見社は神名祕書に機殿、儀式帳云、魚見社三前、月讀命、豐玉彦命、豐玉姫と見えたり、延喜式神名帳にも多氣郡魚見神社見えたり、麻積と關係ありげにも見ゆ。華奴蘇奴國  吉田氏は噌唹の別邑(今東噌唹郡にや)歟といへり。余は二の擬定地あり、一は遠江國磐田郡鹿苑神社の所在地なり。一は古事記に八島士奴美神の子に布波能母遲久奴須奴神あり、母遲は大穴牟遲神の牟遲に等しく、貴の義にして韓語の matai (上の義)に當り即ち不破の國主なり。久奴須奴といへる神名も、古代の習として地名を取りたるべければ、之を華奴蘇奴に當てんと思ふなり。鬼國  本居氏は肥前國基肄郡なりとし、吉田氏は城、即ち薩摩國高城郡なりとす。されども鬼の音はクヰにしてキにあらず。古音は又魁、傀、槐等に近かるべければ、寧ろ桑の訓にあてゝ、尾張國丹羽郡大桑郷か、美濃國山縣郡大桑郷などにあてん方穩かならんか。爲吾國  松下氏はイガと訓みたれば伊賀に當てたるならん。本居氏は筑後國生葉郡にあて、吉田氏は可愛即ち今の薩摩國薩摩郡高江郷に當てたり。然れども當時の爲の音はウヰ若くはウワ、クワなるべければ、余は之を三河國額田郡位賀郷即ち今の岡崎地方、若くは尾張國智多郡番賀郷にあてんとす。鬼奴國  松下氏はキノと訓みたれば紀伊國に當てたるなるべし。吉田氏は今の薩摩國出水郡阿久根なりとす。余は之を伊勢國桑名郡桑名郷に當てんとす。邪馬國  本居氏は豐前國下毛郡に山國あり、又景行紀に八女縣といふも見ゆるといひ、吉田氏も八女即ち今の筑後の山門及上妻下妻二郡なりとせり。余は伊勢國員辨郡野摩(也末)なりとす。躬臣國  吉田氏は其名審にし難しといへども、猶今の三潴御井の地にあたるといへり。余は伊勢國多氣郡櫛田(久之多)郷なりとす。倭姫命世記にも御櫛落し賜ひて、櫛田社、定賜ふことあり、儀式帳にも櫛田根椋の神御田奉ること見え、神名帳には多氣郡櫛田神社、櫛田槻本神社、大櫛神社等あり。巴利國  吉田氏は原、即ち今の筑後國御原郡なりとす。余は之を尾張國若くは播磨國に當てんとす。支惟國  吉田氏は之を以て肥前の基肄郡としたり。大和の附近にては、之を紀伊とも見るべけれども、惟の音ウヰより推せば寧ろ吉備に當てん方的當ならん。烏奴國  本居氏は周防國吉敷郡宇努郷とし、又大野といふ處も西の國々にこゝかしこ見えたりといへり。吉田氏は大野、即ち今の筑前の御笠郡大野山なりとす。余は之を備後國安那郡に當てんとす。國造本紀に吉備穴國造あり、孝昭帝の皇子天足彦國押人命の後、彦國葺の孫八千足尼を定められ、又安那公といふよしも姓氏録に出づ。景行紀に穴海あり、安閑紀に婀娜國あり、即ち安那、深津二郡を兼ねて海に瀕せる地なることは、吉田氏の地名辭書にも見えたり。奴國  即ち前に出でたると同じ。此女王境界所レ盡。其南有二狗奴國一  其南とは奴國を承けて言へるなり。菅氏が之を汎く女王國の南と解したるが爲に、反て三國志を疑ひ、後漢書の恣意改竄して、自二女王國一東度レ海千餘里、至二拘奴國一といへるを正しとして取りたるは、善く讀まざるの過なり。後漢書の取るに足らざることは已に言へり。本居氏も後漢書によりて、伊豫國風早郡河野郷を狗奴國とし、吉田氏も其誤りを襲へり。余は之を肥後國菊池郡城野郷に當てんとす。即ち奴國の南に當れる地なり。會稽東治  治は冶の訛りなり。續漢書郡國志に會稽郡に東冶縣なし、楊守敬が三國郡縣表補正に其の誤脱なることを辯ぜり。今の福州府治なり。    以上 地名を考證し畢る。(以上明治四十三年六月「藝文」第壹年第參號) 次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、辯證を費すを須ひざれば、主として、其餘從來未だ解釋せられざりし者に就て試みんとす。

