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Memoirs of an Old Haiku Poet
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Memoirs of an Old Haiku Poet
内藤鳴雪
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Terang
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Chapter 3 of 27

二

子供の頃に最も楽しかったのは正月であった。元日には君侯が登城をする。その時に限り上下でなく衣冠を着け天神様のような風をする。供もそれに準じた服を着た。私の父も風折烏帽子に布衣で供をした。まだ暗いうちに、燈のもとでこの装いする所を、いつも私は珍しく見た。君侯の姿はよく見たことはなかった。唯父から聞いたのみである。

正月には万歳が来た。太夫は皆三河から来たが、才蔵は才蔵市で雇うのであった。その頃は各大名屋敷とも万歳を呼んだ。私の藩主は勿論私の内も呼んだ。但し君侯へ出る万歳は大小をさしている格のよい万歳であったが、私どもの内へ来るのは一刀であった。万歳にもそういう地位の等差があった。二刀のは礼物を多くせねばならぬ故、私の内などの身分では一刀のを呼ぶのであった。君侯でなくとも歴々の者は二刀のを呼ぶのであった。私どもは内の万歳を見る外に、よその万歳をも見て歩いた。万歳の尻には子供は勿論大供も跟いて行った。才蔵は随分しつこく戯れたもので、そこに居る若い女などにからかい、逃げ出すと勝手向までも追掛けて行くこともあった。舞が終ると、内では膳に米を一升盛り、銭を包んで添え、そしてちょっと屠蘇を飲ませた。

正月の遊戯で盛に行われたのは凧揚げであった。男の子は大概凧を買ってもらい、またよそから贈られもした。各これを揚げて楽むこともするが、唯揚げるばかりでなく、凧合戦をする事が盛んであった。これは子供でなく、二十歳近くの者が先立ってやった。合戦というのは隣屋敷の凧とからまし合いをすることである。私の屋敷では、北隣は久留米藩有馬家、南隣は島原藩松平主殿正、西は砂土原藩小さい方の島津であった。私どもの屋敷ではこの三つの藩邸と凧合戦をした。からんで敵の凧をこちらへ取ったのが勝となっていた。遂には罵り合を始め、石の投げ合までにも及んだ。そこで藩々の役人等は、互に相済まぬというので青年を戒めたが、その当座は止めていても、ほとぼりが醒めるとまた始めた。それでまずは黙許という姿であった。

からまし合いは、とても子供では出来ないので、大きい人に貸して、戦に勝つと敵の凧はその勝凧の持主なる子供のものになるので、自分の凧が殖えるので喜んだ。もっとも大概からまし合った凧は折れ破れて揚げることなど出来ぬものであったが、分取品を得た誇りがあったのである。あまり大きい凧は不利益であった。まず西の内紙二枚半というのが戦に適当で、四枚六枚八枚のは唯揚げて楽しんだ。戦には風の向きでよほど得失があったが、巧な者は手繰ることが早いから風の向きのみで勝敗が決するという事もなかった。凧の糸には多く小さな刃が附けてあって、それで敵凧の糸を切るのであった。

藩邸の凧揚げは右の通りの有様であったが、なお町家でも凧揚げをした。これは往還でも揚げたが、多くは屋根にある洗濯物の干し場で揚げた。町家同志ではからまし合いはなかった。また藩邸のが町家のとからまし合いをするという事は決してなく、そういう事をすると恥辱としてあった。

凧の種類をいえば、今もある長方形のものの外に奴凧があった。これは主として小さな子の揚げたのだが、奴凧でもかなり大きいのもあった。障子骨というのは縦に三本骨がある凧で、からますには丈夫であるが、それだけ手繰るには不便であった。縦一本の方が工合が宜かった。凧の面には多くは『龍』とか『寶』とか『魚』とかいう文字が書いてあった。絵凧には達磨、金時、義家、義経などが描いてあって、なお障子骨になると、『二人立ち』『三人立ち』といって、二、三人の武者が描いてあった。これは価も高かったので、こういうのを持っている事は誇りになった。凧糸は凧の大小に従って太さに等差があったが、からます時には凧の大きさよりは一、二等ずつ上の太い糸を用いたものである。

