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大菩薩峠 17 黒業白業の巻
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大菩薩峠 17 黒業白業の巻
中里介山
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Chapter 1 of 20

一

八幡村の小泉の家に隠れていた机竜之助は、ひとりで仰向けに寝ころんで雨の音を聞いていました。雨の音を聞きながらお銀様の帰るのを待っていました。お銀様は昨日、そっと忍んで勝沼の親戚まで行くと言って出て行きました。今宵はいやでも帰らねばならぬはずなのに、まだ帰って来ないのであります。

お銀様は、竜之助を連れて江戸へ逃げることのために苦心していました。勝沼へ行くと言ったのも、おそらくは親戚の家を訪わんがためではなくて、いかにして江戸へ逃げようかという準備のためであったかも知れません。

こうして心ならずも小泉の家の世話になっているうちに、月を踰えて梅雨に打込むの時となりました。昨日も今日も雨であります。明けても暮れても雨であります。ただでさえ陰鬱きわまるこの隠れ家のうちに、腐るような雨の音を聞いて竜之助は、仰向けに寝ころんでいるのであります。

雨もこう降っては、夜の雨という風流なものにはなりません。竜之助はただ雨の音ばかりを聞いているのだが、一歩外へ出ると、そのあたりの沢も小流れも水が溢れて、田にも畑にも、いま自分の寝ている縁の下までも水が廻っていることは知らないのであります。

梅雨になるまでには、花も咲きました、木の葉も青葉の時となったことがありました、野にも山にも鳥のうたう時節もあったのだけれど、それも見ずに雨の時節になって、その音だけが耳に入るのであります。

竜之助とお銀様との間は、なんだか無茶苦茶な間でありました。それは濃烈な恋であったかも知れないし、自暴と自暴との怖ろしい打着かり合いであるようでもあるし、血の出るような、膿の出るような、熱苦しい物凄じい心持がここまでつづいて、おたがいにどろどろに溶け合って、のたりついて来たようなものであります。おたがいに光明もなければ、前途もあるのではありません。

今、お銀様に離るることしばし、こうして雨を聞いていると、竜之助の心もまた淋しくなります。この人の心が淋しくなった時は、世の常の人のように道心が萌す時ではありません。むらむらとして枕許に投げ出してあった刀を引き寄せて、ガバと身を起しました。例によって蒼白い面であります。竜之助が引き寄せた刀は、神尾主膳の下屋敷にいる時分に貰った手柄山正繁の刀であります。それをまた燈火に引き寄せてはみたけれど、さてどうしようというのではなし、茫然として坐り直して、刀を膝へ置いたばかりであります。

その時に家の外で、急に人の声が噪がしくなりました。

「危ねえ、土手が危ねえ」

という声。

「旦那様、笛吹川の土手も危ないそうでございます、山水も剣呑でございます、水車小屋は浮き出しそうでございます、あらくの材木はあらかたツン流されてしまいました、今にも山水がドーッと出たら大変なことになりそうでございます、誰も今夜は、寝るものは一人もございません」

小泉の主人にこう言って注進に来たのは、小前の百姓らしくあります。洪水の出る時としてはまだ早い、と竜之助は思ったけれども、この降りではどうなるか知らんとも思いました。

笛吹川はこれよりやや程遠いけれど、それへ落つる沢や小流れの水が、決して侮り難いものであることは、竜之助も推量しないわけではありません。

ことに山国の出水は、耳を蔽い難きほどの疾風迅雷の勢いで出て来ることをも聞いていないではありません。不幸にして山国とだけは心得ていても、この辺の地形についてまるきり観測の余地のない竜之助は、果して出水がどの辺に当って起り、どの辺に向って来るんだか、充分に呑込めていないのでありました。白刃の来ることと、天災の来ることとはあらかじめ測ることができません。いま出水の危険を外に聞いた竜之助が、それと共に自分の立場を考え出したことは、そうあるべきことであります。しかし、それはただ立場を考えただけに過ぎません。盲目的に考えてみただけに過ぎません。ここに引き寄せた手柄山正繁の刀が、それに向って何の役に立つものでないことはよくわかっているはずであります。この時に外で殷々と半鐘を撞き鳴らす音がしました。人の騒ぎ罵る声は、いよいよ喧しくなりました。思うに蓑笠を着けた幾多の百姓連が、得物を携えて出水出水の警戒に当るらしくあります。村の中心ともいうべきこの小泉家へ、それらの百姓がみんないったん集まって、それぞれ部署につくもののようであります。この家では一人残らず起きて、それらの百姓たちの差図や焚出しなどをはじめて上を下へと騒いでいるのが、竜之助には手に取るようにわかりますけれど、誰も竜之助のところへは面を出すものがありません。手を貸せと言って来る者もなければ、御心配なさいますなと言って見舞うものもありません。この二人のことは、もうこのごろでは小泉家の誰にも、この急に当って思い出されないほどに、交渉が少ないかかり人でありました。