爾支  隋書、北史に擧げたる我國の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稻置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の轉訛と見るべし。泄謨觚、柄渠觚、馬觚  泄謨觚も馬觚もみなシマコ、即ち島子と訓むべきに似たり。但し我が上古にかゝる官名、もしくは尊號ありといふことを聞かず。柄渠觚はヒココ即ち彦子などゝや訓むべき。されど此も亦古書に證例なければ、確かには定めがたし。多模  タマ即ち玉、魂と訓むべし。櫛玉命、櫛明玉命、天明玉命、天太玉命、豐玉彦命又倉稻魂命、宇都志國玉神など、玉、魂の語を有せる神名甚だ多し。本居氏の古事記傳には宇迦之御魂の御魂を解して恩頼(神靈又靈などもあり)又萬葉五(二十六丁)に阿我農斯能美多麻多麻比弖などある意にて其功徳を稱へたる名なりといひ又宇都志國玉神の玉は御靈なり、故國御魂と云なり、故此名は此神に限らず、倭大國魂神、高市ノ郡吉野ノ大國栖御魂ノ神社、山城ノ國久世ノ郡水主ニ坐ス山背ノ大國魂命ノ神、和泉ノ國日根ノ郡國玉ノ神社、攝津國東生ノ郡生國魂ノ神社、兎原ノ郡河内ノ國魂ノ神社、伊勢ノ國度會ノ郡大國玉比賣ノ神社、度會乃大國玉比賣ノ神社、尾張ノ國ノ中島ノ郡尾張ノ大國靈神社、遠江ノ國磐田ノ郡淡海ノ國玉ノ神社、能登ノ國能登ノ郡能登ノ生國玉比古ノ神社、對馬上ツ縣ノ郡島ノ大國魂神社など各其國處に經營の功徳ありし神を如此申して祀れるなり、右の外にも國々に國玉ノ神社大國玉ノ神社と云多し皆同じといへり。(傳卷九)是にて大かたは釋き得たりと思はるれど更に一證の擧ぐべき者あり、新撰龜相記(友人富岡謙藏氏が井上頼國博士の藏本より傳鈔せる者によれり井上本は吉田家の祕書を寫せる者なりと云ふ)に今祭二卜部坊一櫛間智神社とありて其の注に母鹿木神社也、一云ク櫛玉命とあり。されば間智といへる語と玉といへるとは同義なることを知るを得べし。間智は宇麻志麻遲命の麻遲に同じく、荒木田守良が鹿龜雜誌(富岡氏藏本)に麻遲の名の古書に見えたるを擧げて、宇麻志麻遲命の外に神名帳の遠江國佐野郡己等能麻知神社、近江國高島郡麻知神社、及び中臣壽詞に麻知波弱韮仁由都篁生出牟とあるを引き、其の釋義は明かならずといへり。意ふに是れ亦大名持、大穴牟遲、大己貴の持、牟遲、貴及び神功紀五年に見えたる新羅人、富羅母智の母智と同じく、韓語にては上の義なること、此の富羅母智に當るべき人を、三國史記には朴堤上とし、三國遺事には金堤上とし、いづれも母智が上の義なることを推すに足るが上に、訓蒙字會には上を matai と訓じ、恰かも我が古書が貴をムチと訓むに當れるに徴しても知るを得べく、かくてタマ即ち多模も亦上、貴の義にて地方君長の尊稱と解することを得べし。本居氏が布刀玉命を釋して、特に玉を手向の義としたるは、穿鑿に過ぎたり。(古事記傳八)彌彌、彌彌那利  彌彌は天忍穗耳、神八井耳、手研耳などの耳と同じかるべし。