鳥追は藩邸には来ないのであったが、町へ出るとよく見掛けた。深い笠をかむり綿服ではあるが小綺麗な物を着て、三味線を弾いて歩いた。これはいわゆる『非人』から出たので、この鳥追の中から『鳥追お松』という名代の女も出たのだ。鳥追の女は正月以外の時には浄瑠璃などを一くさりずつ語って歩いたもので、また端唄なども唄ったかと思う。

正月の中旬になると、甲冑のお鏡開きがあった。武門では年始に甲冑を祭り鏡餅を供えたので、それをお鏡開きの時に割って汁粉にして食べるのだ。君侯の館でもこの事をして、おもなる藩士に振舞われた。めいめいの家でもやった。もう鏡餅は堅くなってるので斧を以て勇ましく打割ったもので、汁粉の膳には浅漬を唯一つ大きく切ってつけた。『ひときれ』という武門の縁起で、斧を以って割るという事も陣中のかたみである。

『ひときれ』といえば、その頃江戸では『辻斬』が実に頻繁に行われた。これは多く田舎出の侍が新身の刀を試すとか、経験のために人を斬るので、夜中人通りの淋しい処に待ち構えて通行人を斬った。斬られるのは大抵平民であった。私が小さい頃稀に邸外へ出たのでも、よくその死骸を見た。斬られた死骸は、しばらく菰を着せてその場に置いて、取引人が引取って行くのを待った。直きに引取人が出ないと、桶に入れて葭簀で巻いて置いたものである。

或る時、私の内の藩から渡った米俵に鼠が附くというので、家来が葭簀で巻いたことがあった。私はそれを見て、辻斬のように見えるから厭だ、といって取らせたことがあった。

その頃は、今の芝の公園と愛宕の山との界の所を『切通し』といった。ここは昼の見世物や飲食店が出て、夕方には一面に夜鷹の小屋が立って、各藩邸の下部などが遊びに出かけて、随分宵のうちは賑ったが、これが仕舞うと非常に寂しくなった。その時分になると、ここで辻斬がよくあった。『切通し』という名は勿論山を切って道を通したという意であるが、私は子供心にしょっちゅう人を切るから、『切り通し』だということと思っていた。

芝の増上寺の境内は、今の公園の総てがそれで、その頃は幕府の御菩提所というので威張っていた。私の中屋敷から愛宕下の上屋敷へ行くのには、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの君侯は上屋敷に居られ、中屋敷には若殿が居られたので、この間の藩士の往来は頻繁であった。これらが増上寺の境内を通るので、その抜ける事は許されていたが、もし弁当を携えているとやかましかった。大抵藩士は身分により、一人二、三人の家来を連れており、草履取が弁当を持ったものだが、弁当を認めると『止まれ』といわれて中を検査された。それは『なまぐさ』があるか否かを検べるので、あると境内を汚したというので事面倒に及んだ。藩邸に懸合って、遂に藩主までが首尾を損することになった。それで弁当だけは飯倉から遠回りをすることになっていた。しかし少しの賄賂を使うとなまぐさの入った弁当も無事に通ることが出来た。

私も家族に連れられて増上寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に閻魔堂がある。あれも怖かった。長じて後もその習慣で、あの閻魔堂の前は快く通ることは出来ない。その隣に瘡守稲荷があって、天井に墨絵の龍が描いてあった。それも気味が悪かった。この稲荷は維新の神仏を分ける際に、和蘭公使の前に移された。前には東照宮の南側の所に天神様もあった。

東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳院廟の方へ向いており、外には塀があり、中は石が敷いてあった。この表門から中は履物をつけることを禁じてあったので皆跣足で這入った。増上寺の本堂は明治の初に焼けたが、総て朱塗で立派なものであった。本堂の後ろの黒本尊もやはり跣足で這入ったものである。あの前にはお舎利様があるというので拾う者もあった。

