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死までを語る
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死までを語る
直木三十五
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Terjemahan Pagera AI
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Chapter 5 of 9

5

(中学五年にもなって、こんなものが判らんようでは)

と、当時、少し、淋しくなったのを憶えている。父は

「商科か、法科か、医科がええ」

と、商科は金が儲かるし、法科は恩給がつくし、医科は

「薄さんに頼んだるさかい」

と、この三つにきめてしまっていて

「高等学校は岡山がええ、わしも、もうこの齢やさかい、お前の高等学校を出るのを見て死にたい。高等学校だけは、やっといてやる」

父が四十歳の齢の子だから、二十で中学を出ると、父の齢は六十、高等学校卒業までしか生きていられないと考えたのも尤もである。だが、何んと今年私が四十三、父が八十三になって、父は、未だかくしゃくとしているのに、私がこの体なのだから、私としては、この父の死ぬ前に、私を死なしたくないと考えている。それに、この編輯者め――悪魔である。父が見たら、何んなにびっくりするであろうか。月収六七十円の古着屋の、六十歳の親爺が、月二十五円ずつを倅の為に割いてくれたのである。

十八

父が八十三歳にもなって、私が「死までを語る」を書いたのを読みでもしたら

「宗一、ほんまか」

と、それだけで、三年位齢をとるであろうが、絶対に読みっこは無いし、近所の人も、恐らく

「宗ちゃん、えらい事書いてはりまっせ、ほんとですか」

と、父に聞く事も無いであろう。一心に、金、金、金、金儲け金儲け、とだけ念じている人達の集っている町であるから、こんな事が平気で書けるが、これだけ、印刷文明が普及されていて、猶かくの如き、私の出生町内である。二十余年の昔

「文科へ行く」

とでも、云おうものなら

「文科て、文士か」

と、それこそ、何う叱られるか、わからない。私は、早大文科と決心していたが、一言も、この事は喋らなかった。だが、卒業すると、何うしても、次の学校へ行かなくてはならぬし、父の決心が悲壮であるから

「岡山へ行って法科を受ける」

と、云っていた。

「弁護士はあかん、官吏がええ、恩給がつく」

と、貧乏で、六十歳になっても、古着を背負って、電車の無い頃の大阪の隅から、郊外の遠くへまでも歩かなくてはならぬ父にとって、恩給という事が、何んなに有難く見えたか!

「しっかりやれ、人間も、恩給もらうようになったら楽や」

国を出奔してきてから、最高収入六七十円の父は、四十年間を、働きづめに働いてきて、猶働かなくては暮らせないのである。

だから、恩給恩給、と云うが、何んと私は、岡山へ行って、試験の日、半日、旭川で、ボートを漕いでいたのである。

最初の日に、数学が出なかったなら、私は受験したであろうが、初日が、数学なので

(こらいかん)

と、度胸をきめて、予定通り、試験を受けない事にした。河田屋敷という所に、友人と下宿していたが、ボートから見上げる城がいい景色なので、朝から正午まで、川にいて戻ってきた。

(おれは、恩給取りにはなれん。不孝者だが仕方がない)

と思って、知らん顔をして帰ってきた。

「何うやった」

「駄目だろう」

「ふむ――何が悪い」

「高等学校は、中々一ぺんで入られへん。それより私立へ行った方がいい。勉強さえしたら、私立でも、官立でも一緒や」

「私立はあかん、岡山が、いかなんだら、来年もう一遍受けてみ」

薄病院の院長は

「植村、速記者になれ」

と、云ってくれた。院長を、崇拝している父は、いろいろの所で、速記者というものを聞いてきて

「あら金が儲かる。衆議院で演説するやろがな。それをあとから一寸取消してくれ、と云いに行く時、金を包んでくるのやが、これが大きい。ええ商売や、人の気のつかん商売や」

恩給が、忽ち、速記者になったが、私は対手にしなかった。

十九

当時、末吉橋東詰松屋町に、豊竹呂昇の持小屋「松の亭」というのがあった。ここに落語がかかっていた。友人に連れられて、一夕赴いたが、女剣舞師に花房百合子というのがあって、剣舞一つ、踊一つ、居合抜き、軍歌と、これだけやるが、この女に惚れた。これが、私の初恋である。