古事記傳卷七に、天忍穗耳命の名義を釋して、耳は尊稱なり(耳字はもとより借字)下に布帝耳神と云あり、又神武天皇の御子たちに某耳と申す多く、其外の人名にも多かる、皆同じことなり(中略)さて耳てふ尊稱の意は、美は比に通ひて、かの産靈などの靈なるを靈々と重ねたるものなり、開化天皇の大御名大毘々命と申す是なり、此を書紀には太日々尊とありて、垂仁卷に太耳と云ふ人ノ名もあるを以て日々と耳と同じきことを知るべし、又明ノ宮ノ段なる前津見てふ人名を、書紀には前津耳とある(又水垣宮ノ段に、陶津耳とあるを、舊事記には大陶祇と云ふも、據あるなるべし)を以て耳と云は美を二つ重ねたるにて、見と云は、其を一つ略けるものなることを知べし云々とあり。此にて彌彌の義は明らかなり。彌彌那利は我が古書に其語見えず。景行紀十二年に御木川上に居れる賊を耳垂といふこと見えたり。音やゝ近し。但し紀の文にては鼻垂といへる賊と相并べて出でたれば、地方君長の尊稱とも見えざれども、傳説の混入多き古記には、彌彌那利の尊稱を種として、耳垂、鼻垂の説話を生出さずとも限らざれば、姑らく此に擧げて參考とするのみ。伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳  梁書及び南史には彌馬升なし、蓋し脱落ならん。宋本太平御覽(近ごろ又友人稻葉氏を煩はして宋活字本御覽を圖書寮の宋槧本に對校せるに四夷部の倭國の記事中三國志を引ける者は全く相同じき由を報ぜられたり因て以後は皆宋本として引用せり附記して稻葉氏に深謝す)には彌馬升を彌馬叔に作れり、是れ叔を古寫本などに※に作るより生ぜし異同なるべし。今いづれを正しとも決し難けれども、二字の音も相遠からざれば、いづれを取らんも妨げなきに似たり。此の四の官名は邪馬臺國のものなれば、此の記事考定の資料としては、最も重要なる者なり。凡そ此の倭人傳の官名考定は從來史家の甚だ等間に付せし所なるが、余は最も之に注意し、明らさまに言へば、先づ此の四の官名を考へ得たるによりて本傳考定の鍵を得たるなり。第一の伊支馬といへる語には神名帳には大和國平群郡に往馬坐伊古麻都比古ノ神社二座あり、栗田氏の神祇志料に、北山鈔を引て、凡そ大甞祭膽駒社の神部をして火鑽木を奉らしむといひ、又神名帳頭注を引き、卜部龜卜次第奧書を參して、卜部氏又此神を祭て、龜卜火燧木ノ神と云といへり。新撰龜相記にも又祭二卜部坊一行馬社(一名膽駒社在大和國平群郡)火燧木神也とあり。されば此神を祭る卜部の官氏を指して伊支馬とせるか、此れ一説なり。又垂仁天皇の御名を活目入彦五十狹茅天皇(記には伊久米伊理毘古伊佐知命)と申し奉れり。我が上古の制度には御名代といふことありて、景行天皇の世に日本武尊の功名を録せんが爲に武部を定め賜ひしこと書紀に見ゆ。御名代と并び行はれし御子代の制度は、垂仁天皇の世に御子伊登志和氣王、子なきに因て、子代として伊登志部を定めたること、古事記に出でたれば、此の二樣の制は、其の起源更に記録に見えたるよりも古かるべし。記紀等には垂仁天皇の御名代を定められたりとの事實見えざれども、當時の制度よりして言へば有り得べからざることにあらず、この伊支馬は或は垂仁天皇の御名代ならんも知れずと思はるゝこと、此れ又一説なり。