増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は、道が遠いから行くことはなかった。この二つの寺へ将軍が参詣される、いわゆる『御成』の日には、その沿道の屋敷々々は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じたのではないけれども、もし誰か不敬の行為でもすると、藩主の首尾にも関係するから、各藩主が禁じていたのである。

藩邸内に住んでいる者の外出について話してみれば、まず私どもの如く家族を携えて住んでる者は毎日出ても差支無い。夜遅く帰っても許された。風呂は歴々の家の外は、自宅に無いので、邸外の風呂屋へ行った。邸内にも共用の風呂はあったが、これは勤番者が這入るので、女湯というものは無かった。だから内の家族などはいつも外の風呂へ行かねばならなかった。宮寺の縁日や花見などにも私どもは度々出かけたが、しかし朝六つ時より早く外出する事は出来なかった。

その頃盛んな山王神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名が出るといかぬというので、特に外出を禁ぜられていた。そこでこの祭を見ようと思う時には、病人があるから医者へ行くと称して、門を出たものである。藩の医者は、邸外に住んでいる方が、町家の者を診ることも出来て収入が多いので、よく外に住んだ。この事は藩でも許していた。それで医者へ行くということを外出の口実にすることが出来た。だから祭の日などは俄に邸内に病人が殖えた。芝居に行く時には朝が早いから皆病人になって行った。この事は黙許されていた。

いつであったか琉球人が登城するというので、それを見物に行ったことがあった。その頃は支那人でなくても、琉球人でも皆『唐人』と呼んでいた。私は家族に連れられて、いずれも例の病人になって朝早くから、芝の露月町の知合いの薬屋へ行き、そこの二階で『唐人』の行列を待った。大変寒い日であったが、そこで蒸饅頭のホカホカ湯気の立つのを食べた旨さを今もよく覚えている。また錦画の帖を見せてもらった。それには役者の似顔絵が多かった。似顔絵というものをこの時始めて見た。この日何か事故があって、肝心の『唐人』の登城は中止になったので、大いに失望して帰った。

花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いので、皆必ず弁当を携えて行き、毛氈を敷いて、酒など飲むことであった。茶と酒の燗などは茶店に頼んだ。上野へ行くと、多くの女が鬼ごっこをしてる様を珍しく見た。何でも私が八歳頃のことであったが、屋敷から上野までの往復とも歩いて大変人に賞められた。私は祖母育ちゆえ、誠に意気地が無く、外へ出る時は必ず人におぶさって行ったが、或る時途中で、私より少し年上の女の子が負ぶさって行くのを見て、甚だ見苦しい姿だとつくづく思い、自分の負ぶさった形も、人から見たらあんなに見苦しいのだろうと思って、もう再び人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢して歩き通して驚かしたのであった。今日でも私はまず年の割合によく歩き得る方である。

浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。舟の中から堤を通る知人を見て、私の連れの人が徳利を示して『一杯やろう』といって戯れたことがあったのをおぼえている。一体私は舟を好かない方で、その日も遂には気分が悪いといって寝てしまった。

人の通行に駕籠に乗るという事は、余儀無き急用の際か、あるいは吉原などへ行く時の外に無かった。遊里へ行く者はケチと思われまいとして乗りもしたが、駕籠賃は大変高かったので、普通の場合には大抵乗らなかった。駕籠舁は多く辻にいて客に勧めた。彼らは少し暖かくなると褌一つの裸で居た。荷車曳きは寒暑とも通じて裸であった。宮寺には、寒中裸でお参りをする者があった。これは病気が平癒したら裸参りをさせますという祈願を籠めて、それが叶ったので遣らせるのであった。また縁日などに乞食坊主は寒中裸で水を浴びて人に銭を貰った。これは人のために代って行をしているという意味でやっていたのである。今日もある寒詣りもその頃は裸であった。