「この水で、お銀は道を留められた、それで帰られないのじゃ、してみれば……」

と竜之助は、はじめてお銀様のことを思いやりました。

外の騒ぎはますます大きくなって、気のせいか、轟々として水の鳴り動く音さえ聞えて来るのであります。竜之助は刀をそこへ置いて立ち、障子をあけて縁側へ出て、雨戸を少しばかりあけて外を見ました。外を見たところで、この人の眼には内と同じことに、真暗な闇のほかに何も見えるのではありません。

しかしながら、外はドードーと雨が降っています。風はあまりないようでありましたけれど、どこかの山奥で、海嘯のような音が聞えないではありません。その近いあたりは、なんでも一面の大湖のように水が張りきってしまったらしく、その間を高張提灯や炬火が右往左往に飛んでいるのは、さながら戦場のような光景でありました。その戦場のような光景はながめることはできないながら、その罵り合う声は、明瞭に竜之助の耳まで響いて来るのであります。

その騒がしい声と、穏かならぬ光景とを聞いたり想像したりしてみても、空しく気を揉むばかりであります。

竜之助は雨戸を立て切って、また前のところへ帰りました。この出水も気になるし、お銀の帰りも気になるけれど、なんとも詮術はありません。竜之助は一人で蒲団を取り出して、荒々しくそれを展べて横になりました。外では半鐘の声がしきりなしに聞えるのに、内では、これもまだ早かろうのに一二匹の蚊が出て、ぶーんと耳許で唸りました。それを掌で発止とハタいて打ち落し、うつらうつらと枕に親しみかけました。

けれども、外はその通りに騒がしいのに、今や全村の犬も鶏も声を揚げてなきだしました。人畜ともに寝ることのできない晩に、竜之助とても安々と眠るわけにはゆきません。ただ横になったというだけで、外の騒ぎを聞き流していようというのであります。

この東山梨というところは、言わば全体が笛吹川の谷であることは竜之助もよく知っていました。三面から翻倒して来る水が、この谷に溢れ返る時の怖ろしさも、相当に峡東の地理の心得のある竜之助にとっては、理解ができないでもありません。

しかし、この時分になっては竜之助は、天災の来ることを怖れるよりは寧ろ、山が大きな口をあいて裂け、我も、人も、家も、獣も、ことごとくブン流されてみたら面白いだろうという空想に駆られて、かえって外の騒ぎを痛快に思うような心持でいました。外の騒ぎもようやく耳に慣れた時分に、竜之助は眠りに落ちました。

「もし、お客様」

竜之助が眠った時分になって、誰やら家の外から叫びました。

「もし、お客様」

見舞に来るならば、もっと早く、まだ眠らない時分に来てくれたらよかりそうなものを、いくら食客だからといって、今まで一人で抛って置いて、ようやく眠りに就いたのを起しに来るとは、大人げないと思えば思えないでもありませんでした。

「あ、誰だ」

と、眠りかけていた竜之助は、その声で直ぐに呼び醒まされました。

「御用心なされませ、今夜はお危のうございます」

「危ないとは?」

「こんなに水が出て参りました、山水がドッと押し出すとお危のうございますから、本家の方へおいでなさいまし、お待ち申しておりまする」

「それは御苦労」

「どうか直ぐにおいで下さいまし」

と言い捨ててその者は行ってしまいました。よほどあわてていると見えて、家の外からこれだけの言葉をかけて、その返事もろくろく聞かないで取って返してしまいました。

竜之助はあえてその言葉に従って、本家の方へ避難をしようという気は起しませんでした。寧ろ起き直ってみることさえも億劫がって、せっかく破られた夢を再び結び直すのに長い暇を要することなく、村のあらゆる人々の恟々たる一夜を、ともかく熟睡に落ちていた竜之助の安楽も長くはつづきませんでした。