又書紀には、大伴氏が率ゐる來目部遠祖天津大來目といひ、大來目部といへるあり、記には久米直等の祖天津久米ノ命あり、本居氏は其の大伴氏に屬せりや否やに就きて議論あれども、要するに其上古に於て、大なる官氏たりしことは疑ひなし。伊久米といふは伊久久米の省略にてもあらんか。伊久は伊香、嚴などゝ同じく蒙古語の yeke に通ひて、大の義なるべければ、伊久米も大來目も同義なりといふことを得べし。活目入彦の入は親み愛みて云る稱なること、本居氏の説の如く、又孝徳紀二年に見えたる子代ノ入部、御名ノ入部の事などを參し、垂仁天皇の來目の高宮に坐せしことどもを取綜べて考ふれば、大來目部と此の天皇とは何等かの關係なくんばあらざるに似たり。されば伊支馬の官名を、大來目部と垂仁天皇の御名代と兩樣に縁ありと考へんことも不可なかるべし。次に彌馬升と彌馬獲支とは、相似たる官名なれば、一併に説くを便とせんか。上の垂仁天皇の御名代といふ事に考へ合すべきは、崇神天皇の御名を紀に御間城入彦五十瓊殖天皇と申し奉ることなり。(記には御眞木入日子印惠命とあり)此外にも孝昭天皇を紀に觀松彦香殖稻天皇(記には御眞津日子訶惠志泥命とあり)と申し奉るも、并びに彌馬といへる地名と覺しきを冠したり。國造本紀には長國造の條に志賀ノ高穴穗ノ朝御世。觀松彦色止命九世孫韓背足尼定二賜國造一。とあり。此の長は阿波國那賀郡なるべきが上に、此國には又美馬郡といふもあり、神名帳には此國名方郡に御間都比古神社ありて、栗田氏は即ち觀松彦色止命を祀るとせり。又播磨風土記にも大三間津日子は即ち孝昭天皇ならんといへり。此等の種々のミマツヒコをいかにして歸一すべきかは、今の急とする所にあらざれども、其の何れも孝昭天皇に縁ありげに見ゆれば、彌馬升を此天皇の御名代、御名入部の類と解し、彌馬獲支を崇神天皇の御名代御名入部の類と解せんとす。上古に於いて族裔の榮えたる皇別の中にては、孝昭天皇の皇子天足彦國押人命の後、崇神天皇の皇子、豐城入彦命の後など著しき者なれば、此の推定は甚しき牽強には陷らざるべし。次は奴佳なり、中臣氏が上古に在て強大なる官氏たることは、證例を擧ぐるまでもなし。此外にも中跡直といふあり、栗田氏の國造族類考に中跡直は舊事紀に天椹野命中跡直等祖とあり、中跡は和名鈔伊勢國河曲郡中跡(奈加止)郷、東鑑七に中跡庄、神名式に奈加等神社ある地に起れる氏なり、上に云る中臣伊勢連、中臣伊勢朝臣の中臣は即ち中跡にて、此に起れり、神名帳桑名郡中臣社あり、此氏神ならんとあり。奴佳が天兒屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは必ずしも問はず、中臣もしくは、中跡の對音と見るべきは疑なし。若し果して邪馬臺を九州地方に擬定せんには、此の四の官名をいかに解すべきか。此の四の官名の擬定は、又本傳の主なる人物たる卑彌呼の何人たるかを推定するにも、極めて有力なる資料たること、下文を見て知るべし。狗古智卑狗  汲古閣本に智を制に作るは誤れり。宋本三國志、宋本太平御覽、皆智に作れば宜しく之に從ふべし。狗古智は即ち肥後國菊池郡にして菊池の古音は久々智なり。菊池彦は城野郷即ち狗奴國に在る右族にして、熊襲に屬する者なるべし。