雪はちらちら降るその中を

熊本連隊十三隊

第一大隊日を定め

陸軍繰出す熊本城を

数万の弾丸飛越えて

吾兵各所に進撃す

と、いう唄を唄いながら、御下げ髪に白鉢巻、刀を抜いて踊るのに惚れたのだから、その頃から、ファッショだったのであろう。

所が、小遣がない。それで、花房が、寄席の掛けもちの為、車で走るのを、私が追っかけて――車は街路の真中を、私は、恥ずかしいから軒下を――走りながら、飽く程顔を見て、へとへとになって

(何んて馬鹿だ)

と、思ったが、これを二度やった。三度もやったら、気狂いが追っかけてくると花房は思ったであろうが、この時、花房を思う歌などを作った。これが、私の歌の最初であるが忘れてしまった。

その内に、学校は無し、弟は十歳にもなって、背負わなくてもいいし、時間が余るし、同じ落第仲間へ遊びに行く事を覚えた。同級の井上市次郎が、京町堀にいたが、ここへ遊びに行っている内に、そこから四五軒東の佐々木という家の娘の子と、親しくなった。雪ちゃんという名である。齢は十四歳。これは恋でなく、ただ可愛がっていただけであるが、その可愛がり方が、並大抵でない事は、後にかく。

この井上の母の妹が、後に私の妻となった女で、京町堀小町と呼ばれて、美人であったが、婚期を失して、二十六歳にもなって独身者であった。

二十

遊んでいても仕方無いし、遊んでいられる身分でもないので、薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。赴任地は、大和国吉野郡白銀村、白銀尋常小学校というのである。

五条の町から、山へ入ること三里半、銀峯山の中腹に建っている学校である。月給十一円五十銭。私の受持ったのは三四年生の男女である。二部教授。

教員は、校長、その次、女教員、私と四人。校長は校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と、同僚とが、山の崖っぷちに立っている小屋に等しい二間の家――二間と云っても、上り口と、その次と、六畳に二畳の家に住んでいた。食べるものは、芋、干魚、豆腐、寒い山の上なので、冬になると芋が凍っている。豆腐は固くて、五六町上の村まで買いに行くのであるが、藁で縛ってくれる。持って帰ってもこわれないから、えらい豆腐だったと、今でも感心している。

同僚は、前からいるし、私は新参だし、お菜は作るのが上手だし、炊事番は大抵私であった。時々、鹿の肉を売りにくるのと、魚屋が鮫の半干魚をもってくる位で、大抵、菜っ葉と、芋と、豆腐。この生活が八ヶ月つづいた。

所が、この学校へ勤めるという事を、その雪ちゃんに話したところ

「淋し」

と、いうのである。

「日曜日に帰ったらええやろ」

「そんならうれしい」

そこで、学校が土曜になると、山の上から三里半五条の町へ走るのである。

丁度、それで汽車に間に合って、大阪着が八時、月曜の朝早く家を出ると、学校の授業に一時間おくれてつく。その一時間は、唱歌の時間にして、時間表を変更し、同僚に頼んでおくのである。

十一円五十銭であるが、初めての月給だし私にとっては大金なんだから、嬉しかった。家は無家賃、芋や、菜は、生徒がくれるから、一ヶ月五円もあれば十分である。残りが小遣になるから、雪ちゃんに、その頃流行っていたリボンを買ったり――リボンと、週一度の汽車の往復、私はその金で、いろいろの物を買おうと、空想していたが、山を下り、山へ上るだけと、リボンとで、丁度月給が一杯であった。

私は、女に無駄金を使って、友人に

「君は、馬鹿だ」

と、今でも叱られるが、この時分から、そうであったらしい。ある日なんぞは、蜜柑を三貫目袋に入れて、背負って、山から汽車へ駈けつけ、へとへとになった事があった。花房の車と走ったり――何うも、少し、おかしな所がある。

その内に、そのおかしな私にも、ははあんと、思うことが出来た。女教員が独身者で――村の娘で、頬は少し赤すぎたが、一寸いい女なので、独身者の校長と、私の同僚とが、ライバルになったのである。