私の藩邸から近い縁日では、有馬邸の水天宮が盛んで、その頃江戸一番という群集であった。毎月五日であったが、子供や女連だけでは迚も水天宮の門の中へ這入ることはむずかしいので腕力のある家来を連れて行って、それの後から辛うじて這入った。履物が脱げても拾うことは出来なかった。興行物や露店なども盛んであった。以前は私の頃よりも一層盛んであったそうだが幕府の姫が有馬家に嫁せられて、御守殿が出来てから、少し静にせよとのことで、それから多少この縁日も衰えたとの事である。

その次に縁日の盛んなのは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門を出入することも水天宮の如く甚だ困難であった。次には廿四日の愛宕の縁日で、よくこの日は私は肩車に乗って男坂を上ったものだ。

常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、勤番者は、田舎侍が都会の悪風に染まぬよう、また少い手当であるから無暗に使わせぬようとの意もあって、毎月四回より上は邸外へ出ることは許されなかった。その中二回は朝から暮六時まで、二回は昼八時から六時までであった。勤番者はこれを楽しみにした。彼らはその日になると目付役より鑑札を貰って出で、帰るとそれを返付した。

勤番中にも度々江戸に来た者や、或る事情で一年でなく二年以上勤続した者は、古参といって、新参の勤番者に対して権力を持ち、江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間もなく古参に連れられて市中を見物した。その頃の赤毛布である。これらの田舎侍は大芝居の見物と吉原の女郎買は一、二回しないと田舎への土産にならぬというので、必ずしたものである。夜は外出が出来ぬから吉原では昼遊をした。吉原の昼間のお客といえばまず田舎侍であった。芝居は刎が夜に入るから一幕は見残して帰らねばならなかった。古参になるとずるく構えて、大切まで見て帰った。しかし時刻が切れるので、高い駕籠を雇うか、さなくば猿若から屋敷までひた走りに走りつづけた。たまたま履物が脱げても顧みずして走ったのである。

その頃侍は私用の外出の時は雪駄を穿いた。表向きの供のおりや礼服を着したおりは藁草履を穿いた。下駄は雨の時に限った。女はその頃も表附の駒下駄を穿いた。男女とも雨天には合羽というのを着た。今も歌舞伎芝居にはその形が残っている。そして大小の濡れるのを防ぐために柄袋をかけた。

門限は厳重ではあったが、一面には遅刻する者をかばうために、暮六時の拍子木を打ってまわる仲間は、なるべくゆっくりと邸内をまわって、それから門番に報じて門をしめさせた。もう六ツの拍子木が聞えるのに、まだ某は帰らぬというと同僚の者は心配して、拍子木打ちの仲間に聊か銭をやって、一層ゆるゆると廻らせた。あるいは、拍子木がもう門へ行きつくという際に仲間を抱き留めて、同僚の駆込むのを待つというような事もやった。門限に全く遅れたとなると、国許へ追い帰され長い間謹慎を申附けられるのである。

これは少し古い話しだが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛った。二人は中を見ても宜かろうと思って、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出て来たので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奥へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の大御所様の御愛妾の父なる人の別荘とわかった。この別荘の主人は娘の舌を通じて隠然賞罰の権を握っていた。それで諸大名から油断無くここへ賄賂を送り、常に音問していたのである。勤番者風情でそこへ踏込み、大胆にも飲食をも命じたというのであるから、藩の上下は顔色を失った。『どの藩の者ということを聞かれはしなかったか』と古参が聞くと、『なるほど代物はいただきませぬが御名札をいただきたいといったから、松平隠岐守家来何の某と書いて置いて来た。』との答に、いよいよ騒ぎ立ち、藩侯にもどのような禍がふりかかろうも知れぬと、それからいろいろ評議をして、結局、留守居役即ち当時の外交官が、多額の金子を持参し、駕籠に乗り供揃いで向島へ赴き、そこの用人に会って、田舎侍がかくかくの粗忽を仕りましたる儀何とも恐入る次第で御座りまする、どうか御許し下さるようと、ひたすら詫びをして、金子を出した。用人は奥に入り、やがて出て来て、『主人こと今日は珍しい客来で興を催した次第で御座る。』といっただけであった。賄賂のきき目は実に鮮かであった。留守居役は勇んで立帰り、一同も始めて安堵した。かの二人は割腹の覚悟をしていたが、まずまず命拾いをした。この二人のうち一人は私の父ぐらいの年輩で、吉岡某という者であった。今一人の名は忘れた。