以上官名を考證し畢る。

次に人名を考證せんに、其の主なる者は即ち

卑彌呼  なり。余は之を以て倭姫命に擬定す。其故は前に擧げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事二鬼道一、能惑レ衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並に其の細註、延暦儀式帳、倭姫命世記等の所傳を綜合して、最も此命の行事に適當せるを見る。其の天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、(倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し)到る處に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多數が甚しき附會に陷らずして、伊勢を基點とせる地方に限定することを得たるは、又一證とすべし、三なり。年已長大無二夫婿一といへるは、最も倭姫命に適當せること、神功皇后とするの事實に違へる比にあらず、四なり。有二男弟一、佐治レ國といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。國史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、國政は天皇の御手中に在りて、命は專ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に當りて、必ず之に謁し、其の凱旋に當りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特に其の天照大神を奉じて、神領を諸國に徴するは、一種の宗教的領土擴張にして、其の成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外國人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。以二婢千人一自侍といへる、數の過多なるはいかゞと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が兒、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有二男子一人一(隋書及び北史には二人に作る)給二飮食一、傳レ辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫ノ命、また萬幡姫兒玉依姫ノ命などある姫兒に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。彌をメと訓む例は黒川氏の北史國號考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等、註云 彌字或當二賣音一也とあるを引けるなどに從ふべし。難升米  雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼以に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。伊聲耆掖邪狗  倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ、サン、ガと訓むべく、掖邪狗も亦イ、サ、カと訓むべし、蓋し魏人が同一の人を兩樣の對音にて記せる者が、一は重複して記され、一は單に一方のみ記されたるならん。神名帳に出雲國出雲郡阿須伎神社同社神伊佐我神社あり、又同郡に伊佐波神社、伊佐賀神社あり、栗田氏の神祇志料に皆出雲國造の祖、天夷鳥命の子伊佐我命を祀るとせり。此神果して天穗日命の孫ならんには年代合はざるの嫌あれど、出雲國造系圖、中臣系圖、舊事紀の天孫本紀、物部、尾張二氏の系圖すべて帝系に比しては、太だ世數の少きを常とすれば、伊佐我命の年代も必ずしも天穗日命を標準とすべからず。且つもし其名にして居地などに取りたらんには、かの命の後裔が其名を襲用せりとも見ることを得べし。因て姑らく伊聲耆、即ち掖邪狗を以て此命に擬す。都市牛利  此の人名に就ては、一は田道間守に縁ある者として解することをも得べく、又一は伊佐我命に縁ある者としても解することを得べし。故に上の二者の後に出したり。田道間守に縁ある者としては都市を出石に擬することなり。和名鈔に淡路國津名郡都志(豆之)郷あり、此島は天日槍命に縁あれば、此の都志も但馬の出石に縁ありて、イヅシの省略なるべしとの説あり。牛利は心の義なり。舊事紀天孫本紀に出石心大臣ノ命あり此命は固より田道間守と何の縁故もあるにあらざれども、出石心といへることが人名として用ひられたる例とする事を得べし。心は紀の神代卷に田心姫とある例にて、牛利に當るを得べければ、天孫本紀とは別人としても出石心、即都志牛利といふ人名は、有り得べし。出石は天日槍以來、田道間守が家の居地なれば、其人が正使たる難升米即ち田道間守に縁あるより、次使として魏國に赴ける事を推定し得べし。伊佐我命に縁ある者としては、神名帳に出雲國出雲郡に都我利ノ神社あり、栗田氏の志料に武夷鳥命(即ち天夷鳥命)の孫、津狡命を祀るとせり。都志牛利の志を邦語及び韓語に多き助語とせんには、都我利とも音近くなるべし。此も全く舍つべきに非ず。