両者の睨み合いが、表面化してくると共に、そのとばっちりが私の方へ、時々くるようになった。

(何故だろう)

と、童貞であるし、十四の女を可愛がっている位だから、初めは判らなかったが、同僚が

「房江さん、君何うおもう」

と、聞いたので、すっかり、見抜いてしまった。今から考えると、娘の父親は、転々として行先の変る校長より、同僚を婿にでもして、娘を離したくなかったものらしい、娘さんは中立で、困っていたらしかった。事件の解決を見ないで、私は辞して、東京へ出たが、山の中の平和な――もし、私が、文筆で暮らせなくなったら、ああいう所へ行けば、まだまだ日本も、のんびりしていると思うている。

(然し、二十年の間に何う変ったか?)

急な山の中腹に立っているので、学校の真上に寺がある。とにかく、汽車を見た事がない生徒が多いし、飛行機の話をしたら

「先生つきよる」

と、てんで、本当にしないのだから

「先生、地獄てあると、坊さん云うてましたで」

と、何のはずみか、生徒が云ったので

「そんなものはない」

と、答えたら、真上の坊さんが怒って

「今度来た奴は生意気だ、代えてしまえ」

と、校長の所へ云って来た事があった。これだけが、私の起した事件で、相当真面目に勤めていた。そして、早大へ入る為、大阪へ帰ってきたが、ここに又、一つ、恋愛事件が起った。これが、私の最初のそれかも知れない。

二十一

女が死んだか、生きているか――生きているとすれば正当に考えると、人妻であろうから、姓を秘して、徳子という名だけにしておく。世の中には、朝出て行く時、鏡台の前のポマードの分量を計って、帰ってきて、それが少いと

「男につけてやったのだろう」

と、食ってかかった夫もあるというから、二十年前のいとも優しく、清らけき恋にも、何ういう誤解があるかも知れない。

徳子は、大阪谷町の薄病院にいた。私が遊びに行くと一人の鼻の高い女――少うし高く、厚すぎる鼻の女が――足の短かいせいであろう、椅子の前へ、踏台を置いて、それへ足をかけながら、薄恕一のいう薬の名と、分量とを、処方箋にかいていた。若い女だから、何より先に、その顔が見たくなって、前へ廻ると、鼻は、横から見る程巨大な感じではなく、やや、八の字の眉、円い眼。中々いい女である。

青春期の男女や、貴族、上流の婦人は、広く交際をしないから、すぐ手近い所の異性で済ます癖のある物であるが、私の前へ現れた女性として、私の齢に合うのは、この人だけである。

然し、私は、何事も、貧乏人的に育ってきたから、こうした女と恋をしようなどとは、決して、考えていなかった。

所が、ある夜薬局にいると一枚の処方箋を、徳子さんがもってきたが、その中に、散薬を包む四角い紙が入っていた。そして、その中に

「私は貴下が好きです」

と、書いてあった。私は、私の身体が、熱くなって、少しぼう張したように感じた。ああいう女が、女の方から、私に云いよるなんぞ、それは、何かの間違いではなかろうか、何うして返事を――何ういう文句で、何うして、それを手渡すか?

「私も、貴女が好きです」

という紙を、然し、次に徳子さんが、処方箋をもってきた時に、巧みに、人目に見つからぬよう渡した。

所が、この散薬紙での文通以外、話する事も、何うする事もできない。それで、私は、患者の来ぬ昼間、病院へ出かけて行って、話する事にした。然し、そうなると徳子さん程の女と、徳子さん程の女に思いつかれる程の男とだから、忽ち、評判になって、一日行って見ると、徳子さんが居ない。

大事にならぬ内にと、神戸の家へ返さしてしまったのである。

私は、病院を出ると、徳子さんから聞いていた武庫川の堤近く――芦屋の、徳子さんの家へ尋ねて行った。今の芦屋とはちがうから、何処の家にも、猛犬がいた。これが、がんがん吠える中を、訪ねて行ったが

「神戸の家にいなけりゃ多分、友人の宅にいるでしょう」

「友人の家は?」

「何処そこ」

それから、神戸の家へ行くと

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