勤番者はよく失策をしたもので、かの蕎麦屋で蒸籠へ汁をぶっかけること等は、少しも珍しい事ではなかった。勤番者は大概一つ小屋に一緒に居た。今の寄宿舎といった風になっていた。勤めも忙しくはないので皆無聊でいたが、さればとて酒を飲んで騒ぐことも出来ぬので、碁、将棋、または貸本を読んで暮した。貸本屋は高い荷を脊負って歩いたもので、屋敷でもその出入を許した。古戦記の外小説では八犬伝、水滸伝、それから御家騒動は版にすることは禁ぜられていたので写し本で貸した。種々な人情本や三馬等の洒落本もあり、春画も持って来るので、彼らはいずれも貸本屋を歓迎した。私も子供の時に親類の勤番者の所へ行って、春画を見せられたことを覚えている。彼らのこんな呑気な生活も、異人と戦争をする準備をせねばならぬ時に至って、追々忙しくなった。彼らは邸外へも出て調練などすることになった。

異人について騒ぎ出したのは嘉永六年から安政元年にかけての事で、私の七つから八つの年へかけてであった。八つの年には、今度こそきっと軍が起るという噂であった。後に知った所によれば、交易を許さねば軍艦から大砲を打込むというので、こちらも対抗せねばならぬといって幕府も諸侯も騒いだ、武器の用意の揃わぬ藩では、役に立つ立たぬを問わず急いで武器を買集めた。私の藩邸は比較的武器の準備がよく出来ていて、侍以上の者は以前から年々武器の検査をされることになっていた。しかし実戦という事になるとそれは不十分なものであった。

私の藩は今の鈴ヶ森あたりから、大井村、不入斗村へかけての固めを言付かり、私の父もその頃側役から目付に転じていて、軍監をも兼ねるという枢要な地位に居たので、その固めの場所へも勤務した。なんでも大砲が足らぬのに大変に皆が当惑したそうであるが、我が藩では田町の海岸にも下屋敷があるので、ここをも固めねばならぬけれども、大砲が無いので、戸越の下邸の松の立木をたおして、皮を剥ぎこれに墨を塗って大砲に見せかけ、土を堅めて銀紙を貼ったのを弾丸と見せかけ、これを大八車に積んで、夜中に田町の屋敷へ曳込んだということも聞ている。或る藩では寺の釣鐘を外して来て台場に飾ったそうだ。素晴らしく大きな口径の砲に見えたことだろう。

異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が観音崎を這入る時には、黒雲を起してそれに隠れて、湾内に入ったという評判であった。蒸気の煙をそう見たのであろう。その時の提督はペルリとアダムスという二人であったが、談判の折、幕府の役人の画心のある者が、二人の顔を窃かに写生した。その画がひろく伝写されたのも見た。ペルリは章魚のようで、口もとがペルリとしていると思った。アダムスは大変に大きな口を開いていた。これは欠びでもした所を写したのであろう。

こんな物を見て珍しがりもしたが、軍がいつ始まるかわからぬという心配は皆抱いていた。軍が始まったら、三田邸は海岸に近い故、直ぐ立退きをせねばならぬ。まず君侯の母にあたる後室と、奥方と、姫君と、若殿の奥方と、それに属する大勢の奥女中が立退くと、その後から邸内の女子供が皆立退くということに定まり、立退の合図としては邸内を太鼓と鐘を打って回るという触れが出た。いつこの鐘太鼓が鳴るかとビクビクしていた。或る夜などは、今夜はきっと鳴るという噂で、夜中に飯を炊いた。弁当は飯に梅干と沢庵を添えて面桶に入れ、これを網袋に入れて腰に附けるのだ。私の弁当は祖母と一緒というのであった。まず行先きは君侯の親類の田安の下屋敷で、軍の模様でそれ以上どこまで行くかわからぬとの取沙汰であった。