載斯烏越  載を戴の訛とせば、武内に近しといふ説あれど、今は字を改めずして解釋を試みんに神名帳に出雲國飯石郡須佐神社あり、今須佐郷に在り、又大原郡佐世神社あり、今佐世郷に在り倶に須佐能袁命を祀ると栗田氏の志料に見えたり。此の須佐能袁命をかの素盞嗚尊とせんには、牽強に近かるべけれども、須佐もしくは佐世の地に居りし名族の名と解せんには不可なかるべし。卑彌弓呼素  從來此の人名を讀むに、多くは素の字をモトヨリの義として、下の不和につけて讀めども、余は之を上につけて人名の中に入れたり。呼素はコソと訓むべく、國造本紀に見えたる凡河内國造彦己曾保理命の己曾、孝徳紀に見えたる神社ノ福草の社、神名帳に見えたる攝津國東生郡比賣許曾神社の許曾、垂仁紀二年の註に見えたる難波と豐國國前郡と二處の比賣語曾神社の語曾などのコソと同じ樣に用ひられし者なるべく、比賣語曾といへば女性を見はすに對して卑彌呼といへば男性を見はすにもやあらん。卑彌呼と故さらに一字を違へたるもヒメコの意にあらざるが爲か。國造本紀には又山背國造に曾能振命ありて、彦己曾保理命とは異人なれども、命名の義は似通ひたるより思ふに、己曾といへるも曾といへるも本義には差なくして此の呼素も襲國の酋長などをや指しけん。壹與  本傳には邪馬臺を邪馬壹と誤りたれば此の壹與も臺與の誤りなるべし。梁書及び北史には並びに臺與に作り、宋本御覽には臺擧に作れり、證とすべし。卑彌呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が國史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫(又豐耜姫命)の豐といへるに近し。國史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる體なれども、倭人傳にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り傳へたるならん。景行天皇の五百野皇女は、倭姫命の職を嗣ぎしさまに、國史に見えたれども、其の名字の音、似ざること遠ければ、之に當つべきやうもなし。    以上 人名を考證し畢る。 次に論ずべきは道里なり。白鳥庫吉博士は、最近の考證に於て、道里に關する意見を發表せられたるが、其の大要は帶方郡より女王國に至るまで一萬二千餘里なるに、其の中間帶方郡より狗邪韓までは水路七千餘里、狗邪韓國より末盧國まで水路合して三千餘里、末盧より不彌まで陸路合して七百餘里なれば水陸合計、已に一萬七百餘里を算し、剩す所は一千三百餘里に過ぎず。此の一萬七百餘里は我が二百九十餘里に過ぎざれば殘れる一千三百餘里にては大和に達するに足らずといふに在り。然れども當時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確なる者なりや否や、已に疑問なり。帶方郡より女王國に至るとは、女王之所都なる邪馬臺國を指せりや、女王境界所盡なる奴國を指せりや、將た投馬國と邪馬臺との接界を指せりや、先づ之を決せざるべからず、女王之所都に至るとせんには、白鳥氏の計算の如くなるべきも、奴國に至るとせんには一萬六百餘里に過ぎず、もし投馬と邪馬臺國の接界を標準とせば、一萬二千餘里は必ずしも短きに過ぎたりとはすべからず。且つ此道里は海路をば太だ遠く算し、陸路をば比較上近く算したる者なることを認めて、伸縮する所なかるべからざるが上に、下節に述ぶる如く帶方より不彌に至る道里と、帶方より女王國までの道里とは、其記者をも記事の時をも異にしたれば、之を一致せしめんこと難かるべし。又當時奴國、不彌國以南にして道里明白ならば、宜しく其の數を記すべきに、單に其の行程を日數にて計り、里數を擧げざるを見れば、此間の道里を一萬二千餘里の中より精確に控除して計算せんことは、杓子定規に近きの嫌あり。故に考證の基礎を地名、官名、人名等に求むるの寧ろ不確實なる道里に求むるよりも安全なるを知るべし。地名を等閑視するの過は、白鳥氏の考證に於て、已に之を見る者あり。氏は魏使が一支より末盧に至れる地點を定むるに、菅氏の説に據りて松浦郡値嘉島の見禰良久崎に因りし者となせり。値嘉島は今の五島なれば此より陸行して伊都に至るべき理なきことをば注意せられざりしと見ゆ、是れ著しき誤謬なり。余が見る所にては、魏使の上陸地點は、恐らくは松浦郡名護屋附近ならん。仲哀紀に崗縣主祖熊鰐、天皇を周芳の沙磨之浦(即ち佐波にして、本傳の投馬に近き程の處なり。此の沙磨に關しては景行紀及び豐後風土記ともに景行天皇の筑紫征伐の際經由したまひし事を記せり、以て其の古代より舟行必由の地たることを見るべし)に迎へ奉りて奏せる言の中に、穴門より向津野ノ大濟に至るを東門とし、名籠屋ノ大濟に至るを西門とすとあり。名護屋が當時に在りて、要津たりしこと以て知るべく、其壹岐より水路亦最も捷なれば、かくは決せるなり。向津野大濟とあるは、周防の上之關、室積あたりに當るべきか。此あたり今は熊毛郡なれども、古は都濃郡とともに角國の中なりしならん。或は熊毛郡を古の周防郡なりしならんと説く者あれども、沙磨之浦が周芳に屬するを見れば、周防郡は都濃の西に在りて、東に在らざりしなり。此の都濃即ち向津野の津野と解すべく、向といへるは上之關などの海島にて、都濃の對岸に在る者を指せるならん。余は魏使の投馬以東に於ける上陸地點を此の向津野附近の要津ならんと想定す。道里を考ふるの次で聊か之に及ぶ。

