三
「俺は弱過ぎる。なぜかう人を求めるのか。後で必ず後悔する事が分つてゐるのに。」
裕佐は何遍も自分にかう云つた。そして時々後ろを振り向いた。背の高い孫四郎が群衆の上に延び上つて、その蒼ざめた小さな皮肉な顔で笑ひながらどこ迄も自分の跡を見送つてゐるやうな気がしてならなかつた。彼はその視線を背中に感じてムズ/\するやうに体を顫はした。「行列を盗み見てゐるあの眼のあやしさを見ろ、わしが誘惑するもないもんだ。へ、あの猫被り奴。」こんな事を何もかも見抜いたやうな調子で細君に云つてゐる孫四郎を後ろに想像すると、彼はたまらない悪感を感じ乍らも、不思議にその予言に支配されるやうな気がしてならなかつた。
然し大股に急ぐ彼の歩調はいつの間にかのろくなり勝ちだつた。眠むくてたまらぬ者が気がついては眼を無理に開き乍らもつい居睡りをする様なものであつた。何とも云へぬ淋しさが重い黒雲の様に上から彼の頭を抑へつけてゐた。自分を信じない者が唯孫四郎に止まるなら「あんな奴に俺の何が分つて堪るものか」と平気でゐられる。併し孫四郎の冷たい表情の裏には同じ相好の運命の顔があるやうな気がした。それを自分の莫迦らしい気の故であるといかに思ひ、その不快な幻影を払ひ退けようと頭を打ち振り乍らも脳裡にこびりついた孫四郎の顔は只孫四郎の顔とは思へず、その皮肉は只孫四郎の皮肉とは思へなかつた。此方が力なく反抗すれば向うは更に恐ろしい声で「あいつに何が出来るか、へツへ!」と反響し相に思はれた。
彼はステッキで堅い地を叩き、咳払とも、叫びともつかぬ声をしぼり出して空を仰ぎ、そして歩いた。通りでは遊女の列にからかふ男の下等な笑ひ声や、甲高い気違ひじみた女の声が聞こえた。一種の本能で裕佐はその行列を見るのはいやだつた。それで小路に入つた。しかし何方へ向つて? 彼は自分の家の方へは行かなかつた。彦山の中腹を少し降りた処に父の建てた自分の古家。六十になる出戻りの伯母と二人で彼が住んでゐるその家には朝日はよく照るのだつた。日が照つてゐる間そこは彼にとつて真に落ちつける唯一の温い自家であり、「道場」であつた。彼はそこに祀つてある「伎芸天」と共に暮して少しも淋しくなく、孤独の楽しみに充実して酔つてゐる事が出来た。しかしそこは画の家である。日が向ひの稲佐嶽に隠れて、眼下の町々にちらほら灯りが瞬き始め、さら/\と云ふ夕の肌寒い風が障子の穴から忍び込むが否や、彼に全く新しい第二の一日と世界とが始まり、彼は落ちつきを失ふのだつた。天上に二三の星が何かを招くやうにきらめき、地上にぽつ/\と明りが光りそめる事は朝赤児が眼を明くのと同じ新鮮な感じで彼ををのゝかすのであつた。かくて夜の世界の不安と寂寥と、戦慄と魅力とが魔の如く彼を襲ひ、捕へた。魔に捕へられる事は恐るべき苦痛であり、又寒い喜びであつた。何かが抵抗すべからざる力で若い彼の心臓を湧き立たせ、真昼の端正な「伎芸天」迄が妖艶、婀娜な姿に変じて燃える眼で彼を内から外へ誘ひ駆りたてるのであつた。
その家に帰る事は思つた丈けでも恐ろしい苦痛な事であつた。それが苦痛でなくなる迄彼は外で、夜の世界で、疲れ切らなければならなかつた。
彼は大波止の海岸の方へ向つて浜から来る汐臭い秋風に顫へながら歩いた。毎も其処を通る毎に癖のやうに引きずられて立寄るシナ店の前をも彼は今気がつかずに通り越してゐた。