しかし戦端も開かれず、警戒も解かれ、黒船は一旦帰ることになり、もとの太平に立戻った。全く太平になった訳では無論なく、唯ちょっと猶予することになって、いよいよ和戦いずれにか決せねばならぬという国家の一大事になっていたのであるが、太平に馴れた江戸の士民は、全く太平になったと思い込んでいた。けれども幕府や藩々の枢要の人達は油断なく戦備を整えるのであった。

どうも日本の武器のみでは駄目である。西洋式の大砲を仕入れなくてはならぬ、また軍隊も西洋式の訓練をしなくてはならぬとの意見が方々に起った。私の藩は先々代が彼の海防に留意された桑名楽翁公の甥であったので、大分開けていた。『うえぼうそう』の如きも楽翁公が奨励されたので、私の藩邸でも早くよりこれを行い、私も四、五歳の時にした。この頃亡くなられた君侯は薩州から養子に来た人で、薩州では有名な斉彬公が西洋通で、この縁からも、新知識が我が藩に注入されていた。

それで私の藩邸には、琉球から薩州にも及んで盛んに飼われていた豚を買い入れて沢山飼っていた。これは食用にはしなかった。何でも豚というものは汚物を食うので屋敷内を清潔にしてくれる、それから火事の時には火に向って強い息を吹掛けるから火除けになるという事を聞いていた。子供等はよく『豚狩り』と称してこれを追い回した。残酷にしてはならぬとよく叱られたものである。

軍隊洋式調練の必要が唱えらるるや、我が藩は直ちに採用して、和蘭式の銃隊を編成することとなり、その教授のために下曾根〔金三郎〕の門人なる小林大助というを召抱えられた。邸内でも調練があって、近習等も隊に入って稽古した。私も珍しく思って見物した。雨天には殿中で行われた。進退の合図は太鼓で、これは子供の受持で、藩士の伜などが稽古して打った。私もこの太鼓打になりたいと思って父に願ったが、あんな事はするものでないといって許してくれなかった。

私の父は西洋嫌いであった。しかるに君侯は盛んに洋式調練を奨励されたので、一時我が藩の銃隊は出色のものになった。服装は、尻割羽織を着、大小を差したままで筒を持った。身分ある者は指揮方を稽古した。筒持つ者は足軽であった。この事は藩地にも及んでそこでも和蘭式の銃隊を編成せんとした。こういう勢になって来たので、これまで門閥によって高い地位を占めてる者は、銃隊に熟した若い者に権力を奪われそうになった。その不平や、夷狄の真似をするのは怪しからぬという憤慨やらで、門閥家の方から反対の声が起った。遂にこのために江戸詰の家老等も改革を押通すことが出来なくなり、君侯も意を曲げられて、銃隊は日本式大砲のみを洋式にするという事になった。

私の父は、後には藩中でむしろ新知識のある方であったけれども、その頃には全く旧套を守る主義であったので、激しい衝突をした結果、当時目付から側用達という重い役になっていたのを忽ち免ぜられてしまい、側役の礼式という身分で家族を引連れて藩地松山に帰るべき運命になった。これは私の十一歳の時であった。

父は別に学者ではなかったが、一通り漢籍を読み得た。私は八歳の時から素読をはじめ、論語孟子などを父に授かった。素読のみならず意味を教えてもらった。私はこの漢学に大変興味を持ったので、進みもよく、人に賞められた。或る時父が厠へ上ぼっているのを待ち兼ね、文字を問うためその戸を開けたので、お目玉を喰った事もある。いたずらをする時は『もう本を読まさぬぞ』といって懲戒された事もある。この藩邸内には漢学を授ける所もあったが、私は父のみに学んだ。私はよく『子供らしくもない、学者くさい。』という評を受けた。