次に此傳を構成せる材料に就て論ずべし。三國志は魏略に據れること、已に言へる如くなるが、魏略が何等の材料を採用せしかも推定し得べからざるに非ず。余は之を四種に解析せんとす。

一、倭人在二帶方東南大海之中一より使譯所レ通三十國までは漢書地理志に據りて、當時の事に及ぼし總序せる者、是れ一種なり。二、景初三年六月より末尾に至るは、是れ當時官府の記録に據れる者、是れ又一種なり。三、倭使の始めて帶方郡に詣りし時、之に本國の事情を訊問し、加ふるに漢書の如き前代の記録を參考して作れる記事、是を第三種とす。余は傳中、左の各節を以て此の性質の者と斷定す。 次有二斯馬國一より與二耳朱崖一同に至る一節。(い) 其行來渡レ海詣二中國一より持衰不レ謹に至る一節。(ろ) 其會同坐起より人性嗜レ酒に至る一節。(は) 參問倭地より五千餘里に至る一節。(に)四、魏使が倭國に至り親しく見聞せる所を記せる者、是を第四種とす。即ち左の各節なり。 從レ郡至レ倭より旁國遠絶、不レ可レ得レ詳に至る一節。(イ) 倭地温暖より以如二練沐一に至る一節。(ロ) 出二眞珠青玉一より視二火一占レ兆に至る一節。(ハ) 見二大人所一レ敬より船行一年可レ至に至る一節。(ニ) 一種と二種とは辯證を要せず。三種四種をかく解析せる標準は、一には三種に屬する記事が多くは倭より郡に至る方面より着眼し、四種に屬する記事が多くは郡より倭に至る方面より着眼せるの別あるに由る。二には次有某國云々といへる國名の排列が大和の王畿附近、特に伊勢を起點として、次を逐て最後に及べるに、從郡至倭云々といへる國名の排列は、之と全く反對の排列を爲せるに由る。三には記事に重複ありて、屬辭に脈絡なく即ち三種の(い)節、風俗不淫の句が四種の(ニ)節、婦人不淫不妬等の句と重複し、三種の同節、禾稻紵麻以下、箭鏃に至る物産が四種の(ハ)節に記せる物産と脈絡相屬せず、四種の(ハ)節、父母兄弟云々の句、三種の(は)節會同坐起云々の句と脈絡相屬せざるが若きに由る。又

夏后少康之子。封二於會稽一。斷レ髮文レ身。避二蛟龍之害一。(三種い節)

とあるは、漢書地理志に粤地の事を記せる文を襲用し、

作レ衣如二單被一。穿二其中央一。貫レ頭衣レ之。種二禾稻紵麻一。蠶桑緝績。――其地無二牛馬虎豹羊鵲一。兵用二矛楯木弓一。――竹箭――或骨鏃。(同節)

とあるは、大要漢書地理志の耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。最後の參問云々も亦然りとす。

次に零碎なる字句の異同を校訂して以て、此章を終ふべし。

注に魏略を引きて正歳四時とある時を宋本には序に作り。記二春耕秋收一とある記を宋本には計に作れり、從ふべし。重者滅二其門戸及親族一の滅を宋本は沒に親を宗に作れり亦從ふべし。

其國本亦以二男子一爲レ王。住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年。乃共立二一女子一爲レ王。名曰二卑彌呼一。此數句異同甚だ多し。後漢書には前にも引ける如く、

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱二大夫一。倭國之極南界也。光武賜以二印綬一。安帝永初元年。倭國王帥升獻二生口百六十人一。願二請見一。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無レ主。有二一女子一。名曰二卑彌呼一。

に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に據り、北史は桓靈間を靈帝光和中に作り、餘は後漢書に同じ、梁書は漢靈帝光和中に作ることは北史と同じく、歴年の下に無レ主二字なきことは三國志に同じ、宋本御覽は三國志を引きて住七八十年を靈帝光和中に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願二請見一に至るまでは、後漢書に同じく、次に漢靈帝光和中とありて倭國亂相攻伐歴年以下は三國志に同じかりしならん。三國志が本亦以二男子一爲レ王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。宋本御覽が三國志を引て靈帝光和中の句を殘せるは、當時の異本或はかく作りし者ありけん。

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

Chapter 5 of 7
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