彼は海岸へ出た。蕭条たる十一月の浜辺には人影一つなく、黒い上げ汐の上をペラ/\と撫で来る冷風のみが灯りを点けた幾十の苫舟を玩具のやうに飜弄してゐた。岸に沿つて彎曲してゐる防波堤の石に腰かけて杖を垂らせばその先きの一二寸は楽に海水にひたる。犇々と上げくる秋の汐は廂のない屋根舟を木の葉のやうに軽くあふつて往来と同じ水準にまで擡げてゐる――彼はそこに腰をかけた。
海に突き出して一つの城廓のやうに館が右手に見える。点々たる星の空の下にクツキリと四角に浮き出すその家の広間の中は、煌々としてどの位明るいのかと想はれる。たしかに白昼よりも明るいにちがひない。しかも何と云ふ物々しい、無気味な明るさであらう。そこには人の家らしい落ちつきや、幸福は微塵もない。島を囲む黒い漣がぴたぴたとその礎を洗ふ如くに、夜よりも闇い無数の房々がその明るい大広間を取り巻いてゐる。そこからは落寞たる歓楽の絃歌が聞こえ、干乾びた寂しい笑ひ声が賑やかに洩れて来る。――それは普通和蘭屋敷と呼ばれてゐる「出島の蘭館」である。
裕佐はその異様な家の方に向つて歩き出した。そして歩き乍ら彼はキヨロ/\と四辺を物色した。孫四郎を彼は探してゐたのである。出島へ渡る為めには艀に乗らなければならない。艀の渡し守は奉行から遣はされてゐる侍である。異国人と、遊女と、仏僧の外そこへ行く事の許されぬ禁錮の島へ孫四郎の行く訳はない。「どうせ嘘にきまつてゐる。あの道楽者が今更らしくこんな処へ絵なぞ描きに来るものか。」と彼は思つた。しかしさう思つて振り返つた瞬間、彼は大きな、白い、首の長い一つの顔を見たやうな気がしてギヨツとした。彼は身顫ひし、そして怖い物見たさのやうにもう一度それを見た。それは番小屋の後ろから高く首のやうに突き出た新しい白木の高札であつた。
ばてれんの訴人 銀三百枚
いるまんの訴人 銀二百枚
立ちかへり者の訴人 同断
同宿並にかくし置き他より顕はるるに於ては――云々
の文句が威脅するやうに墨黒々とそれに書かれてゐる。それは人間の書いた字ではなく、鬼の書いた字のやうに思はれた。「ばてれん」とは教父、宣教師の事であり、「いるまん」とは法の兄弟即ち準宜教師の事であり、「立ちかへり者」とは一旦宗門を転んで再び切支丹に帰つた者のことである。
「誰だ。」歩いてゐた侍は寒むさうに腕をこすり乍ら訊いた。
裕佐は返事をしなかつた。
「何者だ。」
「鋳物師だ。」
「鋳物師とは何だ。」
「銅を鋳る工匠だ。」
「銅を鋳る。そして何をつくる。」
「何でも、富士山でも、君の首でもつくる。」裕佐は一寸からかひ度い気持ちになつた。
「貴様よく来るな。島へ行き度いのか。」
「或る女を見度いんだ。だけど行つちや上げないよ。」
そして彼が去らうとした時、眼の前にあつて手に取るやうに猥らな高声の聞こえて来る和蘭屋敷の二階に女の叫び声が聞こえて、けたゝましい跫音と同時に大きな菊の鉢が窓から落ちた。そして石に砕ける音がした。一時森とした後、猫を抱いた日本の女の小さい顔と、その上にのしかゝつた恐ろしく巨きな毛むくぢやらの男の顔とが現はれ、そして彼等は何かいがみ合ひ乍ら笑つて、赤いカーテンをおろした。