不意に夥しい叫喚が耳に近いところで起り、つづいて雷の落つるような音がして、家も畳も一時に震動すると気がついて、手を伸ばして枕許の刀と脇差とを探った時に、手に触れたものはヒヤリとして、しかも手答えの乏しいもの。

「水だ!」

畳の上を水が這っています。

刀と脇差とを抱えて立ち上った時に、水は戸も障子も襖も一時に押破って、この寝室へ滝の如くに乱入しました。

あっという間もなくその水に押し倒された竜之助の姿を見ることができません。

山水の勢いは迅雷の勢いと同じことであります。あっという間に耳を蔽うの隙もありません。

裏の山からこの水を真面に受けたこの家の一部を、メリメリと外から裂いているうちに余の水は、もう軒を浸してしまいました。水が軒を浸す時分には、家の全体が浮き出さない限りはありません。この水は漫々と遠寄せに来る水ではなく、一時にドッと押し寄せた水ですから、土台の腰もまた一時に砕けて、砕けたところを只押しに押したものだから、家はユラユラと動いて流れ出しました。

四辺は滔々たる濁流であります。高い所には高張や炬火が星のように散って、人の怒号が耳を貫きます。

「助けて!」

という悲鳴が起ると、

「おーい」

と答える声はあるけれど、どこで助けを呼んでどこで答えるのだか更にわかりません。

避難すべき人は宵のうちから避難し尽したはずであるのに、なお逃げおくれた者があると見えて、彼処の屋根の上や此処の木の枝で、悲鳴の声が連続して起ります。多くの家や小屋が、みるみる動き出して徐ろに流れて行きます。

そのなかの一つの屋根の羽目がこのとき中から押破られて、そこに姿を現わしたのは、いったん水に呑まれた机竜之助でありました。破風を押破った竜之助は、屋根の上へのたり出でたもののようです。それでも刀と脇差だけは、下げ緒で帯へしかと結んでいたものらしくあります。屋根へ出ると菖蒲の生えていた棟へとりつきました。そこでホッと息をついて、自分の面を撫でてみました。頬のあたりから血が流れている、何かのはずみに怪我をしたものらしい。手足も身体中もしきりに痛むけれども、今どこにドレだけの怪我したものかわからないのであります。

とにもかくにも屋根の棟へとりついた竜之助は、そこでホッと息をついて面を撫でてみたが、その創の大したものでないことを知り、水に浸ったわが身を身ぶるいしたのみであります。四辺の光景がどうであるかということは一向にわかりません。またいずこに向って助けを呼ぼうとするものとも見えません。ただ自分を載せているこの家が、徐々として動いていることがわかります。出水の勢いは急であったけれど、家の流される勢いはそれと同じではありません。

続け打ちに打つ半鐘の音は、相変らずけたたましく聞えるけれども、さきほどまで遠近に聞えた助けを求むる声と、それに応うる声とはこの時分は、もうあまり聞えなくなりました。面憎いことは、この時分になって雨の歇んだ空の一角が破れて、幾日の月か知らないけれども月の光がそこから洩れて、強盗提灯ほどに水の面を照らしていることであります。

その月の光に照らされたところによって見れば机竜之助は、屋根の棟にとりついたまま、さも心地よさそうに眠っていました。月の光に照らされた蒼白い面の色を見れば、眠っているのではない、ここまでやっとのたり着いて、ここで息が絶えてしまったのかも知れません。屋根はそのままで流れてはとまり、とまっては流れて、笛吹の本流の方へと漂うて行くのであります。

屋根は洪水の中を漂って行くけれど、それはほかの家につっかかり、大木の幹に遮られ、山の裾に堰き留められて、或いは暗くなり、或いは明るくなり、或る時は全く見えなくなったりして、極めて緩慢に流れて行くのであります。

Chapter 1 of 20
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