私は豚狩や喧嘩をするよりは読書が好きだった。一つは臆病者であったので外へ出るより内で本を読む方が好きになったのかも知れぬ。その頃の子供の遊びでは、『ねッ木』といって、薪の先を削ったのを土に打込み、次の者がそれへ打当てて土にさし、前のを倒し、倒した木は分捕るという事が流行った、独楽もよくやったもので、前の独楽を、後の独楽で廻いを止める事をした。その頃は大きな独楽をまわす事が流行っていた。その外、鬼ごっこ、駈けっくら、隠れん坊、すべてそういうような遊びをすると私はいつでも負けた。そうして男のくせに私は雛が大変好きであった。私の内には祖母が二人、それに継母が居たので、いくつかの雛を持っていた。私は節句になると、小さな雛などを買ってもらって立てた。よそへ行って雛の小さな膳で物を食べてみる事もあった。私の内には雛の膳が無かった。これを私は大変に残念に思った。江戸住いになる時に国許で売払ったのだと聞いた。

寄席へも私はたまに行った。産土神の春日の社の境内に、一つ寄席があった。維新後は薩摩ッ原に移って春日亭といった。あそこで蝶之助という独楽まわしを感心して見たことがあった。義太夫は飯倉の土器坂へ一度聞きに行った。文句はよくわからなかったが、千両幟の櫓太鼓の曲弾を子供ながら面白く感じた。

子供の時の記憶で最も驚いたのは、安政の大地震であった。それは夜の四ツ時で、私はもう眠っていた。私は人に抱かれて外に出た。そして今大地震があったという事を聞いた。それは十月のことで、寝巻のままでは風邪を引くから、一度内に這入って着物を着て、更に外に出た。見ると屋敷から東北は一面の大火事で、空が真赤であった。幸に私の住んでた中屋敷の方は、地盤が堅固なので、唯長家の端が少し倒れたのみで、それも怪我人は出さなかった。上屋敷の方は地盤が悪いので、その辺に倒れた屋敷が沢山あったが、前にもいった如く、嘉永元年に焼けて後極めて堅固に再築したので、そんな地盤の上に在りながら、この上屋敷だけは破損はしなかった。

我が藩邸と違って他の藩邸は多く潰れた。そして火事となったので死人も多く出た。翌日私の藩邸に親類のある他藩の者は続々避難に来た。皆着のみ着のままで、親を失い、子を失い、実に気の毒な様であった。或る人は、兄が梁などに敷かれている様子で姿が見えぬので、『兄さん兄さん』と呼ぶと、潰れ家の下から返事をした。やれ嬉しやと、『早く出て下さい』というと、『うむ、今出る、今出る。』といったが、いつまでも出て来ない、助け出すことも出来ぬ。そのうち火がまわって、『今出る、今出る。』という声が段々小さくなって絶えてしまったという話しも聞いた。

大地震のあとはいつもそうであるが、当分のうちは夜となく昼となく地震がある。それで家に落着いては居られぬので、その夜から門前に戸板を囲い畳を地に敷き、屏風を立てまわし、上に油紙など置いて、そこに居た。父は宅に居た。曾祖母もそんな仮小屋は厭だといって宅に居た。祖母継母私下女などは皆この小屋住居をした。

大地震の夜はその止むか止まぬに、諸大名は直ちに幕府へ御機嫌伺いに登城したが、将軍家は紅葉山に御立退になっていて、私の君侯は自ら提灯をさげて行って親しく御機嫌を伺われたという事を聞いた。幕府からは奏者番や御使番が藩々の屋敷を見舞った。君臣ともに礼儀を尽したものである。

その翌々年八月に大風があって、地震ほどではなかったが、江戸中大災害を蒙った。この時も私の藩邸はさしたる損害も無かった。

それからコロリ(虎列拉)の流行ったことがあった。これはいくら建築が建固でも安心は出来ぬもの。私も子供ながら非常に怖かったが、私の内には幸いに一人も患者を出さなかった。

異人、地震、大風、コロリ、これらが私が江戸に居る間に脅かされたおもなる事件であった。

Chapter 